2012年10月28日日曜日

楠木正成像、戦艦河内から大阪市助役室へ (「湊川神社物語」『セルポート』2012.11.1号)


『セルポート』20121101日号(連載通算第425号)

「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第93

 

大阪市役所助役室の大楠公像

 

◆助役室の大楠公像  戦前、大阪市助役室に大楠公銅像が安置されていた。その銅像はひどく損傷していた。なぜ市役所の助役室に損傷した大楠公像か。

もともと、この大楠公像は戦艦河内の守護神として艦内に祀られていた。高さ「一尺五寸」の、「甲冑に金銀を象眼した美しい」座像であった。

戦艦河内(2万トン、20ノット)は、明治42年に横須賀海軍工廠で起工し、翌43年進水、大正元年に竣工した。河内に飾られた大楠公像の制作者は、東京美術学校教授海野美盛(彫金家、日本画家)である。海野は、明治43年に河内が進水するとき、同艦の守護神として大楠公座像を寄贈した。寄贈理由は、戦艦の名が正成の出身地である「河内」であることと、戦艦河内が海外遠征で、正成の忠誠を世界中に宣伝することを願ったためである。

ところが、戦艦河内は、6年後の大正7712日に徳山湾内において、火薬庫の爆発事故で沈没した。621名が殉職する大惨事であった。このとき「御真影警護責任者」の荒木中尉が、御真影を運び出した後、大楠公の銅像を抱いて艦外に運び出そうとして、殉職した。「楠公の銅像を抱た 殉難荒木中尉の死体発見 御真影奉還を了て仆る」(大正71024日付読売新聞見出し)。

不思議なことに、あれだけの大爆発にもかかわらず、銅像にはまったく損傷はなかった。海軍省は銅像を持ち帰った。けれども、大正12年の関東大震災で、銅像の上半身の象嵌が溶け流れて、原形が失われてしまった。

それを知った大阪市助役の木南正宣が、海軍省に大楠公像の払い下げを申請した。木南助役は、京都帝国大学出身で、大正 9 4 から昭和 3 3月まで助役を勤め、大阪市立美術館建設推進や、大阪美術協会の設立に寄与した文化に理解がある人である。木南が楠公座像の払い下げを申請した目的は、楠公の菩提寺である歓心寺中院に銅像を奉納するためであった。

海軍省は木南に銅像を払い下げた。この銅像が、戦前の大阪市助役室に飾ってあった大楠公座像である。(平瀬礼太『銅像受難の近代』芳川弘文館、2012年)。

◆全国に大楠公像建立  昭和10年の「大楠公六百年大祭」を機に、全国で大楠公の銅像建設がすすめられた。

昭和1054日、「菊水連隊」と呼ばれる「大阪歩兵第37連隊」の象徴として、大楠公像除幕式が執り行われた。製作は、鋳造家松木雲峰で、藤巻正之湊川神社宮司が銅像に入魂した。

同じころ、大阪府三島郡桜井駅跡に、同郡小学校校長会、楠公顕彰会のあっせんで、郡内小学生が寄付して「楠公父子決別像」が建立された。

神戸湊川公園に神戸新聞社が15万人から浄財を集めて大楠公騎馬像を建立したことはすでに紹介した。この像の製作にあたり、有識故事は関安之助が指導し斎藤素厳が製作した。

◆「聖駕奉迎時」像と「湊川奮戦時」像  東京の大楠公像は後醍醐天皇が隠岐から環幸するときの「聖駕奉迎時」である。神戸の像は「湊川奮戦時」の姿で、今にも動き出しそうな迫力がある。設置場所として湊川神社境内が検討されたが、「御神体を神社境内に再現することは法的に許されないため湊川公園にしたという」(「上掲書」)。

 

高村光雲がデザイン 皇居前楠木正成像(「湊川神社物語」『セルポート』2012.10.21号)


『セルポート』20121021日号(連載通算第424号)

「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第92

 

大楠公の銅像

◆銅像受難  畏友下川浩一郎君が、興味深い書物を紹介してくれた。平瀬礼太『銅像受難の近代』(芳川弘文館、2011年)である。「明治以後に続々と建てられた楠木正成・二宮金次郎・西郷隆盛など偉人たちの銅像。その多くは時代に翻弄され、戦時中に鋳潰されたり、戦後に撤去されたりした。銅像たちの数奇な運命を激動の近代史の中に読み解く」(上掲書)。

楠木正成の像は全国に数多い。東京と神戸には立派な楠木正成の銅像がある。東京皇居外苑の騎馬像は、明治33年に住友家が建立した。神戸湊川公園の騎馬像は、昭和10年に神戸新聞社が建立した。同書から全国の楠木正成銅像の話題を紹介したい。

◆皇居前楠木正成像  実は、皇居前に住友が銅像を作ることも、楠公の銅像とすることも、最初から決まっていたのではない。

明治中期、「靖国神社」に楠公馬上の肖像を奉納する計画があり、高村光雲が注文を受けて彫刻し、明治24年秋ごろ竣工する予定であった(『日本』(明治22630日号。平瀬前掲書)。

一方、同じ時期に、これとは別に、「宮城門外」に「何らかの銅像」を建立する動きがあった。

帝国博物館は、明治227月、東京美術学校、日本美術協会、京都画学校、東京彫工会等に、美術図案を募集した(『東京朝日新聞』(明治22716日号。平瀬前掲書)。懸賞金付きの図案募集である。

帝国博物館の九鬼隆一総長は、日本美術協会会頭に、図案を考案してほしい旨書状で依頼し、「皇城に荘厳さを与え、本邦美術の模範たるべきものであるので、気格形相はなるべく森厳を旨とするよう」との条件を付けた。

川畑玉章と岡倉秋水が共同で提案した「楠廷尉甲冑騎馬の像」が「優等」に選ばれた。博物館からの賞金50円は2人で折半した。巡査の初任給が8円(明治24年)の時代である(『値段史年表』朝日新聞社、昭和63年)。賞金額は現在なら約120万円となる。

◆別子銅山200年記念事業  明治23年は「別子銅山開坑200年」にあたる。住友本店は、記念事業として。別子銅山からとれた銅で銅像を鋳造して奉献することとなり、関係者の許諾を得て、意匠制作を東京美術学校に委嘱した。

木型彫刻は高村光雲と山田鬼斎、後藤貞行が担当した。既存の楠公の肖像は使わず、主として高村光雲が「楠公の性情によって面貌を割り出し」、そのイメージに基づいて光雲が作成した木彫りの試作像を専門家に諮り、意見を取り入れた上で、像の原型を作った。

刀剣、身体、乗馬等も、それぞれ専門家が考証した。鋳造をしたのは岡崎雪声である。岡崎は、日本古来の鋳造法と、米国での調査でヒントを得た方法を折衷し、兜、両袖、草鞋、太刀、手綱等は別々に誂え、日本古来の方法で取り付けた。馬は、胴と頭と四足と尾を7つに分けて洋式で鋳造した(永元愿蔵『楠公銅像記』(1900年。上掲書)。

明治29年、鋳造が完成した。像を設置する場所は、皇居二重橋の馬場先門内西南に決まり、宮内省が予算で台石を建設することになった。像は、明治32年に起工し、翌33年に完成した。

2012年10月5日金曜日

徳重中堂 打出楠公社 阿保親王祭 (湊川神社物語『セルポート』2012.10.11日号)

『セルポート』20121011日号(連載通算第423号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第91
          
           徳重中堂と打出楠公社、阿保親王祭

 打出楠公社  「大楠公戦跡碑」から北へ直線距離で250㍍の地点に「打出楠公会」があった。「会長は楠公崇敬者として全国的に有名な徳重中堂」である。中堂は「邸内に打出楠公社を奉祀した(「武庫の探勝」昭和14年」)。屋敷の敷地面積3764合4勺で、うち、楠公社敷地21659勺、自邸敷地15985勺であった。建物面積は1階が5498勺、2階が2815勺である(「徳重邸配置兼平面図」)。

現在も、同じ場所に、中堂の孫の徳重光彦氏が住んでおられる。徳重邸の玄関脇の石垣に、大楠公戦跡の由来を彫った石板の一部が埋め込まれている。「建武三年一月十一日 即ち湊川戦役を先立つこと百日目 大楠公が逆賊高氏の大軍を破り遠く九州まで敗退せしめる打出山古戦場は此南方後清水谷を中心とする 昭和八年○○○(摩耗のため判読不能)」とある。表示板が途切れているのは、もとの大きな石板を現在の石垣に埋め込む時、石垣のサイズに合わせて切断したためであろう。

徳重中堂  中堂は明治14年に山口県美祢郡真長田村で生まれた。明治38年、東京高等商船学校を卒業し大阪商船㈱に入社した。大正元~2年、英国に留学し、3年、大義丸の船長となった。4年、大阪商船を退社し、逓信省海員審判官に任官し長崎で勤務した。明治40年に退官し、日本海事工業㈱、帝国サルベージ㈱、神戸塗料㈱、海陸商事㈱等5つの会社の経営に携わった。退任後、中堂は、故郷の小学校に土地、二宮金次郎の銅像、伊勢参拝基金の寄附をしている(岡邑嘉三『徳重中堂 思想と生涯』平成5年)。

三徳塾  外国航路の船長、会社経営等で財をなした中堂は、積極的に社会貢献事業を行った。中堂は、昭和3年から16年間までの14年間に限っても、「大小合わせて60以上の事業を完行している。(略)これらの事業の枢軸をなすものが伊勢皇大神宮の崇敬であり、日本国の国体の明徴であると推察される」(上掲書)。

昭和7年、中堂は、故郷の真長田村に、松下村塾をモデルとした青少年教育施設「三徳塾」を開設した。動機は、当時「郷里の真長田村では(略)農村経済は疲弊のドン底に陥り」「夜逃げして都会の工業地帯に職人として職を求め離村するものが相次いで、農村破滅の一歩手前」であっため「有為の青少年に自力更生の魂を入れさせ」ることであった。塾の教育方針は、「拝むー天照皇太神。行うー教育勅語。捧げるー献身殉国」であった(上掲書)。

阿保親王祭復活  昭和10年、中堂は、大楠公六百年祭記念事業として、それまで途絶えていた阿保親王祭を復活させた。阿保親王は桓武天皇の孫、平城天皇の第二皇子で、在原業平の父である。阿保親王墓(翠ケ丘町11)は、中堂の屋敷から西北約300㍍にある。

中堂は阿保親王奉賛会を組織し、昭和10年宮内省の内諾を得て、毎年121日に祭典を執行することとした。祭祀費はすべて中堂の負担である(岡邑前掲書)。

 (芦屋大学客員教授 楠本利夫)