2015年7月27日月曜日

西南戦争と折田年秀 征討の詔勅 『セルポート』150701号

神戸今昔物語(第513号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(56
 
西南戦争と折田年秀(4)征討の詔勅
 
◆征討詔勅  「大久保内務卿、16日東京より着津、当日上京なり」(217日『折田日記))。

217日、西郷鎮撫勅使として有栖川熾仁(たるひと)親王が任じられ、親王は18日に明治丸で神戸を発ち鹿児島へ向うこととなった。

親王と神戸はゆかりが深い。明治27年秋、親王の別荘「舞子離宮」が竣工した。現在の舞子ビラである。同年末、親王は日清戦争総参謀長として広島大本営に出仕中に発病し、明治2812日から舞子離宮で療養したが、115日に息を引き取った

18日、折田は日記に「廟議を拝聴するに、有栖川宮勅使に召立らる、に御定決之由、併し、大久保氏は断然追討を奏請、との港(「巷」)説紛々たり」。当時、大久保が鹿児島征討を主張しているとの噂が流れていた。事実ではない。大久保は西郷説得のため、自ら鹿児島に行くことまで主張していたのである。

このとき、折田51歳、西郷は折田より25か月年下で、大久保は西郷の28か月下であった。3人は元薩摩藩士である。

◆征討総督任命  勅使派遣の直前になって、熊本鎮台から「将に戦端を開かんとす」との急報が入り、派遣は中止された。219日、太政大臣三条実美名で征討の詔書が発表された。

親王は「征討総督」に任じられ、勅使の護衛兵司令長官に内定していた野津鎮雄少将(薩摩出身)と三好重臣少将(長州出身)は、それぞれ、征討第一旅団と征討第二旅団の司令長官に任じられた。勅使護衛兵として神戸に集結していた東京と大阪の兵員は、第一、第二旅団に編制替えされた。220日早朝、両旅団は、赤竜丸、社寮丸、玄武丸、蓬莱丸に分乗して神戸を出発した。目的地は九州である。

折田は220日の日記に「行在所第二号を以て、鹿児島県追討被仰出候事」、221日には「兵隊及軍隊、追々繰出しに成る、市中静謐なり」と書いた。

◆初の旅団編成  我が国で旅団が登場したのはこのときが最初である。陸軍省『軍制綱領』(明治8年)では、日本を7「軍管」に分け、軍管ごとに1「鎮台」を設置し、1軍管は23の師管で構成し、師管ごとに歩兵一連隊が設置されていた。軍団・旅団は戦時編成として想定されていた(橋本昌樹『田原坂』)。

225日、西郷が賊徒として、陸軍大将の官位をはく奪された。軍を統率する資格がある我が国ただ一人の陸軍大将が不在となったのである。
征討軍は、常備軍を出動させることになった。常備軍は連隊規模までであった。旅団が編成されることになった。旅団は各地の連隊を集めて組織された。混成旅団で各地域から徴兵された兵隊が一緒に戦うことになる。地元から徴兵された連隊兵は、地域性が強く平民でも旧藩の意識をそのまま残していた。神戸で合流した東京と大阪の兵たちは、言葉遣い物腰も異なる兵隊が、同じ号令で同じ動作をすることに驚いたり感心したりした。近衛兵だけは例外的に全国各隊から優秀な兵隊を集めて編成していた。

0 件のコメント:

コメントを投稿