2013年1月21日月曜日

新聞統制で無期休刊になった「神戸又新日報」  「湊川神社物語」(『セルポート』2013.1.21号)


『セルポート』2013121日号(連載通算第432号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第100

神戸又新日報と神戸新聞

◆神戸又新日報と神戸新聞  神戸の近現代史を研究するとき、「神戸又新日報」と「神戸新聞」は貴重な情報源である。明治時代に創刊されたこの2つの新聞は、ライバル紙で、全く別の新聞である。かつてある研究者が学界で神戸又新日報を「神戸新聞の前身」と発表したのに大変驚いたことがある。

 神戸又新日報は、明治17519日に創刊された。同紙はその後「神戸新報」を合併して勢力を拡大し、明治193月には、一時、准県紙(「公布式新聞」)となったこともある。

 神戸新聞は、明治31年に神戸又新日報の対抗紙として、川崎造船所のオーナーの川崎家の出資で創刊された。両紙は兵庫県・神戸を代表する地方紙として競争していたが、神戸又新日報は徐々に神戸新聞に読者を奪われ、昭和14630日に「新聞統制」による「一県一紙制」のため「休刊」となった。

◆新聞統制  新聞統制とは、満州事変(昭和6年)から敗戦までの15年間に行われた新聞の統廃合、削減と報道規制等を目的とした政策の総称である。

満州事変が勃発した時、新聞の姿勢は全面支持であった。各紙とも膨大な資金と人員を投入して事変を熱狂的に報道にして世論をあおりたて、部数を伸ばした。

「非常時」の合言葉が叫ばれ、軍部の台頭でファッショ化傾向が表面化してテロ行為が続出したとき、さすがに、一部の新聞は政府を批判した。けれども、「福岡日日新聞」の五・一五事件(昭和7年)への痛烈な批判が久留米師団から激しい脅迫と威嚇を受け、「信濃毎日新聞」の「防空演習を嗤ふ」との論説(昭和8年)で主筆が軍部からの圧力でその地位を追われ、二・二六事件(昭和11年)では「東京朝日新聞」が襲撃されるなど、軍部の圧力が相次いだため、新聞が政府批判することは全く影を潜めてしまった。

◆新聞統廃合  昭和10年、内閣に「新聞用紙統制委員会」が設置され、政府が新聞の用紙統制権を握った。言論統制の外堀が埋められた。昭和11年、国策通信社「同盟通信」の設立を契機に、政府の言論統制は激しさを増していった。従来の「新聞紙法」(明治42年公布)に加えて昭和16年には、「新聞紙等掲載制限令」(1月公布)に続き、国家機密の漏えいを防止するため、「国防保安法」(3月公布、5月施行)が制定された。

太平洋戦争開始直後の昭和1612月、政府は「新聞事業令」を公布し、新聞事業の統廃合の強制権を握り、「言論出版集会結社等臨時取締法」を制定して、新聞発行の許可主義と、発行禁止行政処分権を復活させ、表現の自由を奪った。

昭和15年頃から、既存新聞の統合が進められた。全国誌は統合され、地方紙は「一県一紙制の原則」を徹底した。国論統一と反政府記事の取り締まりを容易にするためである。その結果、昭和14年には848紙を数えていた日刊紙は、昭和1710月には54紙に減少した。「神戸又新日報」廃刊の背景には、このような新聞統制があったのである。