2014年12月13日土曜日

日本パン学会設立 神戸のパンはいつから「全国区」になったのか


神戸今昔物語(第495号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(38

 
「日本パン学会」設立~神戸のパンはいつから「全国区」になったのか~

 
◆日本パン学会  明治神戸の歴史を、湊川神社宮司「折田年秀日記」とからめて、一年毎に紹介している。ここで少し脱線して、神戸のパンが全国に知られるようになった歴史を披露したい。「日本パン学会」を、今月立ち上げるためである。学会の目的は、パンに関する「学際的研究」を深めパン文化のより一層の振興・発展をはかることである

◆開港・第1次大戦・ロシア革命  神戸のパンの歴史は1868年の開港から始まる。神戸開港で、各国は外国人居留地に領事館を開設し、貿易商が商館を構えた。日本国内からも人々が移住してきた。日本国内で外国人が珍しかった当時でも、神戸では「隣人は外国人」はありふれた情景であった。神戸の住民は、外国人のライフスタイルを積極的に吸収し、パンも抵抗なく受け入れて神戸にパン文化を根付かせた。明治15年の商工録『神兵湊の魁』に早くもパン製造所の広告が載っている。

1次大戦、ロシア革命、関東大震災が神戸のパン文化発展に大きな影響を与えることになった。第1次大戦後、日本国内の捕虜収容所に収容されていたドイツ兵捕虜、ロシア革命を逃れた白系ロシア人、関東大震災で東京・横浜から震災を逃れた外国人たちである。その中にいたパン職人たちが、神戸のパン文化の深化に大きな貢献をした。神戸には外国領事館があり外国人が多かったことも、戦争、革命、震災を逃れた外国人の神戸定住促進に役だった。

◆ファッション都市宣言  第2次大戦後、神戸のパンは、「知る人ぞ知る」存在であった。昭和30年代前半、神戸のパンを絶賛した東京の文化人もいた。それでも、神戸のパンはまだ「地方区」的であった。神戸のパンを「全国区」に押し上げるきっかけとなったのは、昭和48年の神戸市「ファッション都市宣言」である。

ファッション都市宣言をした背景はなにか。それは、昭和39年制定の工場等制限法」である。法の目的は、大都市の「制限区域」への人口・産業の過度集中を防ぐことであり、制限区域での一定面積以上の工場や大学の新増設等を制限し市外への移転を促進することであった。

◆生活文化産業  それまで神戸の経済を支えてきたのは造船、鉄鋼、ゴム、食品の製造業と港湾であった。神戸から大規模工場が抜け出せば神戸はどうなるのか、関係者は頭を抱えた。

けれども、神戸には開港以来の国際的な文化が根付いていた。アパレル産業も育ちつつあった。神戸市は、ファッション都市宣言と合わせて、「生活文化産業」を、神戸を支える産業の一つの柱と位置付けた。アパレル、ケミカルシューズ、真珠等、パン、食料品等を、神戸の将来を担う産業とみなした。神戸の歴史が育ててきた神戸人のライフスタイルがそのまま生活文化産業に結実した。

 ファッション都市宣言に続いて、NHK連続ドラマ「風見鶏」(昭和5253年)で神戸ブームが起き、ポートピア博覧会(昭和56年)が神戸ブランドを全国区に押し上げた。




※ 本稿から引用する場合は、必ず、当ブログからの引用と明記してください。


0 件のコメント:

コメントを投稿