2013年10月26日土曜日

公開講座「神戸第一回みなとの祭のなぞ」11月9日(土)午後2時 神戸山手大学 (台風のため日程変更)

神戸山手大学公開講座で、「神戸第一回みなとの祭のなぞ」をテーマに講演をします。

・とき :2013.11.9(土)午後2時~3時半
・ところ:神戸山手大学
・講師:楠本利夫
・テーマ:「神戸第一回みなとの祭のなぞ」
 昭和8年11月7~9日に「神戸第一回みなと祭」が開催されました。
 祭は当時の黒瀬弘志市長が、来日中の米国ポートランド市カーソン市長から、イベントによる景気刺激都のヒントを得て、同市のローズフェスティバルを参考にして開催したものです。黒瀬市長は、祭の実施主体として「神戸市民祭協会」(会長:黒瀬市長)を設立しました。祭は、神戸市民と外国人コミュニティの全面的な協力を得て大成功しました。   
 講演では、祭の概要を説明し、①祭開催を決めた黒瀬市長不在でなぜ祭がおこなわれたのか、②祭を報道した「神戸新聞」と「神戸又新日報」のうち「神戸又新日報」はなぜ6年後に廃刊になったのか、③祭に協力した外国人ジョネス氏(塩屋ジョネス邸)、ジェームス氏(ジェームス山開発者)のその後の運命、に迫ります。

・聴講費:1200円(当日大学窓口でお支払いください)
・事前申し込みは不要です。

2013年10月19日土曜日

新条約施行 内地雑居 「宙にぶらり」「神戸又新日報」 2013.10.21

『セルポート』20131021日号(連載通算第457号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(21) 「宙にブラリ」
◆「宙にブラリ」  
 カットでは、外国人と日本人の間にできた子供の手を引っ張りあい、子どもを困らせている。子供の右手を引っ張っている腕は「如来」であり、左手は「天帝」である。キリスト教徒と結婚した日本人の子供が死亡したとき、仏教の天国へいくのか、キリスト教の天国へ行くのか「宙にブラリ」となるとしているのである。新条約施行で「内地雑居」が実現すれば国際結婚も増えることになる。
 国際結婚した人が離婚した時、どちらが親権を行使するかが問題になることは、昔も今も同じである。
 20135月、国際結婚破綻による子供の引き取りを定める「ハーグ条約」が、国会で承認された。正式名称を「国際的な子の奪取の民事面に関する条約」とするこの条約に、欧米など89か国がすでに加盟している。日本も、来春にも加盟する予定である。
201159日、米国テネシー州の郡裁判所は、2人の子供を連れて米国から帰国した日本人妻に対し、米国人男性の訴えを認め49000万円の賠償を命令した(読売新聞20011.5.10)。
 
 さらに、米国籍の元夫(47)に無断で長女(9)を連れて2008年に帰国した兵庫県出身の女性(44)のケースもある。この女性は、20113月、神戸家裁伊丹支部に親権変更を申請し認められた。けれども、同年4月、彼女が渡米した際、米国で逮捕され「親権妨害罪」で訴追された。ウイスコンシン州の裁判所で、彼女は「長女を元夫の元に戻すことを条件に重い罪を貸さない司法取引に応じた」(日本経済新聞、2012.6.15朝刊)。


◆米上院で新法案可決  20131110日、米国下院外交委員会は、日本を事実上の標的とした法案を可決させた。「国際結婚の破綻に伴う子供の連れ去り問題が未解決な国に対して、制裁措置を発動する法案」である。この「法案は、連れ去り事案の存在が相手国の関係当局に通知されてから180日たっても解決されない場合、大統領は公式訪問、文化交流、軍事支援の停止や輸出制限などの措置を取らなければならない。(略)ただ、上院側の態度は未定で、法案成立には大統領の署名も必要なため、この法案の行先は見通せない状況」(読売新聞20131011日朝刊)である。

◆新連載予告  ここまで21回にわたり、「神戸又新日報」に連載された風刺画「内地雑居の暁」を紹介してきた。新条約施行を2年後に控えた明治30年頃の庶民の懸念が描かれている。
次号から、想を新たに、「折田年秀が見た居留地時代の神戸」の連載を開始する。元薩摩藩士折田は湊川神社初代宮司である。折田は、宮司に就任した明治6年から逝去する明治30年まで、居留地時代の神戸を湊川神社から「定点観測」してきた。折田の在任期間は、神戸の居留地時代とほぼ重なる。折田が克明につづった日記には、岩倉具視、福沢諭吉、神田孝平、鳴滝幸恭、神田兵右衛門ら著名人が頻繁にも登場し、鉄道開通、西南戦争、ロシア帝国ニコライ皇太子参拝等、神戸の歴史的事実も記録されていて、居留地時代の神戸の空気が伝わってくる。
 新しい連載はロングランになりそうである。

 




2013年10月13日日曜日

新条約施行 内地雑居 「掃除いらず」 「神戸又新日報」2013.10.11

『セルポート』20131011日号(連載通算第456号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(20) 「掃除いらず」
 
◆「掃除いらず」  カットでは、洋装の婦人のロングドレスの裾が床に垂れているため、掃除夫が「掃除いらず」と頭を掻いている。2年後に控えた「内地雑居」で、女性の洋装が増えればこうなるであろうと予測したのである。

◆明治初期女性の洋装  わが国女性の洋装の嚆矢は、岩倉使節団に参加した女性たちである。明治41112日、使節団(48名)は米国船アメリカ号で横浜を出港した。明治5115日にサンフランシスコに到着したとき、津田梅子、永井重子、山川捨松ら5人の女性たちの和服姿が現地の人たちから珍しがられた。225日にシカゴに到着したとき、5人は洋服姿であった。帰国後、津田は「女子英学塾」(後の津田塾大学)を創設し、永井はピアノ教師先駆者、山川は大山巌の妻となった。

男性の洋装は軍服から広まった。女性の洋装は男性に比べ遅れていた。社会進出する女性は少なかったため、一部の女学校の制服を除けば、洋装は一般化するにはいたらなかった。

◆公式礼装公達  明治1312月、女性の公式礼装についての公達が出され、明治14年の新年朝拝には、「勅任官は夫人同伴」が認められることになった。明治17917日付の内達で、勅任官、奏任官の制服を、礼服、通常礼服、通常服の3種に分け、「西洋服装ノ儀ハ時々達スヘシ」とした。同年11月の内達には「場合ニヨリ西洋服装相用ヒ苦シカラス」とある。

明治19623日、宮内大臣は「婦人服制之儀、先般及内達置候処自今 皇后宮ニ於テモ場合ニヨリ西洋服装御用ヰ相成ニ付、皇族大臣以下各夫人朝儀ヲ始メ礼式相当当西洋服装随意相用事」と内達した。

明治20年、昭憲皇后は思召書「婦女服制のことについて」で、洋服が日本女性の昔の衣服に似ていて、立っておこなう儀式に適し、動作も便利であるとして洋服を勧め、洋装化に際しては国産を使うことを推奨した(尾中明代「黎明期の洋装とミシンについて」『東京家政大学研究紀要)

◆鹿鳴館時代と婦人の洋装  鹿鳴館が落成した明治16年から明治20年までが「鹿鳴館時代」といわれている。

幕府が列強と締結した不平等条約(「安政五か国条約」)を改正するため、井上薫外務卿(明治18年の内閣制創設で外相)が、明治15年に「条約改正予備会議」(21回)を開き、明治19年には井上が、「条約改正会議」(27回)を開いた。

外交交渉に合わせて、井上は、日本が欧米並みの文明国であることを外国側に示すため、鹿鳴館において欧風舞踏会を盛んに開いた。舞踏会に参加する女性たちは洋装であった。

◆「内地雑居」と婦人の洋装  明治327月、新条約の発効で外国人も国内どこにでも住むことができるようになった。内地雑居で、女性の洋装が徐々に普及し始めた。それでも、洋装はごく限られた上流階層の女性だけであり、ほとんどの女性は、第2次大戦が終わるまで、和服を着用することが多かった。