2015年12月23日水曜日

「市長給料と都市の盛衰」(『セルポート』151221号)


神戸今昔物語(第529号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(72

開港150年へのカウントダウン~市長給与と都市の盛衰~ 
 
◆市長給与  大正15年刊行の『市政研究 神戸市長物語』(神戸市政研究社)という書物がある。著者は神戸新聞市政記者の伊藤貞五郎である。

同書の全国100都市市長給与(大正1412月調。年間報酬)は、都市の盛衰を考える上でまことに興味深い(付表)。

6大都市の市長給与  市長給与はその都市の経済力(人口、産業等)と格式で決まる。大正14年の全国市長給与の最高額は大阪市長25千円であり、2位東京市2万円、3位横浜市15千円で、4位の神戸市、京都市、名古屋市の市長給与12千円を大きく引き離している。

伊藤は言う。「人口、経済から見て第三位を誇る神戸市長の一万二千円はチト安すぎる」「市会の多数は、都市の体面、格式から論ずるも、年俸を二万円、交際費は少なくとも五千円に増額する必要あろうと言っていた」。

「給与額から評価すれば、大阪の市長は大臣三人分の俸給取り、神戸、京都、名古屋は内閣総理大臣と同額、平大臣よりも多きこと四千円、之をもってしても二重監督は無意味である」。

6大都市に次いで市長給与が高い都市は、給与1万円の札幌市、福岡市、熊本市、函館市、下関市、岐阜市、呉市である。うち、現在政令指定都市になっているのは札幌市、福岡市、熊本市だけである。

◆大阪市長の給与  かつて、大都市の市長給与は高額であった。とりわけ大阪市が群を抜いていた。

なぜ大阪市長の給与は高いのか。伊藤は力説する。「大阪市は、日本第二の大都会、商工業の中心であって関西財界の覇権を掌握している。殊に、大正十二年九月一日の関東大震災以来、実力に於て東京市を凌駕し、十四年三月の隣接部編入に依って、面積戸口も全国第一位となり、政府に対しても羽振りが利き重きを置かれている」。

「但し我が国市長は月給徒に高きのみで年俸六千円の知事に頭が上がらぬ」。市長は「官吏のやうに、叙位叙勲があるでなし、没情漢の市会議員や無理解の市民に虐められ通し、それで俸給が安いと来てはソレこそウダツが上がらぬ」。ちなみに、大正14年の官吏(高等文官試験に合格した高等官)初任給は75円(月俸、諸手当を含まず)である(朝日新聞社『値段史年表』)。

◆都市の盛衰   都市にも栄枯盛衰がある。

現在の政令指定都市20都市のうち、上位10都市で過去5年間(20102015)に人口が減少している都市は、神戸市(△9293人)と京都市(△5319人)だけであり、横浜市、大阪市、札幌市、名古屋市、福岡市、川崎市、さいたま市、広島市の人口は増加している。

人口1120位までの政令指定都市のうち人口減少は、北九州市、堺市、新潟市、浜松市、静岡市である。仙台市、千葉市、熊本市、相模原市、岡山市の人口は増加している。

大正14年の市長給与は下位であったが、100年後の今日「政令指定都市」になっている都市がある。川崎市と広島市である。現在人口7位(1474千人)の川崎市の当時の市長給与は3千円であった。人口10位(1188千人)の広島市も当時の市長給与は5千円であった。

市長の政策が都市の将来を決めることがある。

かつて、事実上神戸沖に内定して関西新空港が、地元の反対で泉南沖になったことが、神戸の今日の国際都市機能低下を招いている要因の一つであることは否めない。「国際都市」の看板がない神戸はただの「地方県庁所在都市」にすぎない。神戸空港の国際空港化は喫緊の課題であると考える。

30年後、50年後、日本列島都市群の中で神戸はどんな位置を占めているのだろうか。

 
全国市長の年俸    大正14.12調べ (単位:千円)



順位

俸給

都市名

1

25

大阪市

2

20

東京市

3

15

横浜市

4

12

神戸市、京都市、名古屋市

5

10

札幌市、函館市、福岡市、熊本市、下関市、岐阜市、呉市

6

8

長崎市、八幡市、若松市

7

7.5

門司市

8

7

岡山市、津市、鹿児島市、甲府市、高岡市、釧路市、小倉市

9

6

堺市、仙台市、四日市市、佐世保市、新潟市、豊橋市

10

5.5

姫路市、都城市、旭川市

11

5

広島市、富山市、大分市、久留米市、大牟田市、戸畑市、佐賀市、静岡市、室蘭市

12

4.95

金沢市

13

4.5

明石市、和歌山市、大津市、長岡市、浜松市、那覇市

14

4.3

高知市

15

4

尼崎市、西宮市、徳島市、高松市、丸亀市、宇和島市、別府市、前橋市

16

3.8

千葉市、宇都宮市

17

3.6

松山市、宮崎市、長野市

18

3.5

福井市、今治市、岡崎市、宇部市、秋田市

19

3.3

横須賀市、松本市

20

3.2

尾道市

21

3

岸和田市、大垣市、福山市、宇治山田市、松江市、

川崎市、沼津市、上田市、水戸市、清水市、川越市、高崎市、若松市、盛岡市、青森市、山形市

22

2.8

奈良市、鶴岡市

23

2.6

米沢市

24

2.5

鳥取市、高田市、福島市、一宮市、八王子市、弘前市

25

2.4

桐生市、足利市、郡山市

26

1.7

首里市

伊藤貞五郎「上掲書」

 

2015年12月13日日曜日

「国際都市神戸の復権をめざして」(『セルポート』151211号)

 神戸今昔物語(第528号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(71
 
開港150年へのカウントダウンの意義~国際都市神戸の復権をめざして
 
◆市民力  1999121日に開始したこの連載は17年目に入った。当初の目的は、当時筆者たちが推進していた市民運動「神戸海外移住者顕彰事業」の宣伝であった。海外日系人が運動に共鳴した。内外からの募金でメリケンパークに海外移住者像を建立した。旧移民収容所(昭和3年)を神戸市が整備し残してくれた。両施設を結ぶ「移住坂」は世界への坂道を歩く観光客も多い。海外移住施設が新たな集客施設に生まれ変わった。

◆国際都市神戸  神戸は1868年に開港し、各国は領事館を開設し貿易商が商館を開いた。かつての神戸は我が国を代表する国際都市であった。

2次大戦後も神戸は国際都市の風格を有していた。各国は領事館を再開し、外資系企業も多く外国人住民も多かった。神戸港は世界3位のコンテナ港であった。

神戸の国際都市機能の低下に拍車をかけたのは、関西新空港が泉南沖になったことである。阪神淡路大震災がとどめを刺した。領事館は市外に流出し神戸港も国際物流の本流から外れた。

神戸はもはや国際都市とはいえない。「国際の冠」がない神戸はただの地方県庁所在都市にすぎない。

◆国際都市レガシー(遺産)とレジェント(神話)  都市間競争時代、企業誘致、観光客誘致に他都市との差別化戦略が必要となる。神戸には開港以来の外国人居留地、異人館、南京町、外国人学校、病院、宗教施設、外国倶楽部、国際港湾等のハードと、国際都市イメージ、洗練されたライフスタイルがある。これらのハード、ソフトを活用すれば新たな国際都市アイデンティティの創出が可能になる。

神戸を支えてきた造船、機械、食品等の産業に加え、先端医療産業、集客産業(観光客、MICE、クルーズ船誘致等)、生活文化産業等を重視したい「神戸ブランド」も定着させたい。国際空港も必要である。

1973年、神戸市はファッション都市宣言をし、アパレル、ケミカルシューズ、真珠、スイーツ、パン、コーヒー等をファッション産業として神戸の重要産業と位置付けた。19778年、NHK連続朝ドラマ「風見鶏」で神戸のパンと異人館が有名になった。ポートピア博覧会で神戸の都市イメージが飛躍的に向上した。博覧会では財閥系企業や超有名企業と並んで、地元企業もパビリオン出展した。ある企業関係者は「それまで財閥系企業と同じ土俵に上がる機会はなかった。ポートピア博のおかげで、当社も全国ブランドになった」と回顧した。

◆パン博物館  昨年末、学際的学会「日本パン学会」を立ち上げた。目的は「パン文化創造深化とパンをテーマとした地域創生」である。開港150年記念事業として「パン博物館」を提案したい。神戸市はこれまで遊休施設となっていた旧移民収容所や波止場町の上屋を市民団体に提供し市民活力で施設を再生させてきた。ハーバーランドの煉瓦倉庫を提供してもらえればあとは民間の出番である。パン博物館を神戸の新たな集客施設にしたい。

 

2015年12月8日火曜日

「第1回神戸市長選挙」(『セルポート』151211号)


神戸今昔物語(第527号)湊川神社物語(第2部)
       「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(70
       
      開港150年へのカウントダウン~第1回神戸市長選挙~ 

◆第1回神戸市長選挙  明治22年、第1回神戸市長候補者選挙が行われた。当時の制度では、市会が選んだ市長候補者3人を内務大臣に上申し、勅裁を経て市長を決定した。

425日の市会議員選挙で36人の議員が誕生した。

◆市長候補者  市長候補者選挙は510日に行われることになった。

候補者と目されたのは神田兵右衛門と鳴滝幸恭であった。

神田は兵庫の素封家で温厚な名士であった。

鳴瀧はこのとき神戸区長であった。京都出身の鳴滝は、明治7年兵庫県に来て小学校教員を経て県役人になった。県役人時代、鳴滝は内海忠勝知事の懐刀と目されていた。

兵庫と神戸は湊川が隔てていたため、お互いに交流がなく、文化、風習が異なっていた。市会議員も、兵庫と神戸が一つになった神戸市のイメージを描くことができなかった。

「湊西部」、すなわち、兵庫の議員には神田を推すものが多く、神戸部と葺合部の議員は鳴滝を推した。中間の「湊東部」議員は態度を表明しなかった。神戸部と葺合部の議員は15名、湊西部議員は17名であった。湊東部の議員4名が鍵を握っていた。

◆小寺泰次郎の根回し  神戸部議員の小寺泰次郎が動いた。三田藩出身の小寺は、明治5年に最後の藩主九鬼隆義、白州退蔵らとともに神戸に移住し、生田川付替えで生れた土地を安価で買い占めて巨利を得ていた。相楽園は小寺の元屋敷である。

小寺はまず鳴滝を訪問して意中を確認し、続いて、市会議員懇親会を諏訪山常盤楼で開催した。湊西部議員は全員出席を拒否し、湊東部議員も、打ち合わせミスのため、当日誰も出席しなかった。

誰を選ぶべきか、「傍観者の評論、区々にして、容易に両候補者の勝敗を断言すべからざるの観を呈す」(『神戸開港三十年史』)であった。

温厚な神田は争うつもりはなかった。議員の多数も、市長には鳴滝の「吏才」が必要であることを承知していた。投票日前日には各議員の意向はおおむね決していた。

◆初代市長、市会議長  510日午前、市会が開催された。

まず、年長者の神田甚兵衛を仮議長として議長の投票を行った。その結果、神田兵右衛門が議長に選ばれ、中西市蔵が次点であった。

次いで、市長候補者の投票を行った。第1回目投票で鳴滝は30票を得た。第2回目投票で神田が17票を得て、第3回目投票で小寺泰次郎が3票を得た。

市会は市長候補者3名を内務大臣に上申した。523日、鳴滝幸恭を市長とする裁可が下りた。

621日、東川崎町の元神戸区役所を神戸市役所とし、621日に開庁式を行った。

組織は、庶務、衛生、戸籍、税務、出納の5掛で、吏員は、書記27名、付属員30名、使丁27名の計84名であった。

市参事会は、市長鳴瀧幸恭、助役小林市次と、瀧本甚右衛門、小寺泰次郎、中西市蔵、松原良太、有馬市太郎、池永通で組織した。

526日午後3時、湊川神社折田年秀宮司は鳴滝市長を表敬訪問した(『折田日記』)。


              初代神戸市役所(『神戸の百年』より)