2015年5月10日日曜日

「神戸京都間鉄道開通式(3) 折田宮司の憂鬱」『セルポート』150421号


神戸京都間鉄道開通式(3) 折田宮司の憂鬱

 

◆折田の風邪  明治10128日、明治天皇が神戸に行幸された。

 折田は風邪で115日から寝込んでいたが、この日、早朝から宗教関係者100余名を率い、栄町の道路に整列して、騎馬で行進する天皇を出迎えた。 

 23日、折田の体調は回復し、日記に「病気快気に付、臥床ヲ沸候事」と書いた。

◆鉄道開業式  25日は神戸京都間の鉄道開通式である。天皇は、京都,大坂、神戸の各駅での式典に臨御された。

折田は、病み上がりで体力に自信がなかったので、式典見物に夫人を随行させた。

 「二月五日、晴、当日ハ、本所、幷ニ、大阪西京鉄道開業式御執行ニ付、聖上御臨御、第十二時ヨリ相初リ候事、病中に付、家内共拝見ニ差出候事」(読みやすくするため、句読点を追加した)。 

◆折田の憂鬱  28日、折田は、「死」を決意した。

「二月八日晴 一、此内より染事、諸事疑念ヲ生シ、一日トシテ苦情ナキハナシ、病床中、甚以困難ニ不堪、心中如掣、仍而、死ヲ一決シテ、滋養食、薬品を拒絶し、終日平静専ラ神ニ禱リ、夙ニ死去センコトヲ祈念シ、終日黙座セリ」。

、折田夫人の染が、諸事に「疑念」を持って折田に苦情を言わない日がなく、病床の折田は、それが耐えがたく不快であるため、死を決意し、滋養食と薬を拒否して、終日平城に神に祈り、できるだけ早く死ぬことを祈念して、終日、黙坐していた、と書いているのである。

日記には具体的な事情は書いていない。折田はなぜ死を決意したのか。

29日、「終日黙座、神明ニ死ヲ祈ル耳」。

10日、折田は午睡中、突然、神託を得た。「二月十日、晴、一、本日、午後二時、午睡之処、不図神託ヲ得タリ、大丈夫、一婦人之為ニ死スルトハ何事ソ、苟も意ニ適セさる有ラハ、離別暇ヲ出シ可然ト、仍而大ニ諭リ直ニ起上リ、神拝奉謝、且ツ、染エモ、云々申付ケ、爾来ハ、親元江可差返旨厳敷相達シ、是ヨリ実ニ薬用等ニ掛る」。日記は、送り仮名はカタカナとひらがなが混在している。

神託は「一人の「婦人」のために折田自身が死ぬとは、なにごとか。妻の染に、少しでも折田の意にそぐわないところがあるのなら、離別するのが当然である」というものであった。折田は直ちに起き上がり、神に感謝し、染に対し、親元へ返す旨厳しく申しつけた。

日記に「婦人之為に死する」と書いていることに注目したい。「婦人」とは誰か。「婦人」のことで、染が嫉妬して折田に苦情を言ったのかもしれない。染が心の病気であった可能性も考えられないではない。

結局、折田は染を故郷鹿児島に返すことにした。214日、「(略)染、竝ニ、芳、帰県ニ決定ス」。「芳」とは誰か。染のお世話をする女性召使と考えられる。

◆西南戦争  鹿児島では、西郷隆盛が挙兵し、風雲急を告げていた。鹿児島出身の折田は気が気でなかった。「二月十二日、晴」「鹿児島県下の変動之新聞初而看得、本月一日の変動ノミ也」。

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