2015年7月27日月曜日

西南戦争と折田年秀 久光宣撫勅使 『セルポート』150721号

神戸今昔物語(第515号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(58

久光宣撫勅使

島津久光の動向  西郷の挙兵で、政府は元左大臣島津久光の動きを気にしていた。久光はもともと政府に批判的な姿勢であったからである。久光は西郷を疎んじていた。西郷を重用したのは、久光の異母兄の薩摩藩主島津斉彬である。

◆勅使派遣  久光に勅使を派遣することになった。公家出身外交官の柳原前光(さきみつ)が勅使に任じられた。柳原は、大正天皇の生母柳原愛子の兄で、「白蓮事件」で知られる歌人の柳原樺子(白蓮)の父である。柳原は後に伯爵、元老院議長になる。

 護衛として、黒田清隆(陸軍中将)と高島鞆之助(陸軍大佐)が兵700名を率い随行した。黒田も高島も薩摩出身である。

 明治1038日、柳原は海路鹿児島に到着した。

 柳原は、鹿児島県庁に征討令発布と西郷、桐野、篠原の官位剥奪を通知し、県下における帯刀禁止、「密偵」として拘束されていた薩摩出身の警察官たち「視察団」全員の身柄引き渡しと、県内外国人の引き渡しを求めた。

局外中立  310日、久光は勅使を迎え、「いまさら暴挙を鎮圧することはできない。政府こそ暗殺問題の是非を明らかにするべきである」と述べ、自らを「局外中立」とした。

 護衛兵が弾薬を没収し火薬製造所を破壊した。

勅使は「視察団」の身柄を預かり、鹿児島県令大山綱良に東京への同行を命じた。大山は、黒田から「内務卿大久保に西郷の真意を説明するための上京」と伝えられていた。それでも、大山は死を覚悟していた。

◆大山県令逮捕  313日、玄武丸が鹿児島を出航した。15日、玄武丸が神戸に着いたとき、乗船してきた篠崎警察課長 が大山に逮捕状を示し、「あなたの上京は、政府命令で差し止めになった」と告げた。大山の隣の黒田の船室は空であった。大山はだまされていたことを知った。

政府は、西郷に同調していた大山を逆賊扱いし、逮捕して処断することを既に決定していた。「大久保に会わせる」は、大山を誘い出すための口実であった。 

315日折田日記  「午後、林内務小輔ヲ加納屋江訪ひしに、無程(ほどなく)、森岡氏も参会す」。内務小輔林友幸は長州出身で、後に元老院議官、枢密顧問官を歴任した。森岡は兵庫県権令森岡昌純である。

「鹿児島県令 大山氏、当夕、勅使柳原と同船上着に付、大山処分、林より森岡江被達たり、大山、此度、西郷等出県聞届けたるとの御届け書面、全く県令不心得之処置との事、依而、裁判相成るとの事」。

◆囚人服で護送  大山はフロックコートに山高帽の正装で、警官に囲まれて船を降り、神戸の裁判所に向かった。裁判所で官位剥奪を宣言された大山は、囚人服に着替えさせられ、神戸から玄武丸で東京へ護送された。930日、大山は長崎で斬首された
 森岡も薩摩出身であった。寺田屋事件(文久2年)の際、森山と大山らは、久光の命令を受けて「不穏分子」を襲撃した同志であった。その森岡が、兵庫県権令として大山を逮捕する役回りを演じたのである。

神戸海外移住者顕彰事業 『セルポート』150711号

神戸今昔物語(第514号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(57

神戸海外移住者顕彰事業(臨時)

◆神戸とブラジル  今号は脱線して海外移住がテーマである。理由は「神戸市広報紙KOBE」(201571日号)の「神戸とブラジル」特集の表紙で、メリケンパーク「海外移住者像」の写真を見つけたからである。

◆海外移住者像  筆者が『セルポート』にこの連載を始めた目的は、筆者たちが19997月から展開していた市民運動「神戸海外移住者顕彰事業」を宣伝するためであった。

運動を始めた頃、「移民は暗い。暗い話は神戸のイメージに合わない」「移住事業は国策。現地で苦労した移住者は祖国を恨んでいる」「寝た子を起こすな」などの反対意見が圧倒的に多かった。

運動はブラジルを中心とする海外日系人の共感を呼んだ。内外から寄せられた浄財で20014月に移住者像を建立した。作者は彫刻家の菊川晋久氏である。

山手の「海外移住と文化の交流センター」(旧移民収容所)とメリケンパークの「移住者像」を結ぶ坂道「移住坂」を訪れる観光客、海外日系人は多い。

◆ブラジルからの手紙  20064月、筆者に1通の航空便が届いた。差出人はサンパウロ在住の日系一世女性である。一部を紹介する。

「拝啓 楠本利夫様  (『移住坂~神戸海外移住史案内~』)を読みまして、自分が13歳のとき、家族と供に過ごしたあの懐かしい移民収容所が、大勢の心ある方達のお陰で、海外日系人会館として保存される事に大きな感激を受けました。思い出しますと、1960717日サントス港着のオランダ船チサダネ号の長い航海の旅はまだ子供心には全てが珍しい初体験の連続でしたので、沖縄の那覇港での、あの身を切られるような、夜になっても涙がかわかなかった辛い悲しさを紛らわせてくれました」。

◆ブラジルでの生活  「ブラジルの生活は、青春時代はなく、家族のためにただ働きずくめの生活の中で、家族にアパートを買い、両親を助けながら(略)、心の奥では、やっぱり子等の将来を考えれば、どうして、母はどの子にも相談せずブラジル移住を決意し行動したのかと、内心反抗しながらも、家族が皆、楽になれるよう努力してきました」。

◆神戸の思い出 「神戸旧移民収容所の思い出に残っていますのは、前の坂を下りた通りに、ひとりで散髪に下りていって、髪をきる間、理髪店の方達に移民としてブラジルへ行く話をしましたら、散髪代金を受け取らないで、幸せにねーと言われたのを思い出します。坂を上りながら、さみしくなった私はなぜか後ろを振り向きました。すると何と、あの理髪店の皆様が通りに立って手を振っているではありませんか! びっくりしましたが同様に手を振って移民収容所へ帰ったのを今でも覚えています。当時の神戸の方達にとって、当たり前の行動だったのでしょうね。

本当に温かい日本人の心がしのばれます」。

手紙を読んだ後、筆者は涙が止まらなかった。

市民運動の経緯は、黒田公男『神戸とブラジル』(神戸新聞総合出版センター)と拙著『移住坂』(セルポート)に詳しい。


西南戦争と折田年秀 征討の詔勅 『セルポート』150701号

神戸今昔物語(第513号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(56
 
西南戦争と折田年秀(4)征討の詔勅
 
◆征討詔勅  「大久保内務卿、16日東京より着津、当日上京なり」(217日『折田日記))。

217日、西郷鎮撫勅使として有栖川熾仁(たるひと)親王が任じられ、親王は18日に明治丸で神戸を発ち鹿児島へ向うこととなった。

親王と神戸はゆかりが深い。明治27年秋、親王の別荘「舞子離宮」が竣工した。現在の舞子ビラである。同年末、親王は日清戦争総参謀長として広島大本営に出仕中に発病し、明治2812日から舞子離宮で療養したが、115日に息を引き取った

18日、折田は日記に「廟議を拝聴するに、有栖川宮勅使に召立らる、に御定決之由、併し、大久保氏は断然追討を奏請、との港(「巷」)説紛々たり」。当時、大久保が鹿児島征討を主張しているとの噂が流れていた。事実ではない。大久保は西郷説得のため、自ら鹿児島に行くことまで主張していたのである。

このとき、折田51歳、西郷は折田より25か月年下で、大久保は西郷の28か月下であった。3人は元薩摩藩士である。

◆征討総督任命  勅使派遣の直前になって、熊本鎮台から「将に戦端を開かんとす」との急報が入り、派遣は中止された。219日、太政大臣三条実美名で征討の詔書が発表された。

親王は「征討総督」に任じられ、勅使の護衛兵司令長官に内定していた野津鎮雄少将(薩摩出身)と三好重臣少将(長州出身)は、それぞれ、征討第一旅団と征討第二旅団の司令長官に任じられた。勅使護衛兵として神戸に集結していた東京と大阪の兵員は、第一、第二旅団に編制替えされた。220日早朝、両旅団は、赤竜丸、社寮丸、玄武丸、蓬莱丸に分乗して神戸を出発した。目的地は九州である。

折田は220日の日記に「行在所第二号を以て、鹿児島県追討被仰出候事」、221日には「兵隊及軍隊、追々繰出しに成る、市中静謐なり」と書いた。

◆初の旅団編成  我が国で旅団が登場したのはこのときが最初である。陸軍省『軍制綱領』(明治8年)では、日本を7「軍管」に分け、軍管ごとに1「鎮台」を設置し、1軍管は23の師管で構成し、師管ごとに歩兵一連隊が設置されていた。軍団・旅団は戦時編成として想定されていた(橋本昌樹『田原坂』)。

225日、西郷が賊徒として、陸軍大将の官位をはく奪された。軍を統率する資格がある我が国ただ一人の陸軍大将が不在となったのである。
征討軍は、常備軍を出動させることになった。常備軍は連隊規模までであった。旅団が編成されることになった。旅団は各地の連隊を集めて組織された。混成旅団で各地域から徴兵された兵隊が一緒に戦うことになる。地元から徴兵された連隊兵は、地域性が強く平民でも旧藩の意識をそのまま残していた。神戸で合流した東京と大阪の兵たちは、言葉遣い物腰も異なる兵隊が、同じ号令で同じ動作をすることに驚いたり感心したりした。近衛兵だけは例外的に全国各隊から優秀な兵隊を集めて編成していた。

西南戦争と折田年秀(3)『セルポート』150621号


西南戦争と折田年秀(3)政府の苦悩

 
◆西郷の関与  政府は鹿児島の不穏な動きに神経をとがらせていた。内務卿大久保利通は、暴動が全国に飛び火することを警戒し、追討令と陸海軍動員の準備を進めることとした。

128日、陸軍卿山縣有朋は、熊本鎮台司令官谷干城に鹿児島の動きを伝え、防備強化を指示した。

25日、神戸京都間鉄道開通式が天皇臨御のもと盛大に行われた。

大久保は、陸軍大将西郷隆盛が暴動に関与しているとは思えなかった。西郷が「名分」を大事にする男であることを知っていたからである。大久保は27日付の伊藤博文宛の書簡で、「鹿児島の暴発は桐野利秋以下の行動に相違なく、西郷はこのような軽挙をするはずがない」と書いた。

27日、海軍大輔川村純義が、高尾丸で神戸から鹿児島へ向かった。西郷も川村に会いたかったが、私学校党が妨害したため、二人は面会できなかった。

29日、大久保は、鹿児島県庁から派遣された渋谷彦助から「西郷は、決起を求められたが、同意せず、急進派への説諭も効果がないとみて姿を隠した」との報告を受け、右大臣岩倉具視に伝えた。岩倉は「天下大幸」と返信した。後に、渋谷報告は虚言であることが判明した。

210日、近衛歩兵、東京鎮台、大阪鎮台に神戸で待機するよう命令が下った。

12日、閣議で、大久保を京都に派遣することを決めた。天皇は京都にいたので、政府首脳も東京と京都に分かれていた。

15日、折田は日記に「昨今より近衛兵幷に海軍等、追々繰り込みたり、大凡四千人なり、軍艦も同断、入津に及候」と書いた。

 15日朝、薩摩軍が鹿児島を出発した。

◆勅使派遣  

16日、海路神戸に着いた大久保は、伊藤、川村と会見し、対応を協議し、その夜、大久保と伊藤は汽車で京都へ行った。太政大臣三条実美の宿での会議で、大久保は「自分と西郷は子供の時から家族同様につきあってきた。西郷の心を知るものは自分以外にない。自分が鹿児島に行き西郷に直接説得すれば私学校党を抑えられる」と説いた。伊藤が反対した。大久保に万一のことがあれば、内務卿としてこの難局を乗り切れる人物はいない。岩倉も自ら勅使に立とうとしたが、周囲から止められて断念した。

折田は「大久保内務卿、16日東京より着津、当日上京なり」と日記(217日)に書いた。

 17日午前9時、三条、内閣顧問木戸孝允、大久保、伊藤が御所内の小御所に集まり協議し、鹿児島へ勅使を派遣することを決め上奏した。

天皇は勅使に有栖川熾仁親王を任じた。親王は18日に明治丸で神戸を発ち鹿児島へ向うこととなり、護衛として、野津鎮雄少将(薩摩)と三好重臣少将(長州)が、騎兵一中隊、歩兵四大隊、軍艦1隻を率いて行くことになった。

そこへ、熊本鎮台から「鹿児島暴徒の先鋒、既に県下に闖入」「将に戦端を開かんとす」との急報が入った。勅使派遣は中止となった。

西南戦争と折田年秀(2)『セルポート』150611号


西南戦争と折田年秀(2)

◆西郷辞任  時計を巻き戻す。

折田が、猟官運動の末、念願の湊川神社宮司の辞令を受けたのは、明治65月である。

この年1024日、西郷隆盛は政府に辞表を提出した。征韓論が岩倉、大久保らにより阻止されたためである。岩倉は辞表を受理すべきかどうかためらった。大久保は受理するよう背中を押した。参議と近衛都督の辞表だけが受理され、陸軍大将の辞表は受理されなかった。

◆決起の名分  明治611月、西郷は鹿児島へ帰った。西郷は、鹿児島に「私学校」を設立した。軍人養成学校である。

私学校勢力は鹿児島県の行政機構に次第に浸透していった。警察も私学校党が人事を掌握した。県令大山綱吉は私学校に協力的であった。

明治1012月、大警視川路利良は鹿児島に密偵を派遣した。説得と離反が目的である。けれども、私学校党が密偵を逮捕し、西郷暗殺計画があったとの供述書をとった。

大隅半島で狩猟を楽しんでいた西郷を、私学校党が23日鹿児島に連れ戻した。西郷は厳重に警備されていた。25日、私学校で会議が開催された。この日、神戸では、神戸京都間鉄道開通式が明治天皇臨席のもと行われていた。

私学校党の面々が熱く西郷に挙兵を迫った。西郷は「名分」がないことを悩んだ。西郷の頭では、挙兵の名分は「国難」以外にはない。結局、西郷は、急進派に押される形で挙兵することになった。

◆西郷説得  当初、政府は、西郷は名分がなければ挙兵しないと踏んでいた。天皇に供奉して神戸にきていた海軍大輔川村純義が、状況視察のため鹿児島に派遣されることになった。

27日、川村は、高尾丸に乗って海路神戸を出航した。9日、鹿児島に到着した川村が目にしたものは、出兵準備を進める私学校党の面々であった。とても上陸できる環境ではない。 

川村は鹿児島県令の大山綱良と高尾丸船内で会見した。大山は、西郷暗殺計画の証拠を得たとして政府を非難し、西郷は政府に尋問するため上京予定で、護衛のため私学校党も西郷に随従すると伝えた。川村は、暗殺計画は信じがたいとして、挙兵を思いとどまるよう求めた。大山は応じず、陸軍大将が兵を率いるのは当然だと言い放った。

川村と西郷の会見を大山が仲介することとなった。西郷は「川村と面接する。一利なしとせざるべし」と言った。ところが、直前に私学校党幹部が会見を阻止した。鹿児島出身の川村は、後に、自分が56日早く薩摩へ行っていたら、西郷に「賊名は蒙らせなかった」だろうと悔やんだ。

◆護衛が西郷を外部と遮断  211日、西郷は鹿児島病院のW・ウイルス医師を訪れ、旧知のアーネスト・サトウと会った。サトウは、西郷には、常に20名の護衛が付き添っていて、西郷の動きを注意深く監視し、うち45名は、西郷が「入るな」と命じたにもかかわらず、部屋の中へ入ると主張してゆずらなかったと書いている。

護衛には、西郷を警護するだけでなく、西郷を外部と遮断する任務も与えられていた。

西南戦争と折田年秀(『セルポート』150601号)

神戸今昔物語(第510号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(53

西南戦争と折田年秀
 
◆西郷下野  明治61023日、参議・陸軍大将西郷隆盛は辞表を提出し鹿児島へ戻った。

明治76月、西郷は鶴丸城の厩跡に士族子弟の教育機関として「私学校」を設立した。私学校は軍学校であり、砲隊学校と銃隊学校、幼年学校(章典学校)で構成されていた。

明治9年に神風連の乱、秋月の乱、萩の乱がおきた。不平士族による内乱を鎮圧した政府は、鹿児島の動きを警戒していた。

明治912月、薩摩藩出身の大警視・川路利良は、薩摩藩出身の中原尚雄ら23名を、密偵として鹿児島に送り込んだ。目的は、鹿児島の情勢調査と私学校生徒を西郷から離反させることであった。明治101月から密偵は行動を開始した。鹿児島では警察組織も私学校が掌握していた。23日から7日の間に密偵は私学校党に逮捕された。拷問を受けた一人は西郷暗殺計画を自供し口供書をとられた。

◆西南戦争前夜  明治101月、政府は鹿児島にある陸軍省の火薬を大阪に移送するため、三菱会社の汽船赤龍丸を派遣した。前年に西日本各地で反乱が続発したことを受け、鹿児島に火薬を置くのは危険であると考えたためである。

129日、赤龍丸は弾薬の船積みを開始した。これが、私学校党の暴発の契機になった。29日深夜、私学校党は、弾薬の搬出を許せば、「国家一朝事あるの日、何を以て之に応ぜんや」(『西南記伝』)として、草牟田弾薬庫を襲撃し、小銃、弾薬6万発を略奪した。30日、1000人が火薬庫を襲撃して弾薬を奪い、31日、磯の海軍造船所の火薬庫を襲撃し、弾薬24千発と小銃を略奪した。

このとき、西郷は大隅半島の小根占で狩猟を楽しんでいた。西郷は平素から私学校の生徒に軽挙妄動を慎むよう戒めていた。西郷に使者が派遣された。報告を受けた西郷は驚いて「ちょーしもた」と絶句した。24日、西郷は鹿児島に帰宅した。

◆西郷反乱  213日、 湊川神社宮司折田年秀は、故郷鹿児島の動乱を新聞で初めて知り、13日の日記に「鹿児島県下之変動之新聞初看得。本月一日之変動のみ也」(原文はひらがなカタカナ混在。読みやするためひらがなで統一。以後同)と書いた。

215日、「政府に尋問の筋あり」として、50年ぶりの大雪の中、薩軍が鹿児島を出発した。京都神戸間鉄道開通式の10日後である。このとき、天皇は京都にいた。

◆折田日記  215日、折田は日記に「一、昨今より近衛兵幷に海軍等、追々繰り込みたり、大凡四千余人なり、軍艦も同断、入津に及候、一、鹿児島変動之音容、然れとも確報ならす」と書いた。開通したばかりの鉄道で続々と兵員が神戸駅に到着した。

216日、内務卿大久保利通が船で神戸に到着し、汽車で京都へ行った。天皇に拝謁するためある。

折田は、217日の日記に、「一、当日も海・陸軍、大凡六百人余繰り込みたり、一、大久保内務卿、昨十六日東京より着津、当日上京なり」と書いた。