2016年7月10日日曜日

『豪商神兵湊の魁』神戸開港効果(『セルポート』160501/1521/0601/0611/0621/0701/0711号)


『豪商 神兵 湊の魁』(12)~「志摩三商会(2)」~ 

◆三田藩主従  明治511月、三田藩最後の藩主九鬼隆義は、家臣たちと神戸に移住し、花隈に豪邸・宣春園を構えた。

明治63月、九鬼は栄町3丁目に「志摩三」(通称「志摩三商会」)を設立した。社屋は立派な洋館であった。総裁は九鬼、社長は白洲退蔵、副社長は小寺泰次郎と岩根静蔵で、社員は旧三田藩士であった。

白洲は三田藩の元家老で、白洲次郎の祖父である。

三田藩足軽町生まれの小寺は、幕末、九鬼に才能を見出され、三田藩の財政改革に辣腕を振るった。小寺は、生田川付替え跡地取引で巨利を得て、九鬼とともに長者番付に載った。「相楽園」は、小寺の元邸宅である。

取扱商品  志摩三は「医学西洋幷ニキカイ所」である(『湊の魁』)。志摩三の「入品台帳」に、仕入れ先と商品が次のとおり記録されている。

丸屋・白ブドウ、ジン、ランプ、

笹屋・ビール、ウイスキー、マッチ、

和泉屋・ガラス水呑、白糸巻、泉正・シャツ、手袋、

加賀屋・香水、

函館屋・舶来洋服、靴、

橘屋・ズボン吊り」である。他に、ミルク、バター、チーズ等注文もあった。

輸入洋品、食品だけではない。志摩三は不動産業(土地山林売買)業と貸金業を行っていて、主な収益源は、不動産業と貸金業であった。

さらに、志摩三は、海運業、北海道回船問屋を行い 越後では石油採掘精製事業まで手を広げていた。美嚢郡では土地500町歩を購入して肉牛飼育を計画していた(高田義久『三田藩士族』)。

◆地下銀行  社員の村上俊吉は、著書『回顧』(警醒社、大正元年)で志摩三の実態を記録している。村上の実家は代々小田原藩医で、村上は15歳の時、三田藩江戸詰め医師村上恒庵の養子になり、文久2年正月、三田に来て藩校造士館で学び、明治7年に志摩三の社員になった。

志摩三は「店の一部は薬店であるが、地下金銀を取り扱う今の銀行の如きもので、異なるところは公衆の金銭を預からぬのみである」(村上「上掲書」、以下同)

 九鬼はキリスト教に傾倒し、米国人宣教師の布教活動を物心両面で支援していた。

「数年を経ずして同会社員は九分まで信者になった」。

「受洗せなんだのは、白洲、小寺両氏のみである。而してみると、志摩三は信仰に於いては成功したものと言って可なりである」。

◆日曜休日制  志摩三は「日曜を休日と致し、同日は10時から3回に集まり、些か宗教的意義を含みたる会合の下に、雑談を試むるを例とし、会社員は宛然官吏の如くであった」。

「外形は万事洋風を模擬したる一大會社の如くであるが、内実の商況如何といへば、藩政改革時代に敏腕を振るった白洲氏も、所謂士族の商法で、馴れぬ商業に対しては、噴飯に堪へぬ事も多かったであろう」。

明治11年、小寺が独立し、15年、白洲が横浜正金銀行へ転出した。「数年の後に至って、地下金銀の業は成功したが、薬種の方は失敗し志摩三は九鬼家に納められた」。

明治20年志摩三は、九鬼家が引き取った。
 
 

『豪商 神兵 湊の魁』(13) 小寺泰次郎

◆小寺泰次郎と白洲退蔵  最後の三田藩主・九鬼隆義が抜擢した白洲退蔵と小寺泰次郎は、藩政改革に大きな功績を挙げた。領民は二人を「三田の二タイ」と呼び畏敬した。「大タイ」は白洲、「小タイ」は小寺である。一言で評価すれば、白洲は「大忠臣」、小寺は「天才的錬金術師」といえる。

白洲家は、三田藩校儒官・教授職の家系である。白洲を高く評価した九鬼は、白洲に藩政に就くよう礼を尽くして依頼し、家老級で遇した。現在でいえば、市立大学の教授を市の副市長級にするようなものである。白洲は、九鬼に忠誠を誓い、必要なときには諫言し、生涯を九鬼のために尽くした。模範的な忠臣である。

小寺は三田藩足軽町生まれである。幼少のころから秀才として知られていた小寺は、安政2年、九鬼に三田藩の「郷方役」に取り立てられ、その後、長く「代官役」を務めた。郷方役、代官役は、現在でいえば、税務職である。小寺は、その役職に10数年在職したことから小寺の手腕がわかる。

明治5年、九鬼は、白洲、小寺とともに神戸に移住し、63月、栄町に商社・志摩三を設立し、自ら総裁に就任した。月給は社長の白洲が40円、副社長の小寺が25円である。明治7年の巡査初任給は4円であるので、現在の価値に換算すると、白洲の月給は約200万円、小寺は約125万円となる。

◆土地購入  明治65月、加納宗七による生田川付替え跡地整備事業が竣工した。けれども、売り出された土地には買い手がつかなかった。小寺が安価で大量に購入した土地は志摩三に巨利をもたらした。

 明治9年、小寺は中山手5丁目に2haの広大な土地を購入した、小寺は、後に、ここに豪邸を立て住居とする。現在の相楽園である。志摩三副社長といえども、給料だけではこれだけの広大な土地を買える金があるはずがない。小寺が土地購入資金をどのようにして調達したかは謎である。

◆小寺独立  明治11年、小寺は志摩三を退社した。独立したほうが、金が儲かると判断したからであろう。小寺は神戸の土地を買いあさった。後に、三宮町1~4丁目は、ほとんどすべて、小寺の土地と言われたほどである。小寺は「世の中、阿保ばっかしやから、儲かってしゃあない」と豪語した。

◆第一回神戸市長選挙   小寺は、明治38年に没するまでに、県会議員、神戸区会議員、神戸市会議員、神戸市会議長等を歴任した。

小寺は、明治22521日の第1回神戸市長選挙では、キングメーカーの役割を果たした。当時の市長選挙は、市会議員による間接選挙であった。神戸からは、県官の鳴瀧幸恭、兵庫から豪商神田(こうだ)兵右衛門が立候補した。市会議員は真っ二つに割れた。土壇場で、小寺が動いた。小寺は鳴瀧と神田に本音を打診した。温厚な神田は争うつもりはなかった。議員はだれもが、鳴瀧の吏才が市長職に必要であること知っていた。

こうして、鳴瀧が初代市長に、神田が初代議長になった。

『豪商 神兵 湊の魁』(14) 『湊の魁』刊行前後の神戸

◆神戸開港  『豪商 神兵 湊の魁』(明治1511月)は、神戸・兵庫の「商工名鑑」である。同書所収の574事業者の業種と住所から、当時の神戸の「開港効果」が読み取れる。神戸では「隣人は外国人」であったので、住民は外国人の生活文化を抵抗なく吸収していた。

◆雑居地  開港日、居留地は工事中であった。開港勅許が遅れたため、幕府は居留地建設に着工できなかった。外国人は「居留地外居住」を認めるよう政府に要請した。政府は、外国人と日本人が混住できる「雑居地」を設けた。生田川と宇治川、山麓と海岸に挟まれた区画である。

◆居留地  永代借地権が競売に付された。第1回競売(明治元年7月)36区画、第2回(明治24月)25区画、第3回(明治34月)60区画、第4回(明治62月)5区画、計126区画である。

 国別落札区画数は、イギリス6450.8%)、ドイツ2318.3%)、オランダ1511.9%)、アメリカ11、フランス11、イタリア1、行事局1である。イギリスが半分超を占めている。

 中国人は雑居地に土地を求めた。清が日本との締約国ではなかったので、競売に参加できなかったからである。戦前、海岸通は中国人の商館が立ち並んでいた。

◆神戸区・神戸市  明治4年、生田川が付け替えられた(6月)。居留地の東を流れていた生田川は、しばしば氾濫して居留地を水浸しにしたため、外国人が兵庫県に堤防整備要請をした。県が河口を900m東に移した。

明治5年、湊川神社が、全国からの寄付と、住民の勤労奉仕で創建された(5月)。7月に予定されていた神社への行幸は、前日になって、悪天候のため中止となった。

 明治6年、栄町通が完成した(11月)。命名は翌71月である。生田川付替え跡地の市街地整備事業が竣工した。

明治7年、神戸・大坂間の官営鉄道が営業を開始した(5月)。

明治8年、米国人女性宣教師が、山本通に神戸英和女学校(後、神戸女学院)を創設した。

明治10年、「神戸・京都間」鉄道開通式が開催された(2月)。その10日後、西南戦争が勃発し、弁天浜の専崎弥五平邸に兵站基地「運輸局」が設置された。神戸は戦争特需でにぎわった。

明治12年、「第一区」(神戸)と「第二区」(兵庫)に坂本村を合わせ、「神戸区」が発足した(1月)。 

明治15年、『豪商 神兵 湊の魁』が刊行された(11月)。

明治17年、「神戸又新日報」が創刊された。

明治22年、葺合村、荒田村、神戸区が合併し「神戸市」が誕生した(4月)。

◆開港効果  安政条約上の開港場は兵庫であった。

幕末、兵庫は、西国街道の宿場町、北前船の拠点「兵庫津」として繁栄していた。住民は、変革を伴う開港を望まなかった。政府は神戸を開港場とした。開港が神戸の将来を「国際都市」と運命づけた。

明治10年頃、経済力で神戸が兵庫を凌駕した。以後、その差は広がるばかりであった。


『豪商 神兵 湊の魁』(15)「開港効果」(神戸と兵庫)

◆開港効果  「一条の湊川、両港の人情、風俗、嗜好、習慣を異ならしむ」(『神戸開港三十年史』明治31年)。

明治121月に発足した神戸区は、湊川により神戸と兵庫に分断されていたため、お互いに、ほとんど交流がなかった。

◆『神戸開港三十年史』『豪商 神兵 湊の魁』  「神戸区」の商工名鑑である『魁』には、574事業者の業種、店舗スケッチが住所別に紹介されている。

『魁』から、神戸における「開港効果」を確認できる。それは、もし神戸が開港していなければ、神戸に立地していなかったと考えられる業種が立地していることである。兵庫には、目に見える開港効果はない。

上掲『開港三十年史』によれば、兵庫と神戸の違いを次のとおりである。

・「兵庫は(略)、西摂唯一の商業地として既にその基礎を固くす」。

・「変遷を感受するの速度に於て、兵庫は神戸に比して、遅速緩急の差ありし」。

日本のほとんどの街が、ゆっくりと新しい時代に対応しようとしていた。神戸をはじめとする開港場の変化が極めて早かったのである。

・「神戸の商業は内外貿易なるを以て、社会の発達とともに其旺盛を加へ、社会の運輸交通の便開くるに随ふて、神戸の商業は其繁盛を来すに反し、兵庫の商業は、米穀、肥料等の取扱いに過ぎざれば、運輸交通の便なるに随ふて、却て従来取扱たる貨物の集積地たるの利失ふの傾向あればなり」。

・「兵神両港の商業は、全くその性質を異にせるを以て、両港商人の気質に於いても、一方をしてますます進取的に、一方をして勢い保守たらざるを得ざらしむるの理由ありて存するなり」。

・「明治十二・三年迄は、神戸は、兵庫の神戸、として知られ、巳にして神戸の発展するや、兵庫は却て、神戸の兵庫、として目せられる」。

 開港が神戸をどのように変えてきたか(開港効果)については、『開港三十年史』にみるように、主として文章で記述されている。『魁』では、業種と住所が明記されているので、神戸と兵庫における町別の事業者分布を知ることができる。『魁』は、かつての兵庫と神戸の違いを読み解くうえで重要な史料なのである。

◆神戸と兵庫の事業者  『魁』から、神戸開港効果を次の3つの業種に分類し分析する。

①神戸だけに立地していて、兵庫にはほとんどない業種パン・ビール製造、写真店、西洋家具、西洋洋品・小物、西洋反物、ラシャ、靴製造、レストラン、生肉商、缶詰、石鹸、輸入医薬品、人力車製造、ペンキ製造、代言人、輸入医薬品、輸入機械、コーヒー輸入業、外国人向けに英語・ローマ字看板を掲げた土産物店等である。

②神戸にも兵庫にも立地しているが、神戸に圧倒的に多く、兵庫には少ない業種船客荷物取扱所、貿易茶商等である。

③神戸には立地しておらず、主として兵庫だけにある業種米穀取引所、穀物組合、肥物仲買、生魚塩干物、材木問屋、船大工、船舶製造所、碇、帆、船舶用品・船具、度量衡製造販売である。

 
    『豪商 神兵 湊の魁』(16)「開港効果」(西洋洋品小売店)
西洋洋品小売   『豪商 神兵 湊の魁』は明治15年の「神戸区」商工名鑑と位置付けられる。『魁』は、神戸区を湊川以東(神戸)と以西(兵庫)に分けている。

 開港で、神戸に国内各地から多くの人々が集まってきた。新来住民は、身近にいる外国人のライフスタイルを受け入れ、西洋の文物を抵抗なく吸収した。神戸では「隣人は外国人」であった。

 西洋洋品小売店は、兵庫にはなく、神戸には12軒が立地していた。元町通1丁目「西洋物諸品」袖岡喜兵衛、5丁目「西洋反物羅紗ケット処物賣捌所」田中平治良本店、「西洋小間物卸小賣所」丹波謙蔵、「西洋反物処物ケット毛織所」丹波辰蔵、元町通(町名表示なし)「西洋反物羅紗ケット処物賣捌所」田中平治良西側支店、三宮町「各国用品類 西洋金物店」岡本辰次、相生町3丁目「西洋小間物所」加藤新五郎、相生橋西詰「西洋小間物所」近藤藤助、多聞通2丁目「西洋小間物」近藤迸之助、3丁目「西洋小間物賣捌所」高田出店、4丁目「西洋小間物所」畑棄造、東川崎町「西洋小間物所」小塚宗である。

◆洋服仕立・靴製造   兵庫にはなく、神戸だけにあった。元町通4丁目「洋服仕立所」西田荘太郎と、「洋服仕立所」武蔵屋祐五郎、長狭通4丁目「洋服仕立所」三河屋である。元町通4丁目「靴製造所」須藤保義、長狭通5丁目「靴製造所」伊勢勝である。

◆コーヒー、洋酒、薬種、銃器等小売、硫酸   兵庫に1軒、神戸には7軒あった。元町通3丁目「芳香堂印度製珈琲」北儀右衛門、4丁目「和漢西洋薬種所」赤壁高濱、5丁目「西洋薬種」橘歓光堂、6丁目「西洋酒問屋」東京清水谷商社支店、海岸通4丁目「西洋酒賣捌所」板倉勝平、相生町3丁目「銃砲弾薬賣捌所」高橋熊七、住所不明「リウサン販売所」鈴木助七がある。兵庫は、戸場町「洋薬商」木村洪哉である。

◆西洋時計小売   神戸に1軒、兵庫に2軒あった。神戸は楠社前「西洋時計所」坪井多三良、兵庫は港町土手下「各国金銀時計幷ニソクリョウヒン賣捌所」河合源治郎と小物屋町「西洋時計所」正井四郎であった。

◆居留地貿易   当時の外国貿易は、外国商館が船舶手配、為替、通関、保険等の輸出入業務をすべて行っていた(「居留地貿易」)。

 輸出は、日本人「売込商」が外国商館に見本を持ち込み、商館主に雇われた中国人「買弁」の審査を受けた。受注品を納品すると、買弁が品質検査(「拝見」)と数量検査(「看貫」)を行い、しばしば、クレームをつけて値引きや、リベートを要求した。売込商が拒否して商品を引き取ろうとすると、高額の商品保管料を要求することがあった。

輸入も、外国商館が輸入した商品を日本人「引取商」が買い取るだけであった。

外国商館を通さない「直貿易」が人々の悲願であった。けれども、当時の日本人には貿易実務や海外市場についての知識ノウハウが決定的に不足していたので、貿易業務はとてもできなかった。


『豪商神兵 湊の魁』(17)「開港効果」(英語看板)

◆神戸と兵庫  『豪商 神兵 湊の魁』(明治15年)は、神戸区を「湊川以東と以西」に分けている。かつて、湊川が、神戸区を神戸と兵庫を分断していた。明治348月、湊川が付け替えられ、3811月、旧湊川河川敷整備事業が竣工した。旧湊川付替え跡地に新開地が作られた。

◆英語看板・英文広告  『魁』所載574事業者のうち、英語看板、英文紹介事業者は、神戸6軒、兵庫1軒である。事業者住所、姓名、屋号、看板(英語、日本語)等を以下に紹介する。英文と単語の表記は間違いも、すべて原文のままとし、英文改行箇所は「/」で表示している。

・元町通3丁目:「加賀九谷焼賣捌所 北儀右衛門」(看板:KAGA/ KUTANI PORCELAINS/ SOLD AT MODERATE PRICE /CHIEMON KITA NO 230 MOTOMACHI 3 CHOME/ KOBE, JAPAN)

・元町通5丁目:「西洋小間物卸小賣所 丹波謙蔵」(看板:TANBA)、同:「西洋反物處物ケット毛織所 丹波辰蔵」(看板:TANBA)

・元町(町名不明):「諸缶詰賣捌所 鈴木見勢」(看板:PRESERVED MEATs./EIS H & C./ SUDZUKI & CO)

・三ノ宮町:「貿易商 大橋正太郎」(紹介:CONTRACTER/AND DEALER/ All Kinds of Japanese Porecelain /And LACOURERED WARE,/A Choice collection alnws on hanhand,/ reasonable price/ TOYS AND CURIOS/ AN INSPECTION RESPECTFULLY SOLICITED/ OHASHI SHOTARO /No.85 SAN-NOMIYA-CHO, KOBE, JAPAN)、 同:「各国用品類 西洋金物類 岡本 岡本辰次」(看板:OKAMOTO. DEALER IN EUROPEAN GOODS)

・相生町3丁目:「珍奇骨董 塚田喜兵衛」(紹介:K. TSUKADA,/ 67, AIWOICHO SANCHONE 67/ KOBE, JAPAN/ Lacquer wares, Bronzes, Curios, Silk Embroiberies, /Jemmellerd and Toys/ PORCELAIN WARES./ Speciality of old things of Japan.)

・湊町土手下:各国金銀時計幷ニソクリョヒン賣捌所両替商 河合源治郎」(看板:WATCHMAKER KANAAICANCIRO)

◆なぜ英語で  英語看板は、外国人客の目を引くためであり、かつ、取扱商品が外国品というイメージを演出するためか。読者が日本人の『魁』に、英文店舗紹介を載せる意味は不明である。
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『豪商神兵 湊の魁』(18)「検索しにくい名鑑」

◆『豪商 神兵 湊の魁』  『魁』は「神戸区内」574事業者の屋号、姓名、所在地、取扱商品等を収録した「神戸区商工名鑑」と位置付けられる。と言っても、全事業者を網羅しているのではない。掲載料を負担する「豪商」だけの名鑑なのである。

通常、名鑑は、興味ある部分だけをピンポイントで検索できる。ところが、『魁』はそのような検索ができない「意地悪」名鑑なのである。

なぜか。『魁』にはページも、目次も、索引もなく、事業者紹介、配列のルールもないからである。 

『魁』で特定の事業者を検索するとき、最初のページから順番に探していくしか方法はない。

具体例を見る。

『魁』の表紙から順番にページを繰ると、序文に続いて、突然、最初の事業者紹介ページが目に飛び込んでくる(カット参照)。

・栄町三丁目 神戸石炭商社
・海岸六丁目 三菱会社
・海岸六丁目 製茶改良會社
・海岸三丁目 貿易会所
・栄町三丁目 神戸商議社
・海岸三丁目 廣業商会
・栄町四丁目 汽船揩行会社
・神戸海岸通美之図(外国人居留地のスケッチ)

このページの50㌫は「神戸海岸通之図」であり、残りスペースに他の7事業者が名を連ねている。同じページに掲載されている事業者の業種もさまざまである。

また、こんなページもある。

・元町通五丁目 めんるい所 平岡利助(店舗スケッチつき)
・海岸通五丁目 散髪所 坂本藤吉
・下山手通三丁目 パンビール製造所 方 常吉

このページでも、スペースの85㌫を「めんるい所」が占め、残りを他の2事業者が埋めている。

このように、『魁』では一定のルールに従って事業者が紹介されているのではなく、ランダムに掲載されているだけなのである。

◆湊川以東・以西  『魁』では神戸区を「湊川以東・以西」に分けている。兵庫は「神戸区湊川以西の部」である。湊川が神戸と兵庫を物理的、心理的に分断していたことがわかる。

神戸と兵庫に坂本村を合わせて神戸区が誕生したのは明治12年である。もともと、兵庫は西国街道の宿場町、北前船の拠点「兵庫津」として殷賑を極めていた。兵庫津に比べると神戸の知名度は低かった。けれども1868年の開港で、神戸に各国が領事館を開き、貿易商の商館が軒を連ねた。明治10年頃には兵庫と神戸の経済力は逆転し、以後、その格差は拡大するばかりであった。

 ◆ページ別、住所別事業者名簿  『魁』を検索しやすくするため、筆者は、「ページ別事業者一覧」「町別・業種別事業者一覧」を作成した。この表があれば、どこに、どんな業種の、どんな屋号の事業者が立地していたのかが一目瞭然となり、事業者の検索は容易になる。

今後、『魁』の復刻版が刊行されたら、筆者は、「町別・業種別・事業者一覧」を公開したいと考えている。


2016年4月14日木曜日

『豪商 神兵 湊の魁』(10) 神戸開港効果(1)(『セルポート』2016.4.21号)

神戸今昔物語(第539号)湊川神社物語(第2部)
        「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(82

『豪商 神兵 湊の魁』(10)~開港効果(1)~ 

 ◆神戸と兵庫  『豪商神兵湊の魁』(以下、「魁」)の刊行は明治15年である。開港から15年が経過した神戸は急速に変わりつつあった。世界中から、一獲千金を求めて来住した欧米人貿易商と中国人、国内各地から移住してきた「新住民」が、開港場神戸で、壮大な錬金術ドラマを展開し、神戸はゴールドラッシュの様相を呈していた。

『神戸開港三十年史』は、明治67年から189年までの神戸と兵庫を次のように書いている。

神戸の「新住民」は、「故郷を棄てて新運命を求め」「冒険も恐れず、労苦も辞せざる気力ある者」であり、「眼中には自己あるのみ」「胸中には利己あるのみ」「欲望には銭あるのみ、名誉の如きは問うところにあらず」「燃ゆるが如き貨殖の希望を存す」人たちであった。

西摂随一の商業地の兵庫は目に見える変化は殆どなかった。兵庫の住民は「土着民を以って成り」「依然たる旧職業」「旧社会の旧古格」を守り、「世の風潮に感動するは比較的に遅鈍なりし」であった。兵庫だけに限らず、日本のほとんどの都市は、時代の変化にゆっくりと対応しつつあった。

◆国際都市の予感  開港場神戸と兵庫の違いは「魁」からはっきりと読み取ることができる。神戸では、洋風の生活文化が芽生え、後の「国際都市」神戸を予感させる海運関連業と貿易関連業が定着しつつあった。

◆貿易・金融業  「魁」所載の貿易業、金融業からも兵庫と神戸の違いは一目瞭然である。

神戸には、元町、栄町、海岸通に貿易業が24件、金融業が9件立地していたが、兵庫には貿易業はなく、伝統的な地場業種対象の金融業が4件あっただけである。

元町通は、1丁目に貿易茶商 阪口眞助、両替洋銀売買所 森田常助、3丁目に珍器貿易商、神戸石炭商社、丸三銀行があり、丸越組海外直売店(丁名不明)がある。

栄町通は、3丁目に神戸商義社、神戸石炭商社、貿易商 篠原幸四郎、貿易商 光村弥兵衛、金融業は正金銀行支店、三十八国立銀行、三井銀行支店、七十三国立銀行支店、洋銀売買所 堀儀助、洋銀売買所 荒木、5丁目に医学西洋幷ニキカイ所 志摩三商会、貿易茶 商石本喜兵衛、貿易茶商 川口清次、6丁目に貿易茶商 池田貫兵衛がある。

海岸通は、2丁目に貿易茶商 八田長兵衛、3丁目に五十八国立銀行と貿易会所、廣業商会、貿易茶商 岸善一、貿易商 美吉谷長八があり、4丁目に貿易茶商 田村正平、貿易茶商 山本亀太郎、6丁目に貿易茶商 小島長四郎と製茶改良會社がある。

三宮町には貿易商 大橋正太良、貿易商 大橋正太郎(英文広告)、下山手通6丁目に貿易茶商 高城喜三右衛門が立地している。

一方、兵庫では、貿易業はない。金融業は、川崎町に私立平瀬支店、島上町に六十五国立銀行、戸場町に七十三国立銀行、磯の川に三井支店が立地していた。
「魁」を上掲の「三十年史」等の史料と併せ読むことによって、当時の神戸の様子が生き生きと伝わってくる。

公開講座(神戸近現代史)楠本利夫

神戸近現代史公開講座

講師:楠本利夫 博士(国際関係学)、日本パン学会副会長

1. 神戸山手大学公開講座

・2016年前期(土曜日午後2時~3時半) 
・於:神戸山手大学2号館 JR元町駅北東7分。相楽園西
・有料
・テーマ
57日:「志摩三商会」と三田藩主従たち
521日:「大津事件と神戸」
625日:「海外移住基地神戸」
79日:「加納宗七と生田川付替」
723日:「和田岬物語」
・申込先:神戸山手大学地域連携センター(078-351-4170)

2. 大学共同利用施設UNITY(ユニティ)公開講座

・8月20(土)1400~1530(於:UNITY(神戸市営地下鉄 研究学園都市下車南1分) 
・テーマ:「神戸・パン物語~神戸のパンはいつから全国区になったのか~」
・有料
・申込先:UNITY事務局 TEL 078-794-4970

3. 神戸開港150年/KCC60周年記念 

特別講演会/施設見学会/昼食会(主催:神戸新聞文化センター)
・日時:10月5日(水)1000~1330、19日(水)1000~1330)
・講演:「神戸開港物語」(於:神戸外国倶楽部) 
・施設見学:
  神戸外国倶楽部
  神戸外国人墓地
  神戸レガッタ&アスレティック倶楽部(KR&AC)
・ランチ2回(10月5日:神戸外国倶楽部、10月19日:KR&AC)
・神戸外国人墓地へは専用車で送迎
・有料
・申込先:神戸新聞文化センター 078-265-1100(担当:稲田)

2016年4月5日火曜日

『豪商 神兵 湊の魁』(9)避難港「加納湾」(『セルポート』2016.4.1号)  

            神戸今昔物語(第538号)
『豪商 神兵 湊の魁』(9) 海運業の芽生え(4)「加納湾」
 
◆私費港湾建設  加納宗七は、生田川跡地の市街地整備に続いて、旧生田川尻東側に私財2万円を投じて「船溜」(避難港)を建設した。建設は明治67月に開始し、明治810月に荷揚場と水域面積1.1haの船溜が完成した。

宗七が私費で港湾施設を建設した理由は、明治45月の台風で、和船500隻が破壊され、汽船7隻が海岸に打ち上げられ、海岸通で回船業を営んでいた宗七も被害を受けたからである。

本来、船溜は、国か県が建設すべき施設である。当時の政府は港湾施設を建設する財政的余裕がなかったため、宗七が私費で建設した。

明治66月、宗七は兵庫県令神田孝平に「船溜新築之儀」を提出し722日に許可を受けた。明治810月、宗七は「船溜築港成功御届」を提出した。船溜は宗七にちなんで「加納湾」と呼ばれた。加納湾の建設費を償却するため、宗七は入港船舶から石高に応じて使用料を徴収することとし、1110日、「私費築港概算費御届」を県令に提出し、翌93月、「船口銭取立法願い」が許可された。

◆加納湾と小野浜造船所  明治11年、英国人E.C.キルビーが、小野浜に「キルビー商会造船所」を建設した。キルビー造船所は、E.H.ハンターの大阪鉄工所(後・日立造船)と並び、日本の近代造船所の黎明期に大きな役割を果たした。

キルビー造船所では小型汽船を建造した。明治15年、日本最初の鉄製蒸気船「第一太湖丸」が完成し、さらに、海軍省から、初の鋼鉄製軍艦「大和」の建造を受注した。

明治16年、キルビーが旅先の横浜で突然死した。資金繰りに困った自殺説、突然死説等、死因は現在も謎のままである。海軍省は、大和の建造費の内払金15万円をキルビーに支払済みであった。明治173月、海軍省は、造船所にさらに30万円を追加して支払い、造船所を、建造中の大和もろとも買収した。このとき、海軍省は、造船所東隣の「加納湾」も一緒に購入して付属ドックとし、「海軍省主船付属小野浜造船所」と称した。海軍省が。造船所と建造中の大和を一括購入した理由は、もし、造船所が倒産すれば、大和建造のため支払い済みの打払金が回収できなくなり、経理手続上面倒なことになることを懸念したためである。

明治23年、小野浜造船所は呉鎮守府の管轄になったが、明治286月に閉鎖され(『神戸市史別禄二』)、加納湾は兵庫県に移管された。加納湾は後に埋め立てられて国鉄小野浜駅操車場になり、阪神淡路大震災の後、震災復興記念公園になった。

◆侠商宗七  宗七は国家、社会のために尽くす気概を持った任侠肌の国士的侠商であった。
明治199月、内海忠勝兵庫県知事は、宗七の雲中尋常小学校「小野浜分校建築費1千円寄付」を称えて「木盃3組」贈呈し、宗七の死後、明治209月、内海知事は、宗七の「布引滝道筋に桜植樹」事業に対し賞状を授与した(『神戸市史本編各説』)

                    加納湾(『神戸開港百年史 建設編』