2015年3月16日月曜日

開港直後の神戸の外国人(『セルポート』 150221号 通算501号)


開港直後の神戸の外国人

 
◆工事中の外国人居留地  新たに開港した神戸に、世界中か一獲千金を夢見た外国人が来航した。開港日、神戸村の外国人居留地は工事中であった。

将軍慶喜の再三の強硬な要請をうけた朝廷が、しぶしぶ「兵庫開港」の勅許を下したのは、幕府が諸外国に約束した開港日の半年前、1868626日(慶応3.5.24)であった。幕府は、外国奉行柴田剛中を兵庫奉行に任命し、居留地を突貫工事で建設させた。

居留地が完成するまでの間、外国人は居留地周辺の民家を住居兼事務所として借り上げた。当時の地図から、居留地周辺の外国人の借家を確認できる。

◆領事館も居留地の外に設置  英国は、領事館を旧海軍操練所跡に開設した。場所は、現在の東遊園地噴水公園南辺りである。米国は、神戸村庄屋の生島四郎大夫の屋敷に領事館を設置した。現在、海岸通りの郵船ビルがある地点である。フランスは、現在の鯉川筋沿い栄町通りの南かどに、プロシャは、元町通りと鯉川筋の交差点に、オランダは、みなと銀行本店の場所に、それぞれ領事館を開設した。

◆法外な家賃  横浜の英字週刊紙『ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メール』(1868.1.29号)は、開港直後の神戸での外国人の困惑ぶりを次のように紹介した。

「あばら家同然の粗末な建物に対して、途方もなく高額の家賃が請求されている」。「私の事務所は、(略)街路に面しているため、戸口には、たえず黒山の人だかりがしていて、私をじろじろと見つめ、人をさげすむヤジを飛ばしている」。

当時、外国人は極めて珍しかったので、周辺の村から人々が外国人を見物に来ていた。

◆外国人の困惑  外国人が困惑したことは次の4点であった。

1は、工事中の居留地には、商館も住居も建設できず、商売ができないことであった。

2は、法外な家賃であった。彼らが間借りした日本家屋は、欧米の水準から見ると、みすぼらしい木造住宅であった。部屋には鍵がかからず、プライバシーはなかった。居留地の商館と住居が完成するまでの間、彼等はこのような家に、法外な家賃を払い住み続けなければならなかった。

3は、生命の危機であった。居留地北側の西国街道を往来する帯刀した武士の姿は彼等を恐れさせた。

開港約1か月後(1868.2.4)に、神戸三宮神社前で、備前藩士と外国人の衝突事件(「神戸事件」)が起きた。沖に停泊する外国軍艦から陸戦隊が上陸して備前藩兵と交戦した。いつなんどき、再び衝突が起きるかわからない、と彼等は恐れた。「治外法権」の居留地の完成が待ち遠しかった。

4は、食事であった。異国で生活する彼らには、食べることが大きな楽しみであった。けれども、神戸には、欧米風の食べものが他に入らなかった。そんな彼等にとり、前号で紹介した、横浜の業者による『ヒョーゴ・ニュース』の広告(21日号、11日号)の食品リストは、文字通り、「垂涎の的」であった。
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ドイツのビール職人養成学校広告(『セルポート』150311号 通算503号)


ドイツのビール職人養成学校広告


◆ビール製造学校生徒募集広告  明治9年、神戸で発行されていた英字紙THE HIOGO NEWS187611日号)に、ドイツのビール職人養成学校の生徒募集広告が出た。西南戦争の前年である。


ビール製造実践的教習

ビール醸造学校

ライン河沿いボルムス

生徒を受け入れ開始111日。年間授業料400英ポンド

                  P.レーマン(取締役)

ドイツヘッセ大公国、ライン河沿いボルムス

なぜ、ドイツの職人養成学校が神戸の英字紙に広告を出したのか。英字紙であるので、読者は神戸と大阪在住の外国人である。広告の狙いは、ビール醸造所を経営する外国人に、彼らが雇っていた日本人職人に醸造技術を学ばせるため、と筆者は考えている

学校所在地のヴォルムスは、ドイツ中部のライン側沿いの人口約8万人の町である。この町は、宗教改革を主張するマルティン・ルターの帝国追放を決定した帝国議会開催地として知られている。町のシンボルは大聖堂である。

ヴォルムスという地名を見つけたとき、筆者に34年前にこの町を訪れたときの記憶がよみがえった。筆者は、当時ヴォルムスの南25kmのルードヴィックス・ハーフェンというライン河沿いの町で下宿し、毎日、市電でライン川を渡って対岸のマンハイムの語学学校に通っていた。11月のある日曜日、ふと思い立って、国鉄を利用してヴォルムスへ行き、3時間ほど町を歩きまわった。何の変哲もない町であったと記憶している。それでも、一度訪れたことがある町は、心のどこかに残るものだ。

◆日本人のビールとの遭遇   我が国で初めてビールを作ったのは、幕末の蘭法医川本幸民である。三田藩出身の川本は、オランダ語の書物の記載に基づいて、現在の東京新橋5丁目にあった自宅でビールを試作した(植田敏郎『ビールのすべて』)。

 幕末遣米使節団に参加した仙台藩士の玉虫左大夫が、往路、米国軍艦ポーハタン号艦上で、ジョージワシントン記念日にふるまわれたビールを、ブリキ製のジョッキで飲み、「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足る」と書いたことは前号で紹介した。

使節団の目的は、日米通商航海条約批准交換であった。新見豊前守正興を正使とする一行は、万延元(1860)年118日、米国軍艦ポーハタン号で品川を出発し米国に向かった。使節団に先行し、軍艦奉行木村摂津守、船将勝麟太郎(海舟)が、5日前の113日に咸臨丸で品川を出航した。中浜万次郎、福沢諭吉らも同行している。

◆我が国初のビール醸造所  明治の初め(元年~3年頃)、ノルウエー生まれの米国人ビール醸造技師ウイリアム・コープランドが,横浜山の手の水質の良さに目をつけ、天沼にスプリング・バレー・ブリュアリーを設立した。醸造所は、その後、紆余曲折を経て、総代理店の明治屋が「キリンビール」の銘柄で製品を販売し、明治40年に日本人に経営譲渡されて麒麟麦酒株式会社になった。

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2015年3月12日木曜日

ワレン・チルソン社 食品広告のなぞ 『セルポート』150221号(通算500号)


ワレン・チルソン社食品広告のなぞ

 
◆英字紙の広告  前号で、英字紙「ヒョーゴ・ニュース」(The Hiogo News)創刊号(1868.4.23号)に掲載されたワレン・チルソン社(Warren,Tilson & Co)のパン広告を紹介した。

同社は同じ紙面に、次の広告も出している(英語)。


ワレン・チルソン社

キャロルビル5

ーーーーーーー

代理店、小売商 海軍御用達、総合商店

ーーーーーーー

極上牡牛肉、野菜、生鮮食品を最安価で提供

保存牛肉、牛乳、果物、小麦粉、バター、チーズ、ピクルス、ソース、オイル、コーヒ、砂糖、スパイスその他

最高品質とブランド  

ワイン、蒸留酒  

パイントとクオートのバスエール

神戸1868423

 

神戸開港(1868.1.1)からすでに4か月と23日が経過していたが、外国人居留地はまだ工事中だった。居留地周辺の民家に下宿していた外国人は、異国の食事に辟易していた。そんな彼らの心中を見通したように、おいしそうな西洋の食材を並べた広告である。

◆キャロルビル   「キャロルビル5」の「ワレン・チルソン社」の実態について、横浜居留地の研究者である知人に尋ねてみた。返事は意外なものだった。

「キャロルビルは確かに存在した。けれども、ワレン・チルソン社の名は見当たらない。同社の横浜での営業実績はない。キャロルビル5号室に、開設準備室を設置したとの想像は可能である。キャロルビルは、雑居ビルのようだった。ビル2階には、一時、フリーメーソンの集会所が置かれていたこともある」

同じ紙面のワレン・チルソン社広告の左隣に、J.D.キャロル商会(J.D.Caroll Co.)の広告が出ている(原文英語)。

「広告  キャロル商会  船舶用品供給業&総合商店  兵庫と横浜  神戸、1868423日」

米国籍のキャロル商会は、「船舶用品供給業者」(Ship Chandler)、すなわち、港に停泊する船舶に食料雑貨・船用品を供給する商人であった。

ワレン・チルソン社は幽霊会社か。横浜での営業実績がないワレン・チルソン社の広告について、筆者は次のように考えている。

まず、新たに開港した神戸の外国人を対象に、キャロルビルのオーナーであるキャロル商会が、ワレン・チルソン社を立ち上げたことである。もうひとつは、神戸での開業を目論んだワレン・チルソン社が、横浜での営業実績を神戸の読者に印象付けるために、事務所を「キャロルビル5」に設置したことである。

明治26年の「横浜貿易捷径」に「41番館 米商 カルロルー商会 輸入売品 ペンキ及び洋酒類。輸出買品 磁器及陶器、羽二重・雑貨」とあり、明治31年の「横浜姓名碌」には「41番 カルロル商会 肉類食料品輸入商」とある。

外国人居留地競売まで、まだ4か月以上も待たなければならない。


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パンビール製造所 『セルポート』150301号(通算502号)


パンビール製造所

 

◆パンビール製造所  『豪商神兵 湊の魁』(神戸史学会)は、明治15年に刊行された神戸と兵庫の「商工名鑑」である。兵庫と神戸の一流店が掲載されていて、店舗のイラスト付きで掲載されているものと、屋号・店主名・住所だけのものがある。この違いは、広告料の違いであると筆者は考えている。


『魁』に、「パンビール製造所 下山手通三丁目 方 常吉」とある。下山手三丁目は、現在の住所とほぼ同じく、現在のJR元町駅の北東東にあり、当時「雑居地」として外国人と日本人の混住が認められていた地域である。


広告主の「方 常吉」とはだれか。「方」という名字は日本人にはきわめて少ない。筆者は雑居地に住んでいた中国人ではないかと考えている。外国人居留地の欧米人は中国人を雇って商館の運営を任すことが少なくなかった。けれども、中国人は祖国の清国が日本との条約締結国ではなかったため、居留地永代借地権の入札に参加資格がなかった。中国人は、生田川と宇治川の間の「内外人雑居地」に土地を求めて住んでいた。


◆パンとビール  それにしても、なぜ「ビールパン製造所」か。パンとビールを同じ工場で作っていたのか。

植田敏郎『ビールのすべて』(中央公論社)によれば、「ビール醸造の歴史は、人類の歴史と同じように古い」。エジプトでは、「ビールはよくパンの製造所で造られていた。まず、パンを造るこね粉からかたまりを持ってきて、それを土器に入れて火にかける。発酵したこのかたまりをくだき、水に入れて薄いかゆにする。このかゆを濾し器で桶の中に濾し落とす。この受け口から流れ出る液体を、用意のジョッキに受ける。古代のビールはこうしてできたという」。「灼熱のエジプトの砂の中を、何万人という奴隷が、ファラオの命令で巨大な石を空にそびえ立つピラミッドに積み上げるためには、ひりひりするほどのはげしい渇きをいやすビールこそ、なくてはならない飲み物だったのである」。

日本人で初めてビールを飲んだ記録を残しているのは、仙台藩士玉虫左大夫(横浜出航時37歳)である。玉虫は、安政条約批准遣米使節団メンバーとして、米国軍艦ポーハタン号で訪米した。玉虫は、艦上で飲んだビールの味を、「苦味ナレドモ口を湿スルニ足ル」と記している(小菅桂子『近代日本食文化史』(雄山閣)。

◆横浜に初のビール醸造所  明治2年、「ウィガートンによって山手六番地に横浜に初のビール醸造所「ジャパン・ブルワリー」が創設される」(小菅、上掲書)。

横浜は神戸より9年早い1859年の開港である。横浜初のビール醸造所は、開港10年後に外国人によって行われた。神戸初の「ビールパン製造所」は、開港15年後刊行の『魁』で確認できる。当時の出版事情を考慮に入れれば、実際に製造所が創設されたのは、刊行数年前の明治10年代の初めであると考えられる。「十年一昔」、10年の歳月は世の中を変えるのに十分な期間である。

 
 


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