2014年3月27日木曜日

平成26年度前期 神戸山手大学公開講座 「神戸学」


平成26年度前期 神戸山手大学公開講座
                                            
 
神戸学
                  (講師 芦屋大学客員教授 楠本利夫)
  
1回(510日)国際都市神戸の系譜~神戸の150年~

2回(524日)神戸開港物語~米英提督の遭難と神戸事件~

3回(67日)神戸弁天浜明治天皇御用邸~大津事件のもう一つの舞台~

4回(621日)改正条約施行「居留地返還と内地雑居」への市民の懸念

5回(75日)湊川神社物語~初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸~

 

申込:神戸山手大学 地域社会連携センター(078-351-7170shogai@kobe-yamate.ac.jp

有料:@1200

 

2014年3月25日火曜日

折田への切支丹監視命令「折田年秀日記」(『セルポート』2014.3.21号)



神戸今昔物語(通産第471号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(14

 

折田への切支丹布教活動監視命令

 

◆湊川神社宮司拝命  折田年秀が宮司に発令されるまでの経緯を折田の日記から紹介している。

 明治652日、折田は念願の湊川神社初代宮司を拝命した。折田の執念ともいえる猟官運動の成果である。思えば折田が故郷の神社に備前法光の短刀を奉納して願をかけ、「浮沈の決着」のため鹿児島を船で発ったのは313日であった。

 59日、折田は宮司仕官活動で世話になった渋沢栄一に「細蕉布壱巻」を贈った。渋沢は返礼として折田に「秋田八丈壱反」を贈った

◆「湊川神社遥拝所」創建募金  512日、折田は教部省に「湊川神社遥拝祠壇ヲ構営スル募金ノ記」を提出した。東京に「湊川神社遥拝所」創建するための募金趣意書である。「有志ノ諸君子同心協力シテ、資財ノ多寡ヲ論セス、各位の醸金ヲ以テ、此祠ノ全ク落成セン」と折田は趣意書に書いている。

 515日、折田は「兵庫県出張」(東京事務所)に滞留届を提出した。「私事、今般、教部省御用之儀ニ付、拝命後、滞留罷在候付、此段及御届候也、明治六年五月十四日 湊川神社宮司兼大講義折田年秀 兵庫県出張御中」。

 619日、折田が、宮司発令直後にしたためて教部省に提出していた「湊川神社神官への告諭文」が承認された旨、教部省から連絡があった。

◆給料と赴任旅費   627日、兵庫県出張所職員が、折田に6月中の月給12円を届けた。722日、折田は兵庫県出張所で赴任旅費45円と7月分の月給12円を受け取った。明治6年の巡査初任給が4(『値段史年表』朝日新聞社)であるので、折田の月給は初任巡査の3倍である。

◆切支丹布教活動監視 713日、折田は大教院で教部大輔から、神戸における切支丹布教活動を監視するよう命令を受けた。「兵庫神戸には外国人も多く、切支丹の布教活動が盛んであるが、兵庫県令の神田孝平(かんだたかひら)は洋学家であるので布教活動の監視は期待できない。ついては、折田が布教活動を監視して詳しく報告してほしい」との内容である。

 折田が、この命令を忠実に守り、明治71月に元三田藩主九鬼隆義夫妻等の日曜学校参加状況を教部省に詳しく報告したことは先に紹介した。切支丹禁教の高札は、欧州訪問中の岩倉具視からの要請で、明治62月に撤去されていたが、政府はまだ布教活動に神経をとがらせていた。教部省は洋学者である神田県令にも不信感を持っていた。

◆兵庫県令神田孝平  神田は、外国文化の紹介、啓もうに努めた開明派県令である。幕府の「蕃書調所」(洋学教育・研究施設。後に「開成所」と改称)の教授をしていた神田は、明治元年3月に頭取に就任した。神田は維新政府から招かれて、政治経済調査、地租改正建議など大きな功績を挙げた。ちなみに、福沢諭吉も神田と同じ時期に維新政府から招かれたが、福沢は官途を断り言論人の道を選んでいる

湊川神社初代宮司の謎(3)「折田年秀日記」(『セルポート』2014.3.11号)


神戸今昔物語(通産第470号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(13

 

湊川神社初代宮司の謎(3

◆朗報  49日、折田は大蔵省八等出仕の辞令を受けた。折田は日記に具体的な仕事の内容を書いていないが、宿直を伴う仕事であった。

427日、宿直明けの折田は、「今日ヨリ服薬ス、神経に馴なり」と書いている。どのような薬かは不明であるが、「神経に馴なり」とあるので精神安定剤の可能性もある。

 429日、大蔵大丞渋沢栄一から折田に朗報が入った。折田が教部省へ移籍することになったとの情報である。折田は小躍りして喜んだ。「是ニテ、大蔵方、手切レト相成候事」(『折田日記』)。

 430日、折田に大蔵大丞名で「2日後の午前10時に、礼服を着用して教部省へ出頭せよ」との書状が届いた。

◆宮司発令  52日午前10時、折田は正装して教部省に出頭し宮司の辞令を受け取った。

「五月二日、晴、

  一、午前第十字、教部省出頭之處、黒田教小輔ヨリ、

        大蔵八等出仕  折田年秀

    任湊川神社宮司兼補大講義、

        教部省大丞従五位三島通庸

        明治六年五月二日

   右之通拝命す」

このとき、折田は48歳だった。

◆神田県令訪問  55日、折田は、駿河臺に兵庫県令神田孝平を訪ねたが、あいにく神田は留守であった。折田は兵庫県の出張所(「兵庫県出張」(『折田日記』))へ行き、神田と対面した。何を話したのか、折田は書き残していない。

◆発令まで  前々号で折田の宮司発令日を、2月と5月の2説があると指摘した。日付順に整理してみよう。

 明治6228日:折田に「湊川神社宮司」辞令(『湊川神社六十年史 資料篇』(166頁)。『神戸開港三十年史 乾』(280頁)では、発令日は227日)。

 その後、何らかの理由で辞令が撤回された。筆者は、神田孝平が富岡鉄斎を宮司に推薦したため、教部省がいったん辞令を撤回したと考えている。政府が神社創建を兵庫県に一任し、実際に神社を創建したのは兵庫県であるので、県令には初代宮司についてそれなりの発言権があったのである。

 314日:折田、「浮沈の決着」のため、三邦丸で鹿児島出発(『折田日記』)辞令撤回に憤慨した折田が、辞令復活のため、急きょ上京した。

 319日:折田、東京着。参議西郷隆盛、大蔵大丞渋沢栄一、租税権頭松方正義、教部大丞三島通庸等に協力要請(『折田日記』)

 49日:折田に「大蔵省八等出仕」辞令(『折田日記』)

 52日:折田に「湊川神社宮司」辞令(『折田日記』。『湊川神社史 鎮座篇』(119頁)では 「428日就任」)

 折田の執念と行動力で勝ち取った湊川神社宮司ポストであった。

湊川神社初代宮司の謎(2)「折田年秀日記」(『セルポート』2014.3.1号)



神戸今昔物語(通産第469号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(12

 

湊川神社初代宮司の謎(2

 

◆「折田年秀日記」  元薩摩藩士折田年秀(要蔵)が、湊川神社初代宮司の辞令を受け取るまでを「折田日記」から追っている。「日記」には、明治の政官財界の超有名人が頻繁に登場する。

宮司を狙う折田にライバルが現れた。兵庫県令神田孝平が、富岡鉄斎を宮司に推薦したのである。折田は、「浮沈之決着」をつけるため上京を決意し、明治6313日、三邦丸で鹿児島を出発し、大阪、京都、神戸を経て、319日に東京に着いた。折田は、同郷の松方正義(後、総理)宅に止宿して、連日、人脈を頼って関係先に自身の宮司就任への支援を働きかけた。松方は、このとき大蔵省の租税権頭をしていた。

◆大蔵省出仕内示  46日、折田は松方から「大蔵省八等出仕」に内定した旨の連絡を受けた。当時の官職は、卿(大臣)、大輔(次官)、小輔、大丞(局長級)、少丞の下に、六等出仕から十五等出仕までの階級があった。八等出仕は決して低い官職ではない。

それでも折田は「八等出仕」に満足できず、同郷の教部大丞・三島通庸(後、警視総監)を訪ねて談判した。教部省は、神道に基礎を置く国民教化政策を所管する役所である。三島も、「人事は内定済み」と伝えた。折田は参議の西郷隆盛に相談した。参議は、左大臣、右大臣に次ぐ、卿(大臣)より上位の重職である。左大臣、右大臣には実質的な権限が殆どなかったので、参議は「集団性の政府首班」と位置付けられていた。西郷の意見は「まず八等出仕を受け、後のことはそれから考えればどうか」であった。

◆八等出仕辞令  49日午前9時、折田は大蔵省で辞令を受けた。

「折田要蔵

  八等出仕申附候事

   明治六年四月八日  大蔵省」

 折田の役人生活が始まった。この日、折田は新白金町備中屋に宿をとり、11日に浜松町1丁目に居を移した。

14日 折田は大蔵省から月給50円を受け取った。明治7年の「巡査の初任給」は4円(『値段史年表』朝日新聞社)である。折田の給料は決して低くない。

◆渋沢栄一に協力依頼  426日、折田は大蔵大丞・渋沢栄一にを訪ね、「何分八等官ニてハ堪難」(ママ)として、「楠公祠官拝命」への協力を依頼した。大丞は、省内ナンバー4である。おりしも、渋沢は、大蔵大輔(次官)井上馨と「財政改革意見」で意見衝突していた。54日、井上も渋沢も共に大蔵省を退官した。

武蔵国出身の渋沢は、幕末に一橋慶喜の家臣の平岡円四郎の推挙で慶喜に仕え、慶喜から重用されていた。渋沢は、後に、文久41864)年に折田が島津久光に随行して慶喜ら幕閣に「摂海防衛」を建言したときの、折田の弁舌と博識ぶりについて回顧している。渋沢は折田に一目置いていた。

渋沢は退官後、実業界に入り、わが国に近代的な銀行制度と株式会社制度を導入し、実業学校(商法講習所、後の一橋大学)を起こし、「明治財界の指導者」「実業王」と称された。

『神戸謎解き散歩』


『神戸謎解き散歩』

このたび、友人たちとの分担執筆で、文庫本『神戸謎解き散歩』を出版しました。

大国正美『神戸謎解き散歩』(KADOKAWA20142月)800円+税

うち、私が執筆担当した項目は次のとおりです。

 

2

・外国人居留地は和田岬から駒ヶ林に建設する計画があった?

・神戸に明治天皇御用邸があり大津事件の皇室外交の舞台になった?

・神戸にも鹿鳴館時代があったって本当?

・わが国初の移民収容所は、なぜ横浜ではなく神戸に造られたのか?

4

・ポートアイランドは自由港にする計画があった?

5

・神戸の布引丸山に岩倉具視の書斎があった?

6

・楠木正成を祀る神社の候補地には京都も挙がっていた?

 

2014年3月3日月曜日

湊川神社初代宮司の謎 「折田年秀日記」(『セルポート』2014.2.21号)


神戸今昔物語(通産第467号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(11
 

湊川神社初代宮司の謎 

◆折田の上京  明治6313日、元薩摩藩士折田年秀(通称、要三)は、「浮沈之決着」(「折田日記」)を期して上京した。途中、折田は湊川神社に参詣した。神社は前年5月に創建されていた。

折田の上京目的は、折田自身が湊川神社初代宮司に就任できるよう、関係先に働きかけることであった。鹿児島を出発する段階では、折田が宮司に発令されるかどうか不明であった。419日に東京に着いた折田は、松方正義の家に止宿し、多くの知人たちを訪問して協力を依頼した。折田は、東京到着から52日の宮司発令を受け取るまで、不安な心中を日記に吐露している。

◆折田の建言と兵庫裁判所役人の請願  文久41864)年2月、折田は島津久光を通じて、護良親王、楠木正成を祀る神社の創建を朝廷に建言した。朝廷は建言を承認したが、その後、久光が帰郷したため、神社創建は立ち消えになった。4年後の明治元(1868)年3月、兵庫裁判所(後、兵庫県庁)役人6人が、楠社創建を、総督東久世通禧を通じて政府に請願した。請願書を書いたのは薩摩出身の岩下方平である。

◆明治政府と湊川神社  後醍醐天皇に殉じた楠木正成を祀る神社は、天皇への忠誠を誓わせるための象徴的施設である。戊辰戦争勃発で財政事情が厳しかったけれども、政府は神社創建に1千円を下賜した。明治25月、戊辰戦争が終結した。政府は下賜金を3千円に増額し神社創建を兵庫県に一任した。

建設費は、兵庫県が寄付を募り調達した。全国から続々と現金、現物で寄付が寄せられ、寄付総額は24千円に達した。政府の下賜金は手つかずのまま残った。土地は住民が勤労奉仕で、湊川から土砂を運び田圃に投入して造成した。湊川神社のために「別格官幣社」という社格が作られ、明治5525日、勅使四辻公賀が天皇下賜の幣帛を奉納し、神社創建式典が行われた。

◆宮司発令日のなぞ  初代宮司を狙う折田に強敵が現れた。兵庫県令(知事)神田孝平(たかひら)が、儒学者で文人画家の富岡鉄斎を宮司に推薦したのである。兵庫県は、政府から委任されて湊川神社を創建した実績がある。神田県令はあらかじめ富岡の内諾を取り付けた上で政府に推薦した。

宮司人事は難航した。

 明治6228日付で、「鹿児島県士族折田年秀」が湊川神社宮司に発令され、権宮司も同日付で宇都宮眞名介が発令された(『湊川神社六十年史 資料篇』)。発令日は『神戸開港三十年史』では227日となっている。「折田日記」では、折田が52日午前10時に教部省に出頭し、同日付の辞令を受け取ったと書いている。なぜ、発令日が食い違っているのか。

 筆者は次のように考えている。折田は明治6228日付で宮司に発令されたが、その後、何らかの理由で発令が取り消された。神田県令が富岡鉄斎を宮司に推薦したためである。発令を取り消された折田は、急きょ、鹿児島を出発し上京した。折田は、東京で薩摩藩出身者のコネを通じて各方面に自身の宮司就任を働きかけ、その結果、52日に折田が初代宮司に発令されたのである。