2014年1月29日水曜日

折田宮司のキリスト教布教活動監視(2) 「折田年秀日記」(『セルポート』2014.1.21号)


『セルポート」2014.1.21

神戸今昔物語(通産第464号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(7

 

折田宮司の切支丹布教活動監視報告

 

◆『洋教捜索之次第』  明治71月、湊川神社折田年秀宮司は、外国人宣教師のキリスト教布教活動の実態を、教部省に報告した。神戸市教育委員会『神戸の史跡』から引用しよう。

「明治六年二月政府がキリシタン禁教の高札を除去し、布教を黙認することに決めたので、アメリカ人宣教師グリーンやデヴィスらは元町五丁目に一軒の家を借り、表をキリスト教関係の本屋とし、裏を講義所とした。当初はまだキリスト教の文字をはばかり「真理の話」と大書した赤提灯をぶら下げていたという。旧三田藩主九鬼隆義は夫人子供を連れて、日曜ごとに馬車でその講義に出席した。婦人は極めて美人でしかも洋装であったから、市人の目をひいた。聴衆は次第に増えて数十人に達したので、湊川神社宮司折田年秀はこれを憂い、兵庫の商人の妻を密偵としてその講義に参加させ、『洋教捜索之次第』を明治七年一月に教部省に報告した」

◆教導職  折田はなぜキリスト教布教活動を監視していたのか。このとき、折田が教部省から「教導職」の「権小教正」に任命されていたからである。
 教導職とは、「大教宣布」を推進するための職名である。大教宣布とは「神道による国民思想の統一、国家意識の高揚を図った政策」(『日本近現代史小辞典』角川書店)である。
 明治5年、政府は神祇省を廃止し教部省を設置した。それまで神祇省の所管であった大教宣布に関する業務は教部省が承継した。教部省は新たに教導職を設置して、神官と僧侶を任命した。教導職の階級を「大教正、中教正、小教正、大講義、中講義、小講義、訓導」とし、それぞれ「正・権」を置いた。
 428日、政府は「教則三条」を発布し「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉載」を布教の綱領とした。東京に大教院、各府県に中教院と小教院をおき、神官と僧侶に「修学と教導」に従事させた。

◆折田宮司への発令  明治7113日、折田は教導職「権小教正」の発令を受けた。119日の「日記」に折田は辞令の内容を書き残している。

「一、西風別而烈敷、(略) 
 一、当日ハ御忌日ニテ、神前相仕舞候処、県庁ヨリ式部寮幷ニ教部省ヨリ之御用状来着  
   す、
   湊川神社折田年秀  
     補権小教正
       明治七年一月十三日
           太政官
        権小教正 折田年秀
         兼任湊川神社宮司
         明治七年一月十三日 教部大丞三島通庸奉


右之通 宣下、遥命辞令来着、即刻披露、御請書面式部寮坊城式部頭差立、教部省ニハ大小(少)差立立(ママ)候事、(略)

一、御国許モ宣下之形申被越候書面仕立、且ツ寧静丸ヨリ荷物仕送之件申遺候、

一、午後三時、車ニテ小教院出頭、戸長生駒治左衛門教導職の件申渡置候、

一、御社内、幷ニ官員ヨリ、祝酒幷ニ肴到来ス、

一、今夕、私宅ニテ祝酒、幷ニ合議所説教後ニ、官員祝酒差出候事、」
126日、折田は、兵庫県令神田孝平に教部省への報告内容を説明し、「早朝県令ヲ見舞、洋教一見引合」と日記に書いた。

2014年1月1日水曜日

折田宮司のキリスト教布教活動監視  「折田年秀日記」(『セルポート』2014.1.1号)


岩倉具視の湊川神社参詣(3)~折田宮司のリスト教布教活動監視~

◆「折田年秀日記」  湊川神社初代宮司の折田年秀は、明治6年(就任)から30年(逝去)までの克明な日記を残している。外国人居留地の返還は明治32年であるので、折田の在任期間は、居留地時代とほぼ重なっている。折田日記は、居留地時代の神戸を湊川神社という定点から観測したきわめて貴重な記録なのである。

◆「僧侶会議」「米国教師婦人ノ募勧」  岩倉具視が湊川神社に参詣した明治9年9月10日、折田は日記に「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参参拝之由也」と書いている。

「僧侶会議」と「婦人の募勤」とは何か。僧侶会議は、神官と僧侶等で構成する「教導職」によるキリスト教排斥のための会議であり、米国教師婦人ノ募勧とは、米国人女性宣教師の布教活動である。

◆明治政府の宗教政策   慶応4315日(1868.4.7)、成立間もない政府は「五傍の掲示」で、キリスト教布教禁止を太政官名で布告した。明治元~2年にかけて、長崎浦上で起きた大規模なキリシタン弾圧を、各国公使は政府に対して強く抗議した。

使節団を率いて欧米諸国を歴訪した岩倉具視は、米国グラント大統領、英国ビクトリア女王等から、政府の宗教政策を厳しく批判された。使節団は、不平等条約改正の最大の障害のひとつがキリスト教布教禁止政策であると政府に打電した。

明治6224日、政府は、「切支丹禁制の高札」を撤去し、布教活動を黙認することとした。このときベルギーにいた使節団には、まだ、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スエーデン、イタリア、オーストリア、フランスへの訪問を控えていた。

明治維新に際して、政府は、神道による国民思想の統一と国家意識の高揚を図る政策(「大教宣布」)をとり、神祇省を設置して「宣教師」(官職)を設け、国民教化、民心統一、仏教・キリスト教の排斥を推進させた。

明治5314日、神祇省の廃止に伴い宣教師も廃止され、新たに教部省が設置され、神官だけでなく僧侶等も「教導職」(官職)となり、国民教化政策を推進することとなった。

5月、中央に「大教院」が設置され、府県単位の「中教院」が管内の「小教院」を統括することとなった。8月、神社が小教院となり、すべての神官が教導職を兼任することとなった。教導職の数は、明治7年には全国で7247人に達した(朝倉治彦『明治官制辞典』)。

◆神戸における布教活動   外国人居留地がある開港場・神戸では、外国人宣教師が熱心な布教活動を行っていた。元三田藩主の九鬼隆義は、キリスト教に堂々と改宗し、夫人、子供を連れて日曜ごとに馬車でキリスト教の講義所に通っていた。参加者は日ごとに増えていった。

明治71月、教導職の湊川神社折田宮司は、「洋教捜索之次第」を教部省に報告した。
 
 
            創建直後の湊川神社