2015年7月27日月曜日

西南戦争と折田年秀(3)『セルポート』150621号


西南戦争と折田年秀(3)政府の苦悩

 
◆西郷の関与  政府は鹿児島の不穏な動きに神経をとがらせていた。内務卿大久保利通は、暴動が全国に飛び火することを警戒し、追討令と陸海軍動員の準備を進めることとした。

128日、陸軍卿山縣有朋は、熊本鎮台司令官谷干城に鹿児島の動きを伝え、防備強化を指示した。

25日、神戸京都間鉄道開通式が天皇臨御のもと盛大に行われた。

大久保は、陸軍大将西郷隆盛が暴動に関与しているとは思えなかった。西郷が「名分」を大事にする男であることを知っていたからである。大久保は27日付の伊藤博文宛の書簡で、「鹿児島の暴発は桐野利秋以下の行動に相違なく、西郷はこのような軽挙をするはずがない」と書いた。

27日、海軍大輔川村純義が、高尾丸で神戸から鹿児島へ向かった。西郷も川村に会いたかったが、私学校党が妨害したため、二人は面会できなかった。

29日、大久保は、鹿児島県庁から派遣された渋谷彦助から「西郷は、決起を求められたが、同意せず、急進派への説諭も効果がないとみて姿を隠した」との報告を受け、右大臣岩倉具視に伝えた。岩倉は「天下大幸」と返信した。後に、渋谷報告は虚言であることが判明した。

210日、近衛歩兵、東京鎮台、大阪鎮台に神戸で待機するよう命令が下った。

12日、閣議で、大久保を京都に派遣することを決めた。天皇は京都にいたので、政府首脳も東京と京都に分かれていた。

15日、折田は日記に「昨今より近衛兵幷に海軍等、追々繰り込みたり、大凡四千人なり、軍艦も同断、入津に及候」と書いた。

 15日朝、薩摩軍が鹿児島を出発した。

◆勅使派遣  

16日、海路神戸に着いた大久保は、伊藤、川村と会見し、対応を協議し、その夜、大久保と伊藤は汽車で京都へ行った。太政大臣三条実美の宿での会議で、大久保は「自分と西郷は子供の時から家族同様につきあってきた。西郷の心を知るものは自分以外にない。自分が鹿児島に行き西郷に直接説得すれば私学校党を抑えられる」と説いた。伊藤が反対した。大久保に万一のことがあれば、内務卿としてこの難局を乗り切れる人物はいない。岩倉も自ら勅使に立とうとしたが、周囲から止められて断念した。

折田は「大久保内務卿、16日東京より着津、当日上京なり」と日記(217日)に書いた。

 17日午前9時、三条、内閣顧問木戸孝允、大久保、伊藤が御所内の小御所に集まり協議し、鹿児島へ勅使を派遣することを決め上奏した。

天皇は勅使に有栖川熾仁親王を任じた。親王は18日に明治丸で神戸を発ち鹿児島へ向うこととなり、護衛として、野津鎮雄少将(薩摩)と三好重臣少将(長州)が、騎兵一中隊、歩兵四大隊、軍艦1隻を率いて行くことになった。

そこへ、熊本鎮台から「鹿児島暴徒の先鋒、既に県下に闖入」「将に戦端を開かんとす」との急報が入った。勅使派遣は中止となった。

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