2013年4月27日土曜日

神戸学 市民講座 神戸山手大学 楠本利夫

神戸山手大学でこんな「神戸学」講座を市民向けに開講します。
なお、今年度も、前期、後期各5回ずつ、計10回開講します。

神戸事件当日の神戸沖外国艦隊 米英提督の遭難 神戸開港秘話


★「シップ&オーシャン・ニューズレター」2013.4.20号に「神戸開港秘話・神戸事件当日の神戸沖外国艦隊」を寄稿しました。
 開港1か月後の神戸で起きた備前藩兵と外国人の小競り合いがきっかけとなり、英国パークス公使の合図で、沖に停泊していた外国艦隊から陸戦隊が上陸し、藩兵と交戦しました。
★事件処理のため勅使東久世通禧が神戸運上所で6か国の代表と会見し、我が国の政権交代を告げました。神戸が維新政府最初の外交舞台になったのです。
★それにしても、なぜ、そのとき神戸沖に大艦隊がいたのか、また、その艦隊編成は?との疑問をお持ちの方はお読みください。
http://www.sof.or.jp/jp/news/301-350/305_3.php

2013年4月24日水曜日

ペケ・サランパン 警察官向け英会話本 内地雑居


『セルポート』2013421日号(連載通算第441号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁 「警察官憲兵必需」英会話本

◆居留地警察組織改正  明治14年、居留地警察は体制を一新した。まず、専任の居留地警察署長職を新設し、それまで行事局長として警察を管轄してきたストックホルム出身のトロチックH. M. Trotzig)が警察署長に就任し、その部下として、9名の兵庫県警察官が居留地警察へ出向した。うち8名は、「二等巡査」以上から抜擢された優秀な警察官であった。当時、巡査には一等から四等までの等級があり、一等巡査は分署長級であったので、二等巡査はそれに次ぐ準幹部級であった。

 署長の下に欧米人警部、日本人警部がそれぞれ1名いて、欧米人警部の下には、欧米人巡査2名、清国人巡査1名、日本人警部の下には日本人巡査8名がいた(草山巌「神戸外国人居留地をめぐる警察問題」『兵庫県警察史』)。署長以下、総勢14名体制である。

◆「警察官憲兵必需」英会話本  明治199月、「警察官憲兵必需」と銘打った英会話本の広告が「神戸又新日報」に掲載された。「米国博士フルベツキ先生序 警官講習所教官上村正度先生校訂、杉山重威先生編術」「洋装美本」「クロース製金文字入り」「定価八十銭」(現代漢字で表記。筆者)の豪華本である。「本書ハ、千葉・和歌山・宮崎・長崎・熊本其他各県警官カ、便用相成居候、最新至便、完全無比、当今当路者必須ノ珍書也」(句読点挿入。筆者)との説明がついている。

この年の5月から翌年7月まで、井上薫外相は、外務省に各国公使を招いて、「条約改正会議」を開催して条約改正案を正式に各国に提出している。新条約が発効すれば、国内で事件を起こした外国人を日本の警察官が日本の法律に基づき取り調べることとなり、警察官にも英語が求められることとなる。そのようなタイミングでの『警官必携 英和会話篇』の発売広告である。

 この本の序文を書いたフルベッキ(G.H.F.Verbeck)は、オランダ出身の米国の宣教師である。安政61859)年に長崎に来住したフルベッキは、長崎奉行の学校済美館、佐賀藩の学校到遠館で教えた。明治2年、明治政府の顧問格に迎えられた。大隈重信、副島種臣はフルベッキの教え子である。

◆ペケ・サランパン  開港直後、日本人商人と外国人貿易商は、意思疎通に苦労していた。英国外交官アーネスト・サトウは、当時の事情を次のように記録している。「口頭、文書のいずれによるもオランダ語を媒介していた」。「商用のための一種の私生児的な言葉が案出されていたのだ。中でも、マレー語の駄目(peggi ペケ)、破毀(サランパン)は大きな役を務め、それに「アナタ」と「アリマス」とを付け加えて、自分は複雑な取引をやる資格を持っていると、銘々がそう思い込んでいた」(サトウ『一外交官が見た明治維新』)。第2次大戦後、生きるため外国人と折衝する必要が生じた日本人の英語を思い出して、思わずニヤリとしてしまった。
 
             「神戸又新日報」明治19.9.26



2013年4月14日日曜日

居留地警察 内地雑居 トロチック 神戸又新日報

『セルポート』2013421日号(連載通算第441号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁 「警察官憲兵必需」英和会話本

◆居留地警察組織改正  明治14年、居留地警察は体制を一新した。まず、専任の居留地警察署長職を新設し、それまで行事局長として警察を管轄してきたストックホルム出身のトロチックH. M. Trotzig)が警察署長に就任し、その部下として、9名の兵庫県警察官が居留地警察へ出向した。うち8名は、「二等巡査」以上から抜擢された優秀な警察官であった。当時、巡査には一等から四等までの等級があり、一等巡査は分署長級であり、二等巡査はそれに次ぐ準幹部級であった。

 署長の下に欧米人警部、日本人警部がそれぞれ1名いて、欧米人警部の下には、欧米人巡査2名、清国人巡査1名、日本人警部の下には日本人巡査8名がいた(草山巌「神戸外国人居留地をめぐる警察問題」『兵庫県警察史』)。署長以下、総勢14名体制である。

◆「警察官憲兵必需」英会話本  明治199月、「警察官憲兵必需」と銘打った英会話本の広告が「神戸又新日報」に掲載された。「米国博士フルベツキ先生序 警官講習所教官上村正度先生校訂、杉山重威先生編術」「洋装美本」「クロース製金文字入り」「定価八十銭」(現代漢字で表記。筆者)の豪華本である。「本書ハ、千葉・和歌山・宮崎・長崎・熊本其他各県警官カ、便用相成居候、最新至便、完全無比、当今当路者必須ノ珍書也」(句読点挿入。筆者)との説明がついている。

この年の5月から翌年7月まで、井上薫外相は、外務省に各国公使を招いて、「条約改正会議」を開催して条約改正案を正式に各国に提出している。新条約が発効すれば、国内で事件を起こした外国人を日本の警察官が日本の法律に基づき取り調べることとなり、警察官にも英語が求められることとなる。そのようなタイミングでの『警官必携 英和会話篇』の発売広告である。

 この本の序文を書いたフルベッキ(G.H.F.Verbeck)は、オランダ出身の米国の宣教師である。安政61859)年に長崎に来住したフルベッキは、長崎奉行の学校済美館、佐賀藩の学校到遠館で教えた。明治2年、明治政府の顧問格に迎えられた。大隈重信、副島種臣はフルベッキの教え子である。

◆ペケ・サランパン  開港直後、日本人商人と外国人貿易商は、意思疎通に苦労していた。英国外交官アーネスト・サトウは、当時の事情を次のように記録している。「口頭、文書のいずれによるもオランダ語を媒介していた」。「商用のための一種の私生児的な言葉が案出されていたのだ。中でも、マレー語の駄目(peggi ペケ)、破毀(サランパン)は大きな役を務め、それに「アナタ」と「アリマス」とを付け加えて、自分は複雑な取引をやる資格を持っていると、銘々がそう思い込んでいた」(サトウ『一外交官が見た明治維新』)。第2次大戦後、生きるため外国人と折衝する必要が生じた日本人の英語を思い出して、思わずニヤリとしてしまった。
 
「警官必携英会話篇」(「神戸又新日報」明治19926日広告)
 



居留地返還 内地雑居 通訳の繁盛 神戸又新日報


『セルポート』2013411日号(連載通算第440号)「神戸今昔物語」
                  内地雑居の暁 通訳

◆条約改正交渉  江戸幕府が安政51858)年以降、欧米列国と締結した通商条約は不平等条約であった。わが国に関税自主権がなく、外国領事裁判権、片務的最恵国待遇を認めていたからである。条約改正は明治政府の悲願であり、とりわけ領事裁判権の撤廃は、わが国の近代的法典編纂、裁判所制度改革と緊密に関わる最重要課題であった。

明治151月から7月まで、外務省で井上薫外務卿は、締約国代表と21回にわたる条約改正予備会議が開催され、日本裁判権回復交渉が行われた。

明治1812月、内閣府が創設され、井上薫が引き続き外務大臣に就任した。

井上外相は、明治195月から翌年7月まで計27回、外務省に各国公使を招き、「条約改正会議」を開催し、条約改正案を正式に提出した(藤原明久『日本条約改正史の研究』雄松堂出版)。

◆「通弁人の六道の辻」 新条約が発効すれば、外国人の日本国内での居住や行動の制限が撤廃され、外国人と日本人の交流機会が増え、新たに不動産を求める外国人や、日本人向けのビジネスを展開する外国人も見込まれる。ビジネスの機会が増えれば、通訳が必要になる。通訳は引く手あまたであった。

カットは、通訳が思案している様子である。通訳の前には、県庁、市役所、警察、外国商館、日本商社、旅館の6つの道が開かれている。なんともぜいたくな職業選択の思案である。

◆オランダ語通訳  幕末、日本側の通訳は、ほとんどがオランダ語通訳であった。鎖国時代には、日本人が学ぶことができる欧米語は、オランダ語に限られていたからである。

日米通商条約の協議も「日本語∸オランダ語∸英語」の3か国語を使ってなされた。条約の原本はオランダ語である。神戸開港式の通訳をした幕府の森山与四郎は、英語、オランダ語ができる稀有な通訳であった。

英国外交官アーネスト・サトウは次のように書いている。

日本側との協議には「口頭、文書のいずれによるも、常にオランダ語を媒介としていた。これは、英語を知っている日本人がまだほとんどなく、日本語を話せる外国人も片手の指で数えるほどしかなかったからだ」(『一外交官の見た明治維新』岩波新書)

オランダ語通訳は、サトウのような日本語通訳がうらやむような高給を得ていた。

「日本人が多少知っている唯一のヨーロッパ語はオランダ語だった関係上、外務省が領事職に職員を配置するようになった際、身分のいかんを問わず、この難解なオランダ語に精通しているところのイギリス人を雇ったのである。こうして、ついに四名の適任者を得たが、一人はまず公使館付きの通訳官に任命され、その後さらに高い地位に就いた。この男の俸給の一部は、オランダ語を通訳生に教える報酬として特別に課せられたものであったから、普通の俸給とはわけが違ったのだ」(サトウ・上掲書)。オランダ語通訳は希少価値があり優遇されていたのである。

 
 

 

2013年4月3日水曜日

居留地返還 内地雑居 神戸又新日報 「老爺の晩学倅は先生」「神戸今昔物語」



『セルポート』201341日号(連載通算第439号)「神戸今昔物語」
内地雑居の暁 「老爺の晩学 倅は先生」
◆「内地雑居未来の夢」  明治191886)年4月、坪内逍遥は、近未来小説「内地雑居 未来の夢」を発表した。ペンネームは「春のや主人」である。
この年51日、井上薫外相は外務省に各国公使を招き、「第一回条約改正会議」を開催して、正式に条約改正案を提出した。鹿鳴館外交が華やかに展開されていた。
小説は、改正条約が発効して内地雑居が実現した後の市民社会を描いたもので、苦学して海外留学した男が、日本でビジネスを興す夢を持って帰国するが、周囲が足を引っ張ろうとしたため、男の友人で作家志望と政治家志望の2人が助けようとする、という話である。
付言で、坪内は、「此物語の筋は、条約改正後の事なり。内地雑居もすでにゆるされ、国会も巳に開けたる体なり。萬般の筋すべて作者の空中楼台なり。政府のおぼしめしを推測したるにもあらず。作者の願望をうつしたるにもあらず」(旧漢字は新漢字に改めた)とし、「本書はもと純粋の小説とは異なり、能ベル(novel)といはむよりは、寧ろ亜ルレゴリイ(allegory寓意小説)ともいふべきものなり」と断っている。辞書にはAllegoryは、「(教訓的な)たとえ話」とある。「完全なる条約改正を写さむとして、わざと不十分に作りなしたるは、多少思う所あるが故なり」としている。
◆坪内逍遥が予測した内地雑居  坪内は、同書の緒言で「要するに雑居の結果は、善とも悪しとも確言し難し。其の善悪いづれなるやは、本文多少の物語に徴して、読人御勝手に判断あるべし」として、雑居の結果、世の中は良くも悪くもならないと結論付けている。
「さらに統括めていふときには、内地雑居後は社会の有様、どうやら何事もシャボン臭くなりぬ。智識の進むことは魂消げるほどにて、徳義はなかなかに追つきかね、旧弊は我を折ていでてもきたらず。警察は行届きて道に遺たる拾ふものなく、窓の硝子張はますます 流行て、夜も大方は雨戸を鎖さず。珈琲を飲過てか老幼腹鼓をうち、ジン(酒の名)に酔ひたるにや男女太平楽をならぶ。国土豊かに民静なる、内地雑居の幕あきこそ、まことに芽出たしといはざるべけんや」と、楽観的な見通しを披露している。
◆「老爺の晩学 倅は先生」  カットは、父親に子どもが何事かを教えている姿である。内地雑居が実現すれば、「隣人は外国人」となる。初めて外国人と混住することになる庶民にとり、言葉が通じない外国人は不気味な存在である。文化摩擦も心配である。長年、自分たちの流儀で生きてきた高齢者は、これから外国人とどう接すべきかを学ばなければならない。頑固親父が、威厳をすてて、環境適用への柔軟性がある子どもにこれからの生き方を教えてもらっているのであろう。孫にスマホの扱い方を教えてもらう筆者の姿と同じである。
 
「親父の晩学 倅は先生」(「神戸又新日報」明治30226日)