2015年5月10日日曜日

「神戸京都間鉄道開通式(1)」 『セルポート』150401号


神戸京都間鉄道開通式

 

◆明治10年の神戸  明治の神戸の出来事を、年ごとに、折田年秀日記とからめて紹介する予定が、パン学会設立を契機に脱線してしまった。

 閑話休題。

 明治10年は神戸にとり特筆すべき年であった。第1は、神戸京都間の鉄道開通である。第2は、西南戦争の勃発で、神戸が戦争制圧の兵站基地になったことである。政府は神戸に運輸局を置いた。第3は、開港から10年が経過して、神戸の経済力がほぼ兵庫に拮抗するまでに発展したことである。開港した神戸の経済力が、わずか10年で伝統ある兵庫と肩を並べたのである。以後、兵庫と神戸の格差は広がるばかりであった。

◆鉄道開通式  明治1025日、神戸京都間鉄道の開通式が行われた。この日、天皇は京都と大阪で、それぞれ開通式典に臨席した後、1215分に神戸に到着された。神戸での開通式の模様は後に詳述する。

 明治天皇の第1回神戸行幸は、明治576日である。天皇は、近畿・九州・四国行幸の帰途、丸亀から軍艦龍驤で神戸に到着された。8日には完成したばかりの湊川神社へ行幸予定であった。ところが、当日、暴風雨のため行幸は中止になった。

 次の神戸行幸は、明治10年、孝明天皇10年祭の大和・京都行幸である。

 424日に東京を出た天皇は、横浜からお召艦高尾丸で神戸に向かった。神戸には26日に到着する予定であったが、途中、海上の波が高かったため、高尾丸は、鳥羽港に緊急避難し、天皇は上陸して常安寺に宿泊された。

 27日、天皇は高尾丸に乗り鳥羽港を出港して、船中泊し、28日午前7時、神戸に到着された。

◆折田宮司の体調  天皇を迎える神戸は緊張感がみなぎっていた。

 折田宮司は湊川神社だけでなく、近隣の神官、僧侶を引き連れて天皇を出迎える手はずになっていた。

 あいにく、このころ、折田は、風邪で寝込んでしまった。115日、折田は日記に「風邪にて引入」と書いた。風邪は長引いて、16日、17日、18日、19日と寝込み、20日に医師に来診してもらった。

 22日の日記には、天皇の出発が遅れる旨の連絡があったことと、天皇は、今日鳥羽を出発され、24日に神戸に到着予定、と書いている。

 124日、折田は、午前5時に起床し、礼服を着て波止場の貿易会社へ行き、兵庫県参事とともに、天皇到着時の奉迎体制を確認した。突風のため昨日は志摩の鳥羽港に停泊したとの電信が入っていて、行在所では、お召船が視界に入ったら、湊川尻で合図の花火を3発上げることになっていると聞いて退出した、と日記に書いた。この行幸の行在所は神戸郵便局である。

 125日、「病中引入、午後ヨリ盛岡権令見得タリ」。25日、「病中引入」。相変わらず折田の体調はよくなかった。

 5年前の第1回神戸行幸の際、折田はまだ宮司に発令されていなかった。今回は折田の初めての晴れ舞台である。それなのにこの体調とはなんたることか。折田は嘆いた。

 

 

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