2014年12月26日金曜日

神戸今昔物語 連載15年目


神戸今昔物語(第494号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(37

連載15年目に

◆明治神戸の歴史  神戸開港以後の出来事を、湊川神社折田年秀宮司の日記と併せて、1年ごとに紹介している。折田は強引な猟官活動の末、別格官幣社湊川神社の初代宮司という栄えあるポストを獲得した。折田が神社に着任したのは明治6年である。この年2月にキリシタン禁制高札が撤去され、政府はキリシタン布教活動を黙認することとなった。欧米派遣中の岩倉具視が訪問国で日本の宗教政策についてクレームを受けたため、政府は、条約改正交渉に不利になると判断し、高札を撤去した。それでも政府は相変わらず外国人宣教師の布教活動に神経をとがらせていた。教部省から教導職に任命されていた折田は、兵庫県内の神道普及責任者でとして、異教キリスト教徒の活動に目を光らせていた。

明治8年の神戸での出来事を紹介しているとき、折田が監視していた旧三田藩主九鬼隆義が「神戸ホーム」に支援していることを書き、そのまま、神戸ホーム、神戸英和女学校(明治12年)、神戸女学院(明治27年)へと改称し発展してきたこの学校の歴史を紹介してきた。というわけで、連載の神戸歴史紹介は、明治8年で止まっている。次号以下で、引き続き、神戸の歴史と折田日記のかかわりを紹介していきたい。

◆連載16年目  この連載は今号で16年目に入る。連載を始めたとき、筆者は現職の地方公務員であった。連載のきっかけは、筆者たちが推進していた「神戸海外移住者顕彰事業」を、『セルポート』紙面を通じて広く伝えるためであった。

市民運動の結果、メリケンパークには「海外移住者家族像」(2001428日除幕式)が完成し、諏訪山下の旧移民収容所(昭和3年開業)は「市立海外移住と文化の交流センター」として市が保存活用することになり、2つの施設をつなぐ坂道は世界につながる「移住坂」として整備されることになった。運動を始めたときは、神戸でも、まだ移住者への差別、偏見が残っていた。「移民は暗い。暗いイメージは神戸のイメージに合わない」「移住者は現地で苦労したので、祖国日本を恨んでいる」「移住者の家族は身内に移住者がいることを言いたがらない。いまさら寝た子を起こすな」などの意見が圧倒的に多かった。

 それでも、内外から寄せられ2650万円の募金を原資として、メリケンパークに移住者家族像を建立することができた。「神戸移住三点セット」(旧移民収容所、移住坂、移住者家族像)は、神戸観光のスポットとなっている。

◆「年々歳々・・歳歳年年・・」  連載15年、タイトルも「移住坂」「居留地百話」「神戸今昔物語」と変えてきた。筆者も役所を退職し教員になった。貝原俊民前知事を始め、連載に貴重なコメントをくださっていた方々の何人かは鬼籍に入られた。「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」を実感している。

紙面を提供してくださっている『セルポート』と、読者の皆様に心から感謝しお礼申し上げる。

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日本パン学会設立 神戸パン略史(「神戸今昔物語496号」『セルポート』2014.12.21号)

神戸今昔物語(通算第496号)湊川神社物語(第2部)
     「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(39
 
日本パン学会(2) 神戸のパン略史

 ◆吉田茂と神戸のパン 美食家として知られている吉田茂首相(18781967)は、フロインドリーブのパンを気に入り、わざわざ飛行機で神戸から取り寄せた逸話がある。子息の英文学者吉田健一も、随筆『舌鼓ところどころ』に、「何しろここのパンは旨くて、ドイツ風のパンということになってゐるが、妙な香料が混ぜてある訳ではないし、パンもここまで行けば、フランス風もドイツ風もない」と絶賛している。

 なぜ、神戸のパンはおいしいのか。神戸のパンは、いつ頃から全国に知られることになったのか。

◆神戸のパン略史  

1868(明治元):神戸開港(外国人居留地開設、外国領事館、外国商館開設)。

1869(明治2):スエズ運河開通(欧州と極東の物流、人流が盛んになる)。

1873(明治5):湊川神社創建。

1874(明治7):神戸大阪間鉄道開通。

1877(明治10):神戸京都間鉄道開通。

1878(明治11):芳香堂(元町3丁目)の新聞広告「焦製飲料コフィー」。

1882(明治15):『豪商神兵 湊の魁』に「ビール・パン製造所」、芳香堂。

1899(明治32):外国人居留地返還。

1905(明治38):「藤井パン」(第2次大戦後「ドンク」と改称)創業。

1914(大正3)~1918(大正7):1次大戦(青島のドイツ兵捕虜が日本の捕虜収容所に)。

1917(大正6):ロシア革命(白系ロシア人多数が来神)。

1923(大正12):関東大震災(関東から多くの外国人が神戸に来住)。

1945(昭和20):第2次大戦終結。

1973(昭和48):神戸市「ファッション都市宣言」。

1977(昭和52)~7853):NHK連続テレビ小説「風見鶏」。

1981(昭和56):ポートアイランド博覧会。

◆神戸のパンが全国に  1868年の神戸開港で外国人がもたらした神戸のパン作りの技を、第1次大戦、ロシア革命、関東大震災で神戸に移住してきたドイツ人、ロシア人職人がさらに発展させた。

1973年、神戸市は「ファッション都市」を宣言し、アパレル、食品等の「生活文化産業」を、神戸を支える産業のひとつと位置付けた。続いて、NHK連続テレビ小説「風見鶏」が、異人館を舞台にドイツ人パン職人と日本人女性を取り上げたことで、異人館ブームが起き神戸のパンが一気に有名になった。さらに、「ポートアイランド博覧会」で、おしゃれな街神戸のイメージが定着した。

◆日本パン学会  今年12月、「日本パン学会」を立ち上げた。パンに関する学際的研究により、パン文化のより一層の振興と発展をはかるためである。事務局は、芦屋大学に設置する。学会設立のきっかけは、筆者がお手伝いをしている「神戸市シルバーカレッジ」国際文化協力コースのシニア学生たち(平均年齢70歳)が、20143月に研究報告書「神戸・パン物語」を発表し、パンに関する学際的研究を提唱したことである。




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2014年12月13日土曜日

日本パン学会設立 神戸のパンはいつから「全国区」になったのか


神戸今昔物語(第495号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(38

 
「日本パン学会」設立~神戸のパンはいつから「全国区」になったのか~

 
◆日本パン学会  明治神戸の歴史を、湊川神社宮司「折田年秀日記」とからめて、一年毎に紹介している。ここで少し脱線して、神戸のパンが全国に知られるようになった歴史を披露したい。「日本パン学会」を、今月立ち上げるためである。学会の目的は、パンに関する「学際的研究」を深めパン文化のより一層の振興・発展をはかることである

◆開港・第1次大戦・ロシア革命  神戸のパンの歴史は1868年の開港から始まる。神戸開港で、各国は外国人居留地に領事館を開設し、貿易商が商館を構えた。日本国内からも人々が移住してきた。日本国内で外国人が珍しかった当時でも、神戸では「隣人は外国人」はありふれた情景であった。神戸の住民は、外国人のライフスタイルを積極的に吸収し、パンも抵抗なく受け入れて神戸にパン文化を根付かせた。明治15年の商工録『神兵湊の魁』に早くもパン製造所の広告が載っている。

1次大戦、ロシア革命、関東大震災が神戸のパン文化発展に大きな影響を与えることになった。第1次大戦後、日本国内の捕虜収容所に収容されていたドイツ兵捕虜、ロシア革命を逃れた白系ロシア人、関東大震災で東京・横浜から震災を逃れた外国人たちである。その中にいたパン職人たちが、神戸のパン文化の深化に大きな貢献をした。神戸には外国領事館があり外国人が多かったことも、戦争、革命、震災を逃れた外国人の神戸定住促進に役だった。

◆ファッション都市宣言  第2次大戦後、神戸のパンは、「知る人ぞ知る」存在であった。昭和30年代前半、神戸のパンを絶賛した東京の文化人もいた。それでも、神戸のパンはまだ「地方区」的であった。神戸のパンを「全国区」に押し上げるきっかけとなったのは、昭和48年の神戸市「ファッション都市宣言」である。

ファッション都市宣言をした背景はなにか。それは、昭和39年制定の工場等制限法」である。法の目的は、大都市の「制限区域」への人口・産業の過度集中を防ぐことであり、制限区域での一定面積以上の工場や大学の新増設等を制限し市外への移転を促進することであった。

◆生活文化産業  それまで神戸の経済を支えてきたのは造船、鉄鋼、ゴム、食品の製造業と港湾であった。神戸から大規模工場が抜け出せば神戸はどうなるのか、関係者は頭を抱えた。

けれども、神戸には開港以来の国際的な文化が根付いていた。アパレル産業も育ちつつあった。神戸市は、ファッション都市宣言と合わせて、「生活文化産業」を、神戸を支える産業の一つの柱と位置付けた。アパレル、ケミカルシューズ、真珠等、パン、食料品等を、神戸の将来を担う産業とみなした。神戸の歴史が育ててきた神戸人のライフスタイルがそのまま生活文化産業に結実した。

 ファッション都市宣言に続いて、NHK連続ドラマ「風見鶏」(昭和5253年)で神戸ブームが起き、ポートピア博覧会(昭和56年)が神戸ブランドを全国区に押し上げた。




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2014年11月28日金曜日

神戸ホーム創立(明治8年)(9)「神戸女学院 大蔵谷移転計画」

神戸今昔物語(第492号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(36

神戸ホーム創立(明治8年)(9)「学舎移転」
 

◆神戸女学院  外国人宣教師が明治8年に諏訪山下に創設した女子寄宿学校「神戸ホーム」は、英和女学校(明治12年)、神戸女学院(明治27年)と改称し、高等科設置(明治24年)、専門学校(明治42年、普通部、音楽部)設置を経て、大正8年、「大学令に準拠した大学」を目指すことになった。ちなみに、大学昇格は昭和23年である。学校の発展につれ、諏訪山の土地が手狭になり、移転先を探した。

◆明石大蔵谷  大正10年、神戸女学院理事会は、高等学部を諏訪山に残し大学部の郊外移転を決定した。同窓会が明石大蔵谷に大学部の土地を購入した。山陽電鉄大蔵谷駅の北北東約1km一帯に広がる広大な丘陵地帯である。現在の地名では、明石市東朝霧丘、朝霧山手町、朝霧台である。この場所を選定した理由は、大正6年に兵庫電気鉄道(現・山陽電鉄)の大蔵谷駅ができたこと、敷地が明石海峡に展望が開けた風光明媚な丘陵地であったこと、同窓会の幹部が大蔵谷に近い塩屋に住んでいたこと、明石郡長が神戸女学院とつながりがあったこと等である。

 大蔵谷キャンパスには、大学部と音楽部の本館、寄宿舎、運動場、教職員住宅、講堂(1000人収容)等を建設することになった。移転は「大正17年」(1928=昭和3)までに完了する予定で事業費百万円余が計上された。

◆キャンパス設計  設計は、アメリカのマーフィ&ハムリン建築事務所が担当した。マーフィーとハムリンは大正11年に現地調査し、キャンパス計画を提案した。小高い丘から南へ海に向けて広がる段丘に、学舎群と学生寄宿群を配置した壮大な計画であった。

 校舎は、南北に走る尾根の左右に配置され、中央に塔、体育館、講堂、総務館兼図書館、礼拝堂、文学館、理学館等が配置された。塔は明石海峡を航行する船から目印になるランドマークであった。

建設着工に待ったがかかった。建設資金のための募金が集まらなかったためである。されに、大正12年に発生した関東大震災で、建物の耐震性が求められることになり、建築計画も見直さなければならなかった。

◆岡田山へ移転  大蔵谷キャンパス建設計画は中断された。学内での議論の結果、大蔵谷は大阪からの距離が遠く学生の通学には不便であるという理由で中止された。

新たな候補地として西宮岡田山が浮上した。神戸女学院は、竹中工務店社主等の仲介により、岡田山の土地と大蔵谷の土地を交換することとし、昭和53月に岡田山の用地を入手した。

 昭和8年、神戸女学院は全学挙げて岡田山に移転した。「第1回こうべみなとの祭」が挙行された年である。

(参考資料)川島智生「神戸女学院学舎の建築史学(Ⅰ)」(『神戸女学院大学論集』第51巻第1号、20047月)

2014年11月7日金曜日

神戸ホーム(神戸女学院)創立 明治8年(7) 鹿鳴館外交 「折田年秀日記」『セルポート』141101号


神戸今昔物語(通産第491号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(34

 
神戸ホーム創立(明治8年)(7)「鹿鳴館外交」
 

◆神戸ホーム  明治6年、政府は切支丹禁教の高札を撤去した。2年後、米国人女性宣教師が山本通に女子寄宿学校「神戸ホーム」を創設した。当初、キリスト教系女子寄宿学校に違和感を持つ住民は少なくなかった。追い風となったのは井上馨外務卿の欧化政策であった。

◆欧化主義  明治12年に外務卿に就任した井上は、欧化主義を標榜した。

明治13年7月、井上は駐日ドイツ公使に「吾輩ノ志は(略)各国人民の文明教化ヲ伝習スルニアリ(略)、吾輩ノ願ヒハ、泰西ノ各大国ト同等ノ権利ヲ有シ、同等ノ地位ヲ占メントスルコトニアリ」と語った。日本人が外国人から文明を学び、日本が西欧の国と対等の権利と地位を持つことを願うという内容である。

◆条約改正予備会議  明治15125日、井上は、外務省において、欧州の締約国(英国、ドイツ、フランス、オーストリア、ロシア、イタリア、スペイン、オランダ、スイス、スエーデン、ノルウエー、デンマーク)代表と「条約改正予備会議」を主催した。議事は井上が進行し、討議対象を、明治2年に明治政府がオーストリアと締約した条約とした。日本政府が外国側と最後に結んだこの条約は日本側にとり最も不利益な内容であったためである。予備会議は727日まで、法権、関税、貿易等について計21回開催していったん閉会した。会議結果を本国政府に報告して訓令を得た上で、再度、会議を催すためである。

◆鹿鳴館  明治161128日、外国賓客を接待するための迎賓館として鹿鳴館の落成式が行われた。煉瓦造2階建て延べ1450㎡の鹿鳴館の落成式で井上は、「国境の為に限られざるの交誼有情を結ばしむる場」と説明した。鹿鳴館では、井上外務卿、大山巌参議、森有礼文部卿とその夫人たちの尽力で、西洋風の夜会、舞踏会、化装会、婦人慈善会等が頻繁に開催された。井上は洋式舞踏会に不慣れな日本人のために、舞踏会マニュアル「内外交際宴会礼式」を自ら編纂した。

さらに井上は、民間人が明治14年頃に創設していた国際交流組織を鹿鳴館に移転し「東京倶楽部」と命名して、皇族、政府高官、民間有力者の外国人との交際の場とした。東京倶楽部では会話はすべて英語に限定し、会員制として一般の入会は認めなかった。

井上は外国人が宿泊する西洋式ホテルが必要であると考え、渋沢栄一、大倉喜八郎、桝田孝を説得し、鹿鳴館の隣地に帝国ホテルを建てさせた。帝国ホテルは明治23年に竣工した。

井上の欧化主義に刺激され、学問、芸術、法規、制度も欧米に倣おうする機運が高まり、羅馬学会、英吉利法律学校、仏学会、和仏法律学会、独逸学会等が設立された。

◆鹿鳴館舞踏会の評価  井上の欧化主義を「社会を挙げて欧米崇拝の風潮に溺没」と批判する声もあった。外国人も鹿鳴館舞踏会を皮肉った。画家ジョルジュ・ビゴーは「猿真似」と笑い、ピエール・ロチは「公(おおやけ)のどえらい笑劇」と風刺した。

 

2014年10月29日水曜日

神戸ホーム(神戸女学院)創立 明治8年(6) 「折田年秀日記」『セルポート』141021号


神戸今昔物語(通産第490号)湊川神社物語(第2部)
               「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(33

神戸ホーム創立(明治8年)(6) 条約改正と「泰西主義」
 
◆神戸ホーム  米国人女性宣教師が明治8年に神戸山本通に創設した「神戸ホーム」は、明治12年に校名を英和女学校に変更し、明治27には神戸女学院とした。外務卿井上馨が明治16年から20年にかけて展開した欧化政策は英和女学校への追い風となった。

◆「安政五か国条約」  江戸幕府が1858年に欧米列強と締結したいわゆる「安政五か国条約」は、我が国が「外国領事裁判権」「協定関税」「片務的最恵国待遇」を認めさせられた「不平等条約」であった。

領事裁判権は、我が国に於いて犯罪行為で訴追された外国人の裁判を、当該国の領事が母国の法律に基づいて行う権利である。

協定関税制度は、関税率を貿易相手国との話し合いで決める制度である。この制度では力関係において強い大国の意見が関税率に影響することになる。

最恵国待遇は、条約相手国に対し「最も恩恵的な地位を与えている第三国と同等の待遇」を与えることである。安政五か国条約では、日本側だけに相手国に最恵国待遇付与を認めた片務的な条約である。

◆岩倉使節団  明治政府にとり、条約改正は我が国が近代国家にふさわしい国際的地位を獲得するための喫緊の課題であった。政府は明治4年に岩倉具視を特命全権大使とする使節団を米欧に派遣した。岩倉は、最初の訪問国米国で条約改正交渉を開始しようとしたが、米国側から「天皇の権限委任状がない」と手続き上の不備を指摘された。以後、使節団の目的は西欧の文物視察になった。

◆「泰西主義」  欧米締約国が日本政府と領事裁判権撤廃交渉に入るにあたり出した要求は、日本の法典と裁判所制度を「泰西主義」(Western Principle)に範をとり整備することであった。欧米諸国は異教徒国である日本の裁判制度に強い懸念を持っていたからである。

◆井上馨外務卿  明治12年、井上馨が外務卿に就任した。神戸ホームが英和女学校と改称した年である。

井上は、締約国代表と明治15125日から727日まで外務省で21回にわたる条約改正予備会議を開き裁判権回復交渉を行った。井上は、外国側が裁判権回復を認めれば、外国人が日本国内で自由に居住地を選び、自由に営業し、自由に移動すること認めると宣言した。

安政五か国条約では、外国人は開港場の「外国人居留地」に居住することが義務付けられていて、自由に動くことができる行動半径も、居留地から半径10里以内に制限されていた。井上はこの制限を撤廃することを外国側に宣言したのである。

また、井上は日本の裁判所への外国人裁判官の任用と、日本人と外国人裁判官で組織する「日本混合裁判所」の設置を提案した。これに対し、パークス英国公使は、日本裁判権案の具体的説明がなされるまで、態度を保留せざるを得ないと表明し予備会議は挫折した。

明治167月、鹿鳴館が完成した。外国の賓客、外交官等を接待するための政府迎賓館である。

2014年10月14日火曜日

神戸ホーム(神戸女学院)創立 明治8年  (5) 「折田年秀日記」『セルポート』141011号

 
神戸今昔物語(通産第489号)湊川神社物語(第2部)
                「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(32

神戸ホーム創立(明治8年)(5)

 ◆神戸ホーム  明治8年、2人の米国人女性宣教師が山本通に創設した「神戸ホーム」は、明治12年、校名を英和女学校に改めた。
  外務卿井上馨が明治16年から20年にかけて展開した欧化政策、鹿鳴館外交も英和女学校の追い風となった。

◆神戸市発足  明治2241日、市制町村制が施行され、神戸市が発足した。
  この年末の我が国の人口は3990万人である。人口上位10都市は、東京139万人、大阪48万人、京都28万人、名古屋16万人、神戸14万人(全国第5位)、横浜12万人、金沢、仙台、広島が各9万人、徳島6万人であった、
  明治27年、英和女学校は神戸女学院と改称した。
  716日、政府は日英通商航海条約を締結し、続いて各国と同内容の条約を締結した。725日、日清戦争が勃発した。
  明治32年、新条約発効に伴い外国人居留地が日本側に返還された。神戸市は返還に備え外国語に堪能で法律知識を有する法学士の助役1名を増員した。

◆英和女学校移転検討  明治19年頃、英和女学校は移転を検討していた。生徒数が増えたことと、良好な教育環境を確保するためである。

「神戸又新日報」(明治1927日付)に次の記事がでている。
  「英和女学校の移転  当港諏訪山なる英和女学校は、今より凡そ十年以前に創立したるものにして、当時同校の発起者は、精々、閑静なる土地を選み、此所こそ人家に程遠ければ、実に、学校の地位に適当ならんとて、(略)取り設けたりし所、其後、同所の追々と開くるに従がひ、終に、同校の裏手に接近して、先年数軒の料理屋建ち並びしか上に、温泉場もあれば、以来、漸く、其料理屋の数を増加し(中略)絲竹管弦の音絶えず同校に聞こゆるを以って、自ずから生徒の勉学上に関係を及ぼすこと少なからず。特に同校は女生徒のみにて、多分は各地方より寄宿なし居るものなれば、(略)他に、最も生徒の教育に適当すべき閑静なる良地を選みて、速かに移転せんと、同校の係員は、兼ねて其土地の捜索をなし居ると云ふ。」
  少し解説しよう。
  諏訪山下の英和女学校は10年以上前に創設された。創設者は、女子寄宿学校にふさわしい閑静な土地を探し、人家から離れた山本通が学校適地と判断して学校を創設した。ところが、後に学校裏手に温泉場が開かれて料理屋が立ち並び三味線の音が学校にまで聞こえてくるようになった。同校はできるだけ早く移転すべく、適当な土地を探している。

◆諏訪山温泉  もともと諏訪山は6村(中宮、花隈、宇治野、北野、二つ茶屋)の共有地であった。明治初め、山麓の「字塩之池」に鉱泉が湧出することが判明した。明治34年頃、関戸由義が6村から土地を購入し、明治56年頃、諏訪山鉱泉場を開いた。関戸は料亭経営者の前田又吉に土地を賃貸した。前田は旧三田藩主の九鬼隆義から資金を借りて料亭常盤楼を建設し、諏訪山一帯は神戸を代表する料亭街となった(『神戸開港三十年史』)。

2014年10月7日火曜日

神戸ホーム(神戸女学院)創設 明治8年「折田年秀日記」『セルポート』141001号


神戸今昔物語(通産第488号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(31

 

神戸ホーム創立(明治8年)(4)

 

◆神戸ホーム  明治810月、米国人女性宣教師E.タルカットとJ.E.ダッドレーが山本通に神戸ホーム(後の神戸女学院)を創設した。キリスト教布教に理解を示していた三田藩旧藩主九鬼隆義と家臣達が神戸ホーム創設を支援した。

このころ、神戸ではアメリカンボード(米国海外伝道団)派遣の医師J.C.ベリーも、生田神社前に施療所「恵済院」を開いて貧しい人達の診療を行っていた。

◆同志社英学校  明治811月、新島襄が京都に同志社英学校を創設した。後の同志社大学である。当時、神戸には新島と親交がある米国人牧師達がいた。新島は彼らと連携して、同志社を政・経・理・工・医等のコースをもつ総合大学として神戸に創設しようとした。けれども、アメリカンボードは、神学校程度にしか同意しなかったため、新島は同志社の神戸設立を断念した。

◆英和女学校  明治9年、神戸ホームに女性宣教師V.O.クラークソンが着任した。

明治101月、教部省が廃止されキリスト教布教活動への制度的監視は終了した。

25日、神戸京都間鉄道開通式が神戸駅で行われた。臨席した明治天皇に在神外交団を代表して米国領事が祝辞を述べた。その10日後、西南戦争が勃発した。政府は弁天浜に兵站本部「運輸局」を設置した。おびただしい数の兵員と物資が完成したばかりの鉄道で神戸駅に連日到着し船で九州の前線に送られていった。折田年秀宮司は、その様子を目の当たりにして故郷薩摩と盟友西郷隆盛に思いを馳せた。折田は複雑な心境を日記に吐露している。

明治12年、2代目校長に就任したクラークソンは、英語と一般教養科目を増やして教科の水準を引き上げて5年制中学校とし、校名を「神戸英和女学校」と改めた。クラークソンの宗教色を抑えた洋風教育方式が、日本の欧化風潮に乗り、ホームの発展につながることになる。クラークソンとそりが合わなかった初代校長のタルカットは、明治13年、岡山の伝道所に移った。

明治151月、クラークソンが帰国しタルカットが再び呼び戻された。12月、第1回卒業式が行われ、15歳から27歳までの卒業生12人を送り出した。

明治15年、E.M.ブラウンが第3代院長に就任した。ブラウンは明治31年までの15年間、のちに4代目院長になるS.A.ソールと共に学校の基盤を固めた。

◆鹿鳴館外交が追い風に  明治167月、鹿鳴館が完成した。外務卿井上馨は条約改正会議を主催する傍ら、鹿鳴館に各国外交官、商館主等を招いて洋風舞踏会を頻繁に開催した。井上の狙いは、日本が欧米並みの文明国であることを外国側に認識させ、条約改正を実現するためである。

井上の欧化主義は英和女学校の学生拡大に好影響を与えた。明治17年、英和女学校は学生増に対応するため、隣地を購入して校舎を拡張し、明治19年にはさらに校舎新築に着手した。

明治27年、英和女学校は神戸女学院と改称した。

神戸ホーム(神戸女学院)創設 明治8年「折田年秀日記」『セルポート』140921号


 
               神戸今昔物語(通産第486号)湊川神社物語(第2部)
              「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(30
 

神戸ホーム創立(明治8年)(3)

◆女性宣教師  明治6331日、米国人女性宣教師E.タルカットとJ.E.ダッドレーが神戸に到着した。切支丹禁教の高札を224日に撤去されていた。

明治810月、2人は、山本通に神戸ホームを創設した。後の神戸女学院である。    

2人の来神に先立ち、神戸では、アメリカン・ボードから派遣されたD.C.グリーン(明治211月来日、横浜を経て明治3年来神)とJ.D.デイヴィス(明治410月来神)、医師のJ.C.ベリー(明治54月来神)が、布教活動をしていた。

デイヴィス夫妻は、明治5年頃から三田方面で伝道を始めていて、旧三田藩主九鬼隆義と夫人、家族達と親しくなっていた。明治5年夏、避暑のため有馬にいた夫妻を夫人が子供を連れて訪ねてきたこともあった。

◆私塾設立  2人の女性宣教師は、日本人が前年に設立した英語学校の教務補助から活動を開始した。当時、女子教育は不要と考えられていた。生徒は、九鬼と旧三田藩士の子弟たちであった。

明治610月、2人は神戸花隈村の前田兵蔵の家を借り、三田の男女10数人に英語と唱歌を教え始めた。生徒は徐々に増え、明治74月には北長狭通の白洲退蔵の持家を借り受けて、数名の女学生を集めて私塾で英語教育を始めた。白洲退蔵は三田藩の儒学者で白洲次郎の祖父である。

◆折田年秀宮司  明治65月、湊川神社に折田年秀宮司が赴任した。折田は、教部省から教導職に任命されていた。職務に忠実な折田は、グリーン、デイヴィス等の布教活動を熱心に監視し、明治71月、詳細な報告書を教部省に送った。

◆神戸ホーム  明治75月、在日伝道団は、総会で「主たる伝道地に寄宿舎制女学校の設立と学校管理に適した女性宣教師の派遣」を本国のアメリカン・ボードに訴えることを決議した。開港場神戸は重要な伝道地であった。グリーンは、「2人の女性宣教師が始めた北長狭通の学校が、伝道上も効果をあげている」と報告した。

神戸のアメリカ人宣教師達は、寄宿学校に適した借家を探した。適当な物件は見当たらなかったため、寄宿舎を新築することとなった。建設費6000ドルは、本国の伝道会からの寄附5,200ドルと、日本人信者の寄附800円(1ドル=1円)でまかなった。日本人の寄付者は、九鬼と旧三田藩士の白洲退蔵、前田泰一、鈴木清らであった。九鬼とその部下たちは、開港後神戸に来て土地投機で大金を手に入れていた。

明治83月、2人は山本通4丁目に6,600㎡の土地を購入し、建物建築を開始した。10月、木造2階建て500㎡の洋館が完成した。1012日、神戸ホームが開校した。この日が神戸女学院の創立記念日となっている。

明治9年、若い女性宣教師V.O.クラークソンが着任した。クラークソンとタルカットは教育方針をめぐり衝突することがあった。 

明治101月、教部省が廃止され、キリスト教布教活動への監視は終了した。