2013年12月24日火曜日

岩倉具視の湊川神社参詣(2)岩倉は神戸でどの旅館に泊ったのか(『セルポート』2013.12.21号、連載通算463号)


神戸今昔物語(通産第463号)湊川神社物語(第2部)
                  「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(6

岩倉具視の湊川神社参詣(2

◆折田日記(明治6年9月10日)  「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参参拝之由也」

◆久しぶりの祖国  明治6910日、岩倉具視は、「岩倉使節団」の団長として米欧への出張の帰途、神戸に立寄り湊川神社を参拝した。

思えば、長い旅であった。明治41112日(1871.12.23)に横浜を発った岩倉は、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スエーデン、イタリア、オーストリア、スイスを歴訪し、各国首脳と会見した。明治6年7月20日、岩倉はマルセイユでフランス船「アウア」号に乗船し、ナポリ、ポートサイド、スエズ運河、アデン、セイロン島、マラッカ海峡、シンガポール、サイゴン、香港を経て、92日上海に到着し、上陸してホテルに宿泊した。

94日夜、上海でアメリカ船ゴルテンエン号に乗船した岩倉は、96日、長崎に到着した。横浜を出航してから1年8か月余が経過していた。久しぶりの祖国である。

長崎の港を取り巻く島々の緑が岩倉を感動させた。「港口大小の島嶼、ミナ秀麗ナル山ニテナリ、遠近の峰峰、ミナ秀抜ナリ、船走レハ、島嶼ハ流ルヽ如ク、転瞬ノ間ニ種々ノ変化ヲナス」(『米欧回覧実記』)。  

長崎で上陸した岩倉は、まず「行在所」で休憩した。行在所は天皇が立ち寄る施設である。岩倉だからこそ行在所を使うことができたのである。長崎の街を見物した岩倉は、夜になって船に戻った。久しぶりの日本である。料亭で美伎をはべらせ日本酒と日本料理の宴会を楽しんだことであろう。「女性に関心の薄いほうではない具視」(岩倉具忠『岩倉具視~国家と家族』)は、このとき満48歳であった。

◆瀬戸内海の美景  7日午前1時、ゴルテンエン号は長崎を出港し、早朝、唐津呼子沖を通り、午後、関門海峡を通過して周防沖で日が暮れた。

「八日 晴 午前五時ニ、船将(船長。筆者注)ヨリ世界第一ノ風景ヲ過グルヲ以ッテ、船客を呼起シミセシム、即チ芸備海峡ナリ、英、米ノ遊客十二名崎陽ヲ発シテ以来、其絶景ヲ劇賞シテ、之ヲ図ニ写シテ、終日已マス」(前掲『回覧記』)。船客は瀬戸内海の絶景を終日楽しんだ。

◆神戸の宿  「九日 晴 午後神辺ニ着シ上陸シ宿ヲ定ム」(上掲書)。神辺とは神戸のことである。岩倉が神戸で泊まった宿はどこか。『岩倉公実記』にも『回覧記』にも宿名は書かれていない。明治6年ごろの神戸にはまだまともな宿はなかった。後に神戸を代表する旅館となる西村旅館の開業は明治10年ごろである。筆者は岩倉が宿泊した宿は弁天浜の専崎弥五平邸であると考えている。岩倉は明治166月にも専崎邸に泊まっている。

専崎邸は、明治19年に宮内省が買い上げて明治天皇御用邸とした。宮内大臣は伊藤博文である。


 
               創建直後の湊川神社

神戸学 公開講座「国際都市神戸の系譜~神戸の150年~」(於:ミント神戸KCC)

市民対象公開講座のご案内です。
会場はミント神戸の神戸新聞文化センター(KCC)です。KCCの非会員も歓迎します。

1. テーマ:「国際都市神戸の系譜~神戸の150年~」(「KCC暮らしいきいき講座」)
 
 
 神戸は、住みたい町、訪れたい町として全国トップクラスの街です。
 人口150万人を擁する神戸は、大都市としての充実した都市機能を持ちながら、自然環境と景観(山と海)に恵まれた快適で静謐な住宅都市であり、国際色豊かな文化と美しい街並みを持つおしゃれな集客都市でもあります。神戸は「瀬戸内の貴婦人」の呼称がふさわしい魅力ある街です。神戸のこの都市魅力の原点は146年前の開港です。
 神戸開港から今日まで、神戸の近現代史をわかりやすく紹介します。
2. 講師 :楠本利夫 芦屋大学客員教授。博士(国際関係学)
3. とき : 2014.1.20(月)14:00~15:30
4. 会場 :KCC(神戸新聞文化センター)ミント神戸17階
5. 申込 :078-265-1100(KCC)
6. その他:KCCの非会員の方々も歓迎します。参加費1575円。

2. とき : 2014.1.20(月)14:00~15:30
3. 会場 :KCC(神戸新聞文化センター)ミント神戸17階
4. 申し込み:078-265-1100(KCC)
5. その他:KCC非会員も歓迎します。参加費1575円。
 


2013年12月20日金曜日

岩倉具視の湊川神社参詣(1)岩倉、米欧使節団の帰途神戸に立ち寄る(『セルポート』2013.12.11号 連載通算462号)


神戸今昔物語(通産第462号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(5
 

 岩倉具視の湊川神社参詣(1

◆岩倉具視参詣  明治6年9月10日、岩倉具視が湊川神社に参詣した。岩倉は、特命全権大使としての米欧出張の帰途、米国船ゴルテンエン号で9日午後神戸に到着した。岩倉は神戸に着くと下船して旅館に2日投宿し、11日午後、再び乗船して横浜へ向った。岩倉が日本を出た明治41112日には、湊川神社はまだ完成していなかった。神社創建は明治5525日である。

 岩倉が湊川神社に参詣したとき、宮司の折田年秀は不在であった。岩倉参詣の事前連絡がなかったのであろう。折田はこの日の日記に「当日岩倉公参拝之由也」と書いている。

「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参拝之由也」。

◆岩倉具視と湊川神社  岩倉は湊川神社創建と縁がないわけではない。岩倉は湊川神社創建に間接的に重要な役割を果たした事実は、ほとんど知られていない。

慶応4110日(1868.2.4)、神戸で備前藩兵と外国軍隊の衝突事件が偶発した(「神戸事件」)。三宮神社前を西宮に向かって行進していた備前藩の隊列を外国水兵が横切ったことから小競り合いになり、英国パークス公使が沖に停泊していた英米仏の艦隊11隻に信号を送って陸戦隊を上陸させ、備前藩と交戦させた。戦闘で死者は出ていない。外国軍は日本船5隻を拿捕し、外国人居留地を占拠し東西に関門を設けて日本人の通行を制限した。

事件は、成立直後の維新政府を驚愕させた。政府は、事件処理のため勅使東久世通禧を神戸に派遣した。東久世は、神戸運上所で各国公使と会見し、王政復古の国書を手渡して外国側に政権交代を告げ、今後の外国人の安全を保証し、日本側の責任を認め、責任者瀧善三郎の処刑を約束した。

備前藩主池田茂政は部下を切腹させることに逡巡した。当時の慣行では、武士の隊列を横切る行為(供割)は極めて無礼なことであり、制止した滝には落ち度はなかったからである。岩倉は藩主に「国家のため、備前藩のため、頼みいる」との恫喝的な親書を送った。藩主はやむなく滝の処刑を決断した。

◆兵庫裁判所役人の神社創建嘆願  東久世は、事件処理後、兵庫裁判所(後の兵庫県)総督に就任した。慶応4322日、兵庫裁判所役人6人が、東久世に楠木正成を祀る神社の神戸創建を、東久世を通じて維新政府に嘆願した。神戸事件処理で維新政府の外交上の危機を救った東久世からの働きかけである。公家と雄藩代表の混成部隊である維新政府は、すぐに神社創建を決定した。戊辰戦争で混乱していた政府としても、日本の支配者となった天皇の権威を象徴する装置が必要であり、天皇に尽くした楠木正成を祀る神社の創建は、渡りに船であった。

岩倉の湊川神社創建への貢献は、臣下への切腹命令を逡巡する備前藩主の背中を押すことにより、神戸事件の外交的処理への障害を取り除いたことなのである。

          「折田年秀日記」原本
 
 

2013年12月6日金曜日

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(4)「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」(『セルポート』2013.12.1)


神戸今昔物語(通産第461号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(4

 
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同

 

◆連載15年目  今年もこの日が来た。師走のことではない。『セルポート」の連載を開始した日である。毎年121日号は、連載経緯を説明することとしている。

平成11121日号から始めたこの連載も、既に14年が経過した。連載を始めた時、神戸はまだ大震災の傷跡が残っていた。当時、現職の公務員であった筆者は、ペンネーム「寓籠駆」(グローカル)で連載を始めた。筆者の意見が役所の公式見解と誤解されることを懸念したからである。本名で連載することとしたのは、役所を定年退職したときからである。

◆「移住坂」  最初の連載タイトルは「移住坂」である。筆者たちが平成117月から開始した市民運動「神戸海外移住者顕彰事業」を宣伝するためである。

海外移住者は日本人の世界展開のパイオニアである。けれども、かつての日本を代表する海外移住基地神戸で、移住者に偏見を持つ人が少なくなかった。「移民は暗い。暗い話は神戸のイメージに合わない」「現地で苦しんだ移民は、政府にだまされたと思い祖国を恨んでいる」「アイルランドには記念碑はないのは、移民が祖国を思い出したくない証拠だ」「家族は身内に移民がいることを話したがらない」「いまさら寝た子を起こすな」等である。

四面楚歌、徒手空拳で始めた市民運動を、『セルポート」の岸田芳彦社長が広報面で全面的に協力して下さった。

運動はブラジルを中心とする海外日系人の共感を呼んだ。世界中からの募金2,650万円を原資として、メリケンパークに「移民船乗船記念碑」を建立し、除幕式を平成13428日午後555分に行った。明治41年のこの日この時刻に第1回ブラジル移民船笠戸丸が神戸を出港した。記念碑像は、彫刻家菊川晋久氏の作品である。

旧「国立移民収容所」は、平成15年に「市立海外移住と文化の交流センター」に生まれ変わった。昭和3年開業以来、多くの移住者を世界に送り出した山手のこの施設から、浜手の移住者記念碑までの急な坂道は「移住坂」と名付けた。

運動を支援して下さった笹山幸俊元神戸市長、佐藤国汽船佐藤国吉会長は、鬼籍に入られた。

◆「居留地百話」「神戸今昔物語」  「移住坂」連載は1年で終了し、平成131月から「居留地百話」、平成161月から「神戸今昔物語」の連載を続けている。連載で、移住者への偏見を払拭することができたこと、弁天浜明治天皇御用邸の全容を紹介できたことが印象に残っている。折田日記の連載では、開港場神戸における湊川神社の意義と役割を新たな視点から紹介していきたいと考えている。

連載にあたり多くの方々にお世話になった。神戸市立中央図書館、神戸市文書館の皆様はいつも快く資料を提供して下さった。『セルポート」岸田社長と、編集担当の浜田善輝様のご協力に感謝している。お世話になった皆様に心からお礼を申し上げる。

       海外日系人大会で運動を報告する筆者(平成12年)
 


2013年11月17日日曜日

神戸学「神戸3つの海上都市物語」神戸山手大学公開講座           2013.11.30(土)1400~

神戸山手大学公開講座「神戸学」 (2013年度秋季 第5回)

1. テーマ:「神戸3つの海上都市物語~神戸発展の戦略基地・海上都市~」

2. 講師:楠本利夫 芦屋大学客員教授(国際関係学博士)

3. 場所:神戸山手大学3号館(相楽園西)地下鉄県庁前から北北東 徒歩5分
   神戸市中央区諏訪山町3-1(650-0006)  
      (お問合わせ) 078-351-7170  e-mail: shogai@kobe-yamate.ac.jp 
4. 受講料:1200円(当日会場でお支払いください)

5. その他
 山手大学で公開講座「神戸学」を、毎年春季、秋季各5回開催しています。

 これまでのテーマは次のとおりです。

(2012年秋季) 

①神戸開港と神戸事件~明治政府最初の外交~
②湊川神社物語~湊川の合戦と湊川神社創建の謎~
③神戸弁天浜・明治天皇御用邸~大津事件のもう一つの舞台~ 
④六英堂物語~神戸布引岩倉具視旧居のなぞ~ 
⑤神戸の150
 
(2013年春季)
①移住坂
②神戸将来の事業
③西村旅館
④神戸の鹿鳴館時代
⑤第1回神戸市長選挙
 
(2013年秋季)
国際都市神戸の系譜
②湊川神社神戸創建秘話
③神戸外国人居留地
④第1回神戸みなとの祭
④神戸3つの海上都市物語~神戸発展のための戦略基地・海上都市~

湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸(3) 「大楠公六百年大祭」(『セルポート』2013.11.21号)


神戸今昔物語(通産第460号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(3

大楠公五百五十年大祭

◆大楠公五百五十年大祭  明治1818日から22日まで、大楠公五百五十年大祭が開催された。湊川の合戦で敗れた楠木正成の自刃(1336年)から550年である。

祭初日718日の行事は神幸祭である。午前8時過ぎに神輿が神社を出門し、騎馬の湊川神社折田年秀宮司、生田神社宮司、長田神社宮司と軍楽隊51人が、県庁を経て市街を和田岬まで練り歩いた。氏子は軒先に菊水の紋提灯を掲げ国旗を掲揚した。

◆折田年秀の挨拶  19日の大祭式典で、折田は兵庫県令内海忠勝ら来賓の前で、格調高い挨拶文を厳かに読み上げ、冒頭、折田自身が楠社創建を、島津久光を通じて朝廷に建言した経緯を次のように披露した。

幕末、大阪湾に外国軍艦が出没し「外寇の戎、厳頻繁」であったので、自分が「摂海に十砲台、三城砦を築き、浪速城を修正して鎮守府を置き、又、楠公の廟社を湊川に造営して大忠を旌表し、祀典を永世に垂れ、世の忠勇洪義を激発せしめんと欲し、当時の藩主(原文のママ)島津久光に付き謹んで勅裁を請ひ允許を賜はる、実に維れ文久二年十二月十日なり」(『神戸開港三十年史』)。

◆生麦事件  文久21862)年5月、久光は、勅使大原重徳に随従して藩兵1000人を率いて京都を出発し江戸へ向った。610日、大原は江戸城で将軍家茂に一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政治総裁職就任の勅諭を伝えた。

久光はこのとき無位無冠であった。薩摩藩の実権を掌握していたけれども、久光は大名ではなく「藩主の父」にすぎなかった。久光が、幕府を通さずに楠社創建と砲台建設を朝廷に建言した背景には、勅使の威光を背景に幕政改革を迫る久光を陰で「芋侯」と馬鹿にしていた幕閣への当てつけもあった。

帰途、久光の行列が生麦村を通過した際、横浜居留地のイギリス人4人が騎馬で行列を乱したため、藩士が1人を殺し2人に重傷を負わせた。「生麦事件」である。事件のあと英軍艦の来襲に備えて、鹿児島湾の砲台築造を指揮したのは、薩摩藩士折田である。翌文久37月、英艦隊が鹿児島に来航し薩英戦争が起きた。

◆久光に官位  1230日、朝廷は有力大名経験者による合議制の「参預会議」を設置し、徳川慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城を「参預」に任命した。久光も翌文久4113日に参預に任命され、「従四位下左近衛権少将」に叙された。参預会議は諸侯の意見不一致のため、3か月で崩壊してしまった。

久光が朝廷に楠社創建を建言したのは、叙位1か月後の29日である。久光が、天皇に尽くした正成を祀る神社の創建を建言したことは、朝廷への忠誠心誇示と叙位のお礼の意味もあったと筆者は考えている。

朝廷は、久光の楠社創建の建言を即刻受け入れ、幕府に土地の斡旋を命じた。ところが、久光が3か月後に鹿児島へ帰ったため、神社創建案は立ち消えになり、そのまま維新を迎えた。

湊川神社初代宮司 折田年秀
 

2013年11月7日木曜日

湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸(2)      「折田年秀日記」(『セルポート』2013.11.11号)

          神戸今昔物語(通産第459号)湊川神社物語(第2部)

「初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(2
                    
                       「折田年秀日記」

◆折田年秀  湊川神社初代宮司の折田年秀(要蔵)は元薩摩藩士である。文政81825)年77日鹿児島で生れた折田は、明治6428日に湊川神社宮司に任命され、明治30115日に神社の官舎で没した。折田の宮司時代は神戸の居留地時代とほぼ重なっている。

藩校造士館を経て江戸の昌平黌で蘭学を学んだ折田は、嘉永元(1848)年に蝦夷・樺太等を視察し、その後、各所で砲術、海防策等を講じ、薩英戦争では砲台築造、大砲製造にあたった。島津久光の信任が厚かった折田は、摂海防備の建言、楠社創建建言を、久光を通じて行った。明治元年、折田は山陰道鎮撫に随従し、生野代官所を接収するなどの功績を上げた。

◆折田年秀日記  折田は、宮司就任以来、四半世紀にわたり、毎日の行事、自分の行動、世間の出来事とそれに対する考え方等を日記に克明に書き残した。

明治102月、西郷が挙兵したとき、開通したばかりの鉄道で、政府軍の兵隊と物資が、列車で続々と神戸駅に到着し、九州の前線へ船で送られていくのを、折田は毎日いたたまれない気持ちで眺めていた。817日、折田は鹿児島行きを決意し、西京丸で神戸を発ち長崎経由で鹿児島に赴いた。生まれ育った街の惨状と知人たちの死は折田を慟哭させた。

翌年514日、大久保利通内務卿が紀尾井坂で暗殺されたとき、折田は日記に、大久保は「非凡の英材」であるが「恩義ニ叛キ親愛を失フ」、「天の報復」恐るべし、と薩摩人の本音を吐露している。

 折田日記の原文44巻は、昭和417月に折田の子孫折田靖正から湊川神社に奉納された。明治6316日から明治1899日まで、全44冊の膨大な日記は、明治の神戸と日本を知る上で極めて貴重な史料である。

湊川神社は、折田日記を復刻し3巻にまとめて上梓した。第1巻(刊行平成9年)は明治6316日から明治13430日まで、第2巻(平成14)は明治1351日から明治1851日まで、第3巻(平成19)は明治1851日から99日までを、それぞれ収録している。

◆開港場神戸の変貌  神戸は慶応3127日(1868.1.1)に開港した。各国は神戸に領事館を開設し、世界中から来航した貿易商が外国人居留地に商館を構え住みついた。国内からもチャンスを求めて人々が神戸に移住してきた。
開港直後の神戸で偶発した備前藩士と外国人の衝突事件(「神戸事件」)の処理機会を利用し、維新政府最初の外交を神戸で行った。兵庫県誕生(元年5月)、「神戸町」誕生(神戸村、二つ茶屋村、走水村合併、元年11月)、外国人居留地永代借地権競売(明治元年~2年)、神戸大阪間鉄道着工(3年)、生田川付替(4年)、湊川神社創建(5年)、天皇行幸(5年)等、開港場神戸はダイナミックに動きだしていた。折田が湊川神社に着任したのはそんな頃であった。

  
            折田年秀日記(湊川神社『折田年秀日記』第一、平成9年)

2013年11月3日日曜日

湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸(1)      「神戸京都間鉄道開業式」(『セルポート』2013.11.1号)

神戸今昔物語(通産第458号)湊川神社物語(第2部)

「初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(1

神戸京都間鉄道開業式

 ◆「折田日記」  今号から新しい連載を始める。

元薩摩藩士で湊川神社初代宮司の折田年秀は、明治6年の就任から明治30年の逝去まで、日々の出来事を克明に記録した日記を残している。折田の宮司時代は神戸の居留地時代とほぼ重なっている。神戸の発展を湊川神社から定点観測した日記は、神戸近代史の貴重な証言である。折田日記から居留地時代の神戸を紹介する。

◆鉄道開業式  明治1025日、神戸京都間の鉄道開業式が、明治天皇臨席のもと行われた。天皇は、午前840分に京都御所を出て、七条停車場から列車に乗り梅田停車場に午前1030分に到着し、開通式典に臨まれた。

式典終了後、天皇は、梅田停車場発1110分の列車で神戸停車場に1215分に到着し、停泊中の艦船の祝砲に迎えられた。神戸での式典では、米国ニューウィター領事と兵庫県権県令森岡昌純が祝辞を述べた。

天皇は午後2時神戸初の列車で京都へ向い午後4時に七条停車場に到着した。京都での開業式で鉄道開通の勅語を発し、三条実美太政大臣が祝辞を述べた。

◆開業式見物  折田は夫人同伴で開業式見物に行ったことを日記に書いた(旧漢字は筆者が現代漢字に改めた)

「二月五日、晴、

一、当日は本所幷(ならび)に大坂西京鉄道開業式御執行ニ付、聖上御臨御、第十二時ヨリ相初リ候事、病中につき家内共拝見ニ差出候事、

 一、本日者、兵庫・神戸大ニ賑ヒ、人民親シク奉拝龍顔候、」

「病中につき家内共」とあるのは、折田は1月末から体調を崩していて、一人で外出するには不安があったためである。

◆西南戦争  10日後の215日、西郷軍が鹿児島を出発し熊本へ向った。「西郷立つ」の情報に、天皇は予定を変更して、そのまま京都御所に滞在することになった。

政府は神戸弁天浜の専崎弥五平邸に運輸局を設置した。神戸が西南戦争制圧の兵站基地となった。開通したばかりの鉄道で、兵隊と物資が続々と神戸駅に到着し、船で九州の前線へ運ばれていった。神戸駅は神社のすぐ南にある。元薩摩藩士の折田は気が気でなかった。

「二月十五日、晴、

一、昨今より近衛兵幷ニ海軍等、追ゝ繰込ミタリ、大凡四千余人なり、軍艦も同断、入津ニ及候、

一、鹿児島変動之音容、甚騒然タリ、然レトモ確報ならす、」

 「二月十七日、晴、

一、当日も海・陸軍、大凡六百人余繰込ミタリ、

一、 大久保内務卿、十六日東京より着神、当日上京なり、()

内務卿大久保利通が東京から神戸経由で京都へ行ったのは、京都にいる天皇に拝謁して反乱への対応について指示を仰ぐためである。19日、政府は「鹿児島暴徒征伐」を布告した。

◆大久保、西郷と折田   このとき、大久保47歳、西郷49歳、折田52歳であった。元薩摩藩士の3人は年齢も近くお互いに気心が知れていた。

西郷はこの年924日に城山で自刃し、大久保は翌明治11514日に紀尾井坂で暴漢に襲われて死亡した。折田は明治30115日に72歳の生涯を終えた。

出典:「明治10年 兵庫神戸市街の図」(大蔵省蔵)
湊川神社の南に神戸駅が開業したのは明治7年(神戸大阪間鉄道開通)である。

2013年10月26日土曜日

公開講座「神戸第一回みなとの祭のなぞ」11月9日(土)午後2時 神戸山手大学 (台風のため日程変更)

神戸山手大学公開講座で、「神戸第一回みなとの祭のなぞ」をテーマに講演をします。

・とき :2013.11.9(土)午後2時~3時半
・ところ:神戸山手大学
・講師:楠本利夫
・テーマ:「神戸第一回みなとの祭のなぞ」
 昭和8年11月7~9日に「神戸第一回みなと祭」が開催されました。
 祭は当時の黒瀬弘志市長が、来日中の米国ポートランド市カーソン市長から、イベントによる景気刺激都のヒントを得て、同市のローズフェスティバルを参考にして開催したものです。黒瀬市長は、祭の実施主体として「神戸市民祭協会」(会長:黒瀬市長)を設立しました。祭は、神戸市民と外国人コミュニティの全面的な協力を得て大成功しました。   
 講演では、祭の概要を説明し、①祭開催を決めた黒瀬市長不在でなぜ祭がおこなわれたのか、②祭を報道した「神戸新聞」と「神戸又新日報」のうち「神戸又新日報」はなぜ6年後に廃刊になったのか、③祭に協力した外国人ジョネス氏(塩屋ジョネス邸)、ジェームス氏(ジェームス山開発者)のその後の運命、に迫ります。

・聴講費:1200円(当日大学窓口でお支払いください)
・事前申し込みは不要です。

2013年10月19日土曜日

新条約施行 内地雑居 「宙にぶらり」「神戸又新日報」 2013.10.21

『セルポート』20131021日号(連載通算第457号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(21) 「宙にブラリ」
◆「宙にブラリ」  
 カットでは、外国人と日本人の間にできた子供の手を引っ張りあい、子どもを困らせている。子供の右手を引っ張っている腕は「如来」であり、左手は「天帝」である。キリスト教徒と結婚した日本人の子供が死亡したとき、仏教の天国へいくのか、キリスト教の天国へ行くのか「宙にブラリ」となるとしているのである。新条約施行で「内地雑居」が実現すれば国際結婚も増えることになる。
 国際結婚した人が離婚した時、どちらが親権を行使するかが問題になることは、昔も今も同じである。
 20135月、国際結婚破綻による子供の引き取りを定める「ハーグ条約」が、国会で承認された。正式名称を「国際的な子の奪取の民事面に関する条約」とするこの条約に、欧米など89か国がすでに加盟している。日本も、来春にも加盟する予定である。
201159日、米国テネシー州の郡裁判所は、2人の子供を連れて米国から帰国した日本人妻に対し、米国人男性の訴えを認め49000万円の賠償を命令した(読売新聞20011.5.10)。
 
 さらに、米国籍の元夫(47)に無断で長女(9)を連れて2008年に帰国した兵庫県出身の女性(44)のケースもある。この女性は、20113月、神戸家裁伊丹支部に親権変更を申請し認められた。けれども、同年4月、彼女が渡米した際、米国で逮捕され「親権妨害罪」で訴追された。ウイスコンシン州の裁判所で、彼女は「長女を元夫の元に戻すことを条件に重い罪を貸さない司法取引に応じた」(日本経済新聞、2012.6.15朝刊)。


◆米上院で新法案可決  20131110日、米国下院外交委員会は、日本を事実上の標的とした法案を可決させた。「国際結婚の破綻に伴う子供の連れ去り問題が未解決な国に対して、制裁措置を発動する法案」である。この「法案は、連れ去り事案の存在が相手国の関係当局に通知されてから180日たっても解決されない場合、大統領は公式訪問、文化交流、軍事支援の停止や輸出制限などの措置を取らなければならない。(略)ただ、上院側の態度は未定で、法案成立には大統領の署名も必要なため、この法案の行先は見通せない状況」(読売新聞20131011日朝刊)である。

◆新連載予告  ここまで21回にわたり、「神戸又新日報」に連載された風刺画「内地雑居の暁」を紹介してきた。新条約施行を2年後に控えた明治30年頃の庶民の懸念が描かれている。
次号から、想を新たに、「折田年秀が見た居留地時代の神戸」の連載を開始する。元薩摩藩士折田は湊川神社初代宮司である。折田は、宮司に就任した明治6年から逝去する明治30年まで、居留地時代の神戸を湊川神社から「定点観測」してきた。折田の在任期間は、神戸の居留地時代とほぼ重なる。折田が克明につづった日記には、岩倉具視、福沢諭吉、神田孝平、鳴滝幸恭、神田兵右衛門ら著名人が頻繁にも登場し、鉄道開通、西南戦争、ロシア帝国ニコライ皇太子参拝等、神戸の歴史的事実も記録されていて、居留地時代の神戸の空気が伝わってくる。
 新しい連載はロングランになりそうである。

 




2013年10月13日日曜日

新条約施行 内地雑居 「掃除いらず」 「神戸又新日報」2013.10.11

『セルポート』20131011日号(連載通算第456号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(20) 「掃除いらず」
 
◆「掃除いらず」  カットでは、洋装の婦人のロングドレスの裾が床に垂れているため、掃除夫が「掃除いらず」と頭を掻いている。2年後に控えた「内地雑居」で、女性の洋装が増えればこうなるであろうと予測したのである。

◆明治初期女性の洋装  わが国女性の洋装の嚆矢は、岩倉使節団に参加した女性たちである。明治41112日、使節団(48名)は米国船アメリカ号で横浜を出港した。明治5115日にサンフランシスコに到着したとき、津田梅子、永井重子、山川捨松ら5人の女性たちの和服姿が現地の人たちから珍しがられた。225日にシカゴに到着したとき、5人は洋服姿であった。帰国後、津田は「女子英学塾」(後の津田塾大学)を創設し、永井はピアノ教師先駆者、山川は大山巌の妻となった。

男性の洋装は軍服から広まった。女性の洋装は男性に比べ遅れていた。社会進出する女性は少なかったため、一部の女学校の制服を除けば、洋装は一般化するにはいたらなかった。

◆公式礼装公達  明治1312月、女性の公式礼装についての公達が出され、明治14年の新年朝拝には、「勅任官は夫人同伴」が認められることになった。明治17917日付の内達で、勅任官、奏任官の制服を、礼服、通常礼服、通常服の3種に分け、「西洋服装ノ儀ハ時々達スヘシ」とした。同年11月の内達には「場合ニヨリ西洋服装相用ヒ苦シカラス」とある。

明治19623日、宮内大臣は「婦人服制之儀、先般及内達置候処自今 皇后宮ニ於テモ場合ニヨリ西洋服装御用ヰ相成ニ付、皇族大臣以下各夫人朝儀ヲ始メ礼式相当当西洋服装随意相用事」と内達した。

明治20年、昭憲皇后は思召書「婦女服制のことについて」で、洋服が日本女性の昔の衣服に似ていて、立っておこなう儀式に適し、動作も便利であるとして洋服を勧め、洋装化に際しては国産を使うことを推奨した(尾中明代「黎明期の洋装とミシンについて」『東京家政大学研究紀要)

◆鹿鳴館時代と婦人の洋装  鹿鳴館が落成した明治16年から明治20年までが「鹿鳴館時代」といわれている。

幕府が列強と締結した不平等条約(「安政五か国条約」)を改正するため、井上薫外務卿(明治18年の内閣制創設で外相)が、明治15年に「条約改正予備会議」(21回)を開き、明治19年には井上が、「条約改正会議」(27回)を開いた。

外交交渉に合わせて、井上は、日本が欧米並みの文明国であることを外国側に示すため、鹿鳴館において欧風舞踏会を盛んに開いた。舞踏会に参加する女性たちは洋装であった。

◆「内地雑居」と婦人の洋装  明治327月、新条約の発効で外国人も国内どこにでも住むことができるようになった。内地雑居で、女性の洋装が徐々に普及し始めた。それでも、洋装はごく限られた上流階層の女性だけであり、ほとんどの女性は、第2次大戦が終わるまで、和服を着用することが多かった。