2015年3月12日木曜日

パンビール製造所 『セルポート』150301号(通算502号)


パンビール製造所

 

◆パンビール製造所  『豪商神兵 湊の魁』(神戸史学会)は、明治15年に刊行された神戸と兵庫の「商工名鑑」である。兵庫と神戸の一流店が掲載されていて、店舗のイラスト付きで掲載されているものと、屋号・店主名・住所だけのものがある。この違いは、広告料の違いであると筆者は考えている。


『魁』に、「パンビール製造所 下山手通三丁目 方 常吉」とある。下山手三丁目は、現在の住所とほぼ同じく、現在のJR元町駅の北東東にあり、当時「雑居地」として外国人と日本人の混住が認められていた地域である。


広告主の「方 常吉」とはだれか。「方」という名字は日本人にはきわめて少ない。筆者は雑居地に住んでいた中国人ではないかと考えている。外国人居留地の欧米人は中国人を雇って商館の運営を任すことが少なくなかった。けれども、中国人は祖国の清国が日本との条約締結国ではなかったため、居留地永代借地権の入札に参加資格がなかった。中国人は、生田川と宇治川の間の「内外人雑居地」に土地を求めて住んでいた。


◆パンとビール  それにしても、なぜ「ビールパン製造所」か。パンとビールを同じ工場で作っていたのか。

植田敏郎『ビールのすべて』(中央公論社)によれば、「ビール醸造の歴史は、人類の歴史と同じように古い」。エジプトでは、「ビールはよくパンの製造所で造られていた。まず、パンを造るこね粉からかたまりを持ってきて、それを土器に入れて火にかける。発酵したこのかたまりをくだき、水に入れて薄いかゆにする。このかゆを濾し器で桶の中に濾し落とす。この受け口から流れ出る液体を、用意のジョッキに受ける。古代のビールはこうしてできたという」。「灼熱のエジプトの砂の中を、何万人という奴隷が、ファラオの命令で巨大な石を空にそびえ立つピラミッドに積み上げるためには、ひりひりするほどのはげしい渇きをいやすビールこそ、なくてはならない飲み物だったのである」。

日本人で初めてビールを飲んだ記録を残しているのは、仙台藩士玉虫左大夫(横浜出航時37歳)である。玉虫は、安政条約批准遣米使節団メンバーとして、米国軍艦ポーハタン号で訪米した。玉虫は、艦上で飲んだビールの味を、「苦味ナレドモ口を湿スルニ足ル」と記している(小菅桂子『近代日本食文化史』(雄山閣)。

◆横浜に初のビール醸造所  明治2年、「ウィガートンによって山手六番地に横浜に初のビール醸造所「ジャパン・ブルワリー」が創設される」(小菅、上掲書)。

横浜は神戸より9年早い1859年の開港である。横浜初のビール醸造所は、開港10年後に外国人によって行われた。神戸初の「ビールパン製造所」は、開港15年後刊行の『魁』で確認できる。当時の出版事情を考慮に入れれば、実際に製造所が創設されたのは、刊行数年前の明治10年代の初めであると考えられる。「十年一昔」、10年の歳月は世の中を変えるのに十分な期間である。

 
 


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