2012年11月30日金曜日

神戸近現代史案内 連載14年目(「湊川神社物語」『セルポート』2012.12.1号)


『セルポート』2012年12月1日号(連載通算第428号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第96話

連載14年目に(移住坂/居留地百話/神戸今昔物語)

◆連載14年目   この連載は今号で14年目に入る。連載を始めたのは1999年12月1日号である。当時、筆者は現職の公務員であった。公務員は目立ってはいけない。このように新聞に寄稿することは周囲からは歓迎されない。当時のペンネーム「寓籠駆」(グローカル)は、グローバルとローカルの造語に「寓居に籠って世界を駆ける」と漢字をあてたものである。
 
◆「移住坂」   連載の目的は、筆者たちが1999年7月から開始した市民運動「神戸海外移住者顕彰事業」を広く宣伝することであったので、表題は「移住坂」とした。
当時、神戸市役所内でも、移住者へのステレオタイプの誤解と偏見が根強く残っていた。「移民は暗い。暗い話は神戸のイメージに合わない」「移住者は政府にだまされたと思い祖国を恨んでいる」「身内に移住者がいることを家族は話したがらない」「外国でも移住者が出発したところには記念碑はない」「いまさら寝た子を起こすな」などと真顔で忠告してくれる人もいた。

はたしてそうか。移住者は日本人の世界展開のパイオニアである。神戸は移住者が最期に過ごした日本の町である。移住者は神戸から希望に燃えて世界へ旅立っていった。この神戸で移住者の功績を後世に伝えることを移住者は喜んでくれるに違いない。こう考えて市民運動を提唱した。

運動を積極的に支援してくれる人が続々と現れた。「捨てる神あれば拾う神あり」である。佐藤国汽船の佐藤国吉会長は「移民収容所の近くで生まれ育った私にとり移住者は身近な存在だった。神戸としてもっと早くこの運動をするべきだった」と語って下さった。移住者の姿と現地で彼らを待ち受けていた苦難に思いを馳せた会長の目から大粒の涙が流れた。

セルポートの岸田芳彦社長が趣旨に賛同し紙面を快く提供して下さった。岸田社長に心から感謝している。

◆「移住坂」  運動を始めると海外日系人から大きな反響があった。シンボル事業のメリケンパーク「移民船乗船記念碑」建立に、内外から約2650万円以上もの寄附が集まった。2001年4月28日午後5時55分、記念碑の除幕式を行った。第1回ブラジル移民船・笠戸丸が明治41年に神戸を出港した日の時刻に合わせたのである。記念碑像は、彫刻家菊川晋久氏の作品である。

2009年6月、国立神戸移民収容所(昭和3年開業)は「神戸市立海外移住と文化の交流施設」として生まれ変わった。山手のこの施設から浜手の記念碑へ下る「移住坂」は、かつて移住者が徒歩で移民船へ向った坂道である。神戸の新たな観光スポットとなった移住施設を訪ねる観光客、日系人も多い。

◆「居留地百話」「神戸今昔物語」  「移住坂」連載は1年で終了した。続いて「居留地百話」を100回連載した。2004年1月1日号から「神戸今昔物語」として神戸の近現代史を紹介している。「なんこうさん物語」は「神戸今昔物語」の1章である。
 資料集めで、神戸市立中央図書館、神戸市文書館の皆様にいつも大変お世話になり感謝している。この場を借りて厚くお礼を申し上げる。

カット:「神戸海外移住者顕彰事業」のパンフレット(1999年)

尊氏を驚かせた弓の名手 遠矢浜の由来(「湊川神社物語」『セルポート』2012.11.21号)


『セルポート』2012年11月21日号(連載通算第427号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第95話

遠矢浜

◆大楠公由来の地名  過日「楠公と神戸」と題して市民向けの講演をする機会があった。楠木正成にちなむ神戸の地名として、楠町、菊水町(正成の旗印)、多聞通(正成の幼名)等を紹介した。遠矢町、遠矢浜町の由来は時間がなかったので省略したが、この町名も湊川の合戦の際の故事にちなんでいる。
 1336年5月朝、海路、京へ攻め上る足利尊氏の大軍が載った船団が和田岬沖に到着した。陸上では、後醍醐方総大将新田義貞の軍が尊氏軍の上陸を待ち受けていた。このとき、義貞方の武士が沖の尊氏の舟に向けて遠矢を射たことが、遠矢町、遠矢浜町の地名の由来である。

◆本間孫三郎重氏の遠矢  義貞の軍勢(『太平記』では2万5千、『梅松論』では1万)は、和田岬に
3段に分かれて布陣していた。尊氏の大軍を運んできた舟は海を埋め尽くした感があった。合戦が始まったのは午前10時ごろである。合戦の前、両軍がまだにらみ合っていた時、新田方の一人の武士が、馬に乗って波打ち際に進み出た。本間孫三郎重氏である。重氏は大音声で沖の尊氏の軍船に呼びかけた。「将軍筑紫よりご上洛候へば、定めて鞆・尾道の傾城ども多く召し具され候ふらん。その為に珍しき御肴一つ参らせ候はん。暫く御待ち候へ」。「筑紫(九州)からはるばる京へ攻め上る尊氏に珍しい魚を献上する」というのである。
重氏は流鏑矢を抜いて弓につがえ、松の木の陰で沖を狙った。波の上に1羽のミサゴが60センチほど
の魚を銜えて飛びさろうとした。ミサゴは海岸の岩に住むトビに似た鋭い爪を持つ鳥である。重氏が射た矢はミサゴに見事に命中し、ミサゴを射ぬいたまま、尊氏の座船の右手に停泊していた大友広幸の舟の屋形に突き刺さった。ミサゴは片羽をばたつかせていた。「ア、射タリ射タリ感スル声、且クハ(しばらくは)鳴モ静ラス」。重氏の弓の腕前を目の当たりにした両軍の兵士が、やんやの歓声を上げたのである。
◆尊氏方武士の遠矢  これを見た尊氏は「名を名乗れ」と声をかけた。重氏は「名乗ってもご存じな
いと思うが、弓を取っては坂東八か国では名が知られている。名はこの箭(矢)でご覧あれ」と弓を引き絞って尊氏の舟をめがけて矢を射た。矢は海上5~6町(1町は109㍍)離れた尊氏の舟の隣に並んでいた佐々木筑前守の舟の上の兵士の鎧の草摺(鎧の胴の下に垂れて大腿部を保護するもの)に刺さった。
尊氏がこの矢を見ると「相模国住人本間孫四郎重氏」と小刀の峰で彫りつけてあった。重氏は「合戦
の最中なので、矢は1本でも惜しい。その矢をこちらに返してほしい」と大声で叫んだ。筑前守の配下の武士が「この矢を受けて見よ」と、大声で叫び重氏に向けて射返した。けれどもその矢は2町も飛ばずに波に落ちてしまった(『湊川神社史 祭神編』)。
これが遠矢浜の地名の由来である。
和田岬小学校校庭にこの時の由来を書いた「本間重氏遠射址之碑」石碑がある。
(芦屋大学 客員教授 楠本利夫)
 
和田岬小学校「本間重氏遠射址之碑」


2012年10月28日日曜日

楠木正成像、戦艦河内から大阪市助役室へ (「湊川神社物語」『セルポート』2012.11.1号)


『セルポート』2012年11月01日号(連載通算第425号)

「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第93話

 

大阪市役所助役室の大楠公像

 

◆助役室の大楠公像  戦前、大阪市助役室に大楠公銅像が安置されていた。その銅像はひどく損傷していた。なぜ市役所の助役室に損傷した大楠公像か。

もともと、この大楠公像は戦艦河内の守護神として艦内に祀られていた。高さ「一尺五寸」の、「甲冑に金銀を象眼した美しい」座像であった。

戦艦河内(2万トン、20ノット)は、明治42年に横須賀海軍工廠で起工し、翌43年進水、大正元年に竣工した。河内に飾られた大楠公像の制作者は、東京美術学校教授海野美盛(彫金家、日本画家)である。海野は、明治43年に河内が進水するとき、同艦の守護神として大楠公座像を寄贈した。寄贈理由は、戦艦の名が正成の出身地である「河内」であることと、戦艦河内が海外遠征で、正成の忠誠を世界中に宣伝することを願ったためである。

ところが、戦艦河内は、6年後の大正7年7月12日に徳山湾内において、火薬庫の爆発事故で沈没した。621名が殉職する大惨事であった。このとき「御真影警護責任者」の荒木中尉が、御真影を運び出した後、大楠公の銅像を抱いて艦外に運び出そうとして、殉職した。「楠公の銅像を抱た 殉難荒木中尉の死体発見 御真影奉還を了て仆る」(大正7年10月24日付読売新聞見出し)。

不思議なことに、あれだけの大爆発にもかかわらず、銅像にはまったく損傷はなかった。海軍省は銅像を持ち帰った。けれども、大正12年の関東大震災で、銅像の上半身の象嵌が溶け流れて、原形が失われてしまった。

それを知った大阪市助役の木南正宣が、海軍省に大楠公像の払い下げを申請した。木南助役は、京都帝国大学出身で、大正 9年 4月 から昭和 3年 3月まで助役を勤め、大阪市立美術館建設推進や、大阪美術協会の設立に寄与した文化に理解がある人である。木南が楠公座像の払い下げを申請した目的は、楠公の菩提寺である歓心寺中院に銅像を奉納するためであった。

海軍省は木南に銅像を払い下げた。この銅像が、戦前の大阪市助役室に飾ってあった大楠公座像である。(平瀬礼太『銅像受難の近代』芳川弘文館、2012年)。

◆全国に大楠公像建立  昭和10年の「大楠公六百年大祭」を機に、全国で大楠公の銅像建設がすすめられた。

昭和10年5月4日、「菊水連隊」と呼ばれる「大阪歩兵第37連隊」の象徴として、大楠公像除幕式が執り行われた。製作は、鋳造家松木雲峰で、藤巻正之湊川神社宮司が銅像に入魂した。

同じころ、大阪府三島郡桜井駅跡に、同郡小学校校長会、楠公顕彰会のあっせんで、郡内小学生が寄付して「楠公父子決別像」が建立された。

神戸湊川公園に神戸新聞社が15万人から浄財を集めて大楠公騎馬像を建立したことはすでに紹介した。この像の製作にあたり、有識故事は関安之助が指導し斎藤素厳が製作した。

◆「聖駕奉迎時」像と「湊川奮戦時」像  東京の大楠公像は後醍醐天皇が隠岐から環幸するときの「聖駕奉迎時」である。神戸の像は「湊川奮戦時」の姿で、今にも動き出しそうな迫力がある。設置場所として湊川神社境内が検討されたが、「御神体を神社境内に再現することは法的に許されないため湊川公園にしたという」(「上掲書」)。

 

高村光雲がデザイン 皇居前楠木正成像(「湊川神社物語」『セルポート』2012.10.21号)


『セルポート』2012年10月21日号(連載通算第424号)

「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第92話

 

大楠公の銅像

◆銅像受難  畏友下川浩一郎君が、興味深い書物を紹介してくれた。平瀬礼太『銅像受難の近代』(芳川弘文館、2011年)である。「明治以後に続々と建てられた楠木正成・二宮金次郎・西郷隆盛など偉人たちの銅像。その多くは時代に翻弄され、戦時中に鋳潰されたり、戦後に撤去されたりした。銅像たちの数奇な運命を激動の近代史の中に読み解く」(上掲書)。

楠木正成の像は全国に数多い。東京と神戸には立派な楠木正成の銅像がある。東京皇居外苑の騎馬像は、明治33年に住友家が建立した。神戸湊川公園の騎馬像は、昭和10年に神戸新聞社が建立した。同書から全国の楠木正成銅像の話題を紹介したい。

◆皇居前楠木正成像  実は、皇居前に住友が銅像を作ることも、楠公の銅像とすることも、最初から決まっていたのではない。

明治中期、「靖国神社」に楠公馬上の肖像を奉納する計画があり、高村光雲が注文を受けて彫刻し、明治24年秋ごろ竣工する予定であった(『日本』(明治22年6月30日号。平瀬前掲書)。

一方、同じ時期に、これとは別に、「宮城門外」に「何らかの銅像」を建立する動きがあった。

帝国博物館は、明治22年7月、東京美術学校、日本美術協会、京都画学校、東京彫工会等に、美術図案を募集した(『東京朝日新聞』(明治22年7月16日号。平瀬前掲書)。懸賞金付きの図案募集である。

帝国博物館の九鬼隆一総長は、日本美術協会会頭に、図案を考案してほしい旨書状で依頼し、「皇城に荘厳さを与え、本邦美術の模範たるべきものであるので、気格形相はなるべく森厳を旨とするよう」との条件を付けた。

川畑玉章と岡倉秋水が共同で提案した「楠廷尉甲冑騎馬の像」が「優等」に選ばれた。博物館からの賞金50円は2人で折半した。巡査の初任給が8円(明治24年)の時代である(『値段史年表』朝日新聞社、昭和63年)。賞金額は現在なら約120万円となる。

◆別子銅山200年記念事業  明治23年は「別子銅山開坑200年」にあたる。住友本店は、記念事業として。別子銅山からとれた銅で銅像を鋳造して奉献することとなり、関係者の許諾を得て、意匠制作を東京美術学校に委嘱した。

木型彫刻は高村光雲と山田鬼斎、後藤貞行が担当した。既存の楠公の肖像は使わず、主として高村光雲が「楠公の性情によって面貌を割り出し」、そのイメージに基づいて光雲が作成した木彫りの試作像を専門家に諮り、意見を取り入れた上で、像の原型を作った。

刀剣、身体、乗馬等も、それぞれ専門家が考証した。鋳造をしたのは岡崎雪声である。岡崎は、日本古来の鋳造法と、米国での調査でヒントを得た方法を折衷し、兜、両袖、草鞋、太刀、手綱等は別々に誂え、日本古来の方法で取り付けた。馬は、胴と頭と四足と尾を7つに分けて洋式で鋳造した(永元愿蔵『楠公銅像記』(1900年。上掲書)。

明治29年、鋳造が完成した。像を設置する場所は、皇居二重橋の馬場先門内西南に決まり、宮内省が予算で台石を建設することになった。像は、明治32年に起工し、翌33年に完成した。

2012年10月5日金曜日

徳重中堂 打出楠公社 阿保親王祭 (湊川神社物語『セルポート』2012.10.11日号)

『セルポート』2012年10月11日号(連載通算第423号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第91話
          
           徳重中堂と打出楠公社、阿保親王祭

 打出楠公社  「大楠公戦跡碑」から北へ直線距離で250㍍の地点に「打出楠公会」があった。「会長は楠公崇敬者として全国的に有名な徳重中堂」である。中堂は「邸内に打出楠公社を奉祀した(「武庫の探勝」昭和14年」)。屋敷の敷地面積376坪4合4勺で、うち、楠公社敷地216坪5合9勺、自邸敷地159坪8号5勺であった。建物面積は1階が54坪9号8勺、2階が28坪1号5勺である(「徳重邸配置兼平面図」)。

現在も、同じ場所に、中堂の孫の徳重光彦氏が住んでおられる。徳重邸の玄関脇の石垣に、大楠公戦跡の由来を彫った石板の一部が埋め込まれている。「建武三年一月十一日 即ち湊川戦役を先立つこと百日目 大楠公が逆賊高氏の大軍を破り遠く九州まで敗退せしめる打出山古戦場は此南方後清水谷を中心とする 昭和八年○○○(摩耗のため判読不能)」とある。表示板が途切れているのは、もとの大きな石板を現在の石垣に埋め込む時、石垣のサイズに合わせて切断したためであろう。

徳重中堂  中堂は明治14年に山口県美祢郡真長田村で生まれた。明治38年、東京高等商船学校を卒業し大阪商船㈱に入社した。大正元~2年、英国に留学し、3年、大義丸の船長となった。4年、大阪商船を退社し、逓信省海員審判官に任官し長崎で勤務した。明治40年に退官し、日本海事工業㈱、帝国サルベージ㈱、神戸塗料㈱、海陸商事㈱等5つの会社の経営に携わった。退任後、中堂は、故郷の小学校に土地、二宮金次郎の銅像、伊勢参拝基金の寄附をしている(岡邑嘉三『徳重中堂 思想と生涯』平成5年)。

三徳塾  外国航路の船長、会社経営等で財をなした中堂は、積極的に社会貢献事業を行った。中堂は、昭和3年から16年間までの14年間に限っても、「大小合わせて60以上の事業を完行している。(略)これらの事業の枢軸をなすものが伊勢皇大神宮の崇敬であり、日本国の国体の明徴であると推察される」(上掲書)。

昭和7年、中堂は、故郷の真長田村に、松下村塾をモデルとした青少年教育施設「三徳塾」を開設した。動機は、当時「郷里の真長田村では(略)農村経済は疲弊のドン底に陥り」「夜逃げして都会の工業地帯に職人として職を求め離村するものが相次いで、農村破滅の一歩手前」であっため「有為の青少年に自力更生の魂を入れさせ」ることであった。塾の教育方針は、「拝むー天照皇太神。行うー教育勅語。捧げるー献身殉国」であった(上掲書)。

阿保親王祭復活  昭和10年、中堂は、大楠公六百年祭記念事業として、それまで途絶えていた阿保親王祭を復活させた。阿保親王は桓武天皇の孫、平城天皇の第二皇子で、在原業平の父である。阿保親王墓(翠ケ丘町11)は、中堂の屋敷から西北約300㍍にある。

中堂は阿保親王奉賛会を組織し、昭和10年宮内省の内諾を得て、毎年12月1日に祭典を執行することとした。祭祀費はすべて中堂の負担である(岡邑前掲書)。

 (芦屋大学客員教授 楠本利夫)

 

 

 

 

 

2012年9月30日日曜日

なぜ芦屋に楠木正成を祭る神社が? 打出楠公社(「湊川神社物語」『セルポート』2012.10.1号)


『セルポート』2012年10月1日号(連載通算第422号)

「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第90話

打出楠公社と徳重中堂

 ★田村一郎と天王谷  大楠公戦跡碑の土地提供者斎藤幾太の弟の田村一郎が「神戸市天王谷で閑居」と9月11日号で書いた。
 読んで下さった大先輩の矢木勉さんから、丁重な手紙で、以下のような貴重な情報をいただいた。矢木さんは、元神戸市参与(局長級、公園担当)で、花時計に関する立派な著書もある。
 
 

 公園緑地部長(昭和47~57年)をしていた頃、裏山の山裾に「諏訪山公園のような位置の公園」を建設する場所を探していた。そのとき、「平野祇園神社西北部にある土地を売却したい人がいる」との情報を得た。昭和56年頃だったと記憶している。その土地には、かつて「翠晃園」という料亭があったが、料亭はすでに廃業していた。土地の所有者は水産会社を経営していたと記憶している。所有者の名前は忘れたが、住居は、東京の「椿山荘」の東辺りで、少し西へ歩くと田中角栄の大きな屋敷があった。神戸市はこの土地を買収して、昭和59年に「平野展望公園」(8.7ha)を設置した。

矢木さんに頂いた地図を見ると、場所は、兵庫区の平野交差点から有馬街道を北へ約400㍍、祇園神社から道路を挟んで西北一帯の丘陵である。筆者は、この手がかりを大切にして、天王谷時代の田村について調査していきたいと思っている。

★打出楠公社  芦屋に大楠公崇敬者として著名な人物がもう一人いた。徳重中堂(1881~1954年)である。中堂は、「大楠公の偉勲宣揚のため私財十数万円を投じた」(「武庫の探勝」細川道草編著『芦屋郷土誌』(昭和38年))。銀行員の初任給が70円の時代である。現在の価値に換算すると、約3億円程度となる。

中堂は、自邸に「打出楠公会」を創建し、敷地の一角に「打出楠公社」を奉祀した。

中堂の邸は、大楠公戦跡碑から北へ100㍍余、武庫郡精道村字打出にあった。現在の住所表示では翠ケ丘町7-19である。戦跡碑から楠公社まで、現在はJR線路で分断されているため、かなり迂回して線路の下のトンネル歩道を通らなければならないが、もし線路で分断されていなければ、徒歩5~6分程の距離である。

昭和8年、中堂は打出楠公社の建設に着手した。中堂51歳のときである。

「兵庫県武庫郡精道村字打出は大楠公が足利尊氏を撃退して九州へ走らせた戦捷の地でありますので、このたび楠公六百年祭を記念するため拙宅内の空地200坪をさいて、打出楠公社を建設いたしました」(「徳重中堂の記録」(岡邑嘉三『徳重中堂 思想と生涯』)とその動機を書き残している。

打出楠公社が、「財団法人打出楠公社」として発足したのは昭和16年である。中堂は60歳になっていた。設立目的は、「敬神尊王の思想を助長し殉国、護国の精神を澳発し昂調するを目的とす」(「財団法人打出楠公社寄付行為」)であった。

2012年9月16日日曜日

芦屋の焼物 打出焼 「湊川神社物語」(「湊川神社物語」『セルポート』2012.9.21号) 


『セルポート』2012年9月21日号(連載通算第421号)

「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第89話

 

芦屋・大楠公戦跡碑 斎藤幾太と打出焼

 

★斎藤幾太と打出焼  大楠公戦跡碑の土地提供者である斎藤幾太は、「打出焼」創設者としても知られている。

打出焼は、精道村打出(現芦屋市楠町13)に邸宅を構えていた斎藤幾太が、明治39年、「琴浦焼」創始者である和田九十郎正隆の協力を得て、お庭焼として創窯した(藤川祐作「打出焼の歴史」『生活文化史』神戸深江生活文化史料館、2009.3.31号)。

明治34年、和田は西宮大社村に開窯した。大社村は、幾太の邸宅からさほど離れていない。琴浦焼の名は、和田の次男正只が、明治43年に尼崎市東桜木町に移窯したとき、尼崎の古名である「琴の浦」にちなんでつけたものである。(「琴浦焼、打出焼に関する考察」西宮・ひじり屋URL)。

★打出焼  当時、精道村は石材と粘土の産地でもあった。幾太は、打出丘陵の良質の粘土に着目し、京都から陶工を招いて、番頭の坂口庄蔵(号・砂山)に作陶させた。

明治43年、坂口が幾太から独立して開窯した。場所は、現在の春日町21である。

大正3年1月、幾太は、資本金1万円で合資会社打出焼陶器工場を設立した。幾太は、「その後事業の一切の経営を坂口砂山氏に譲ったといわれている」(西田益蔵「芦屋ところどころ⑬打出焼」『芦屋市弘報』昭和30年3月20日号)。

打出焼工場には、8段の本窯と1つの素焼窯があり、うち1つの窯は飛びぬけて大きい焼成室で、ここで大きな物を焼いていた。ロクロが6~7台あり、1室の焼成時間は40時間であった(『西摂新報』(大正4年5月23日付)、藤川上掲論文)。

打出焼の製品は、「日用品一切、花瓶、菓子器、茶器類等」で、「主として大阪、神戸、灘、東京及び奈良方面へ販売」されていた。大小の徳利に鹿が座った絵と「奈良土産」と印刻された作品もあった。

昭和48年、春日町が土地区画整理事業の対象になり、打出焼の窯は取り壊された(藤川、上掲論文)。

★戦後の打出焼  昭和24年、芦屋市の広報誌『あしや』に「海を渡る打出焼」と題した記事が掲載された。米国人観光客への打出焼の紹介と宣伝を依頼された、米国船会社アメリカン・プレジデント・ラインズ(APL)神戸支社のキリオン氏は、打出焼に興味を示し、大変珍重した。同誌は「将来打出焼がアメリカ、ヨーロッパに船出する日が近い」と期待を込めて書いている(藤川、上掲論文)。

当時、APLは、米国西海岸と日本を結ぶ太平洋航路に定期貨客船を運航していた。昭和28年、皇太子殿下(今上陛下)が、外遊の際、APLのプレジデント・ウイルソン号で渡米された。

★市制施行10周年の引出物

昭和25年、芦屋市の市政施行10周年記念式典で、市章入りの打出焼が引出物として参加者に配られた。翌年、高野山の寺院から記念品の注文が届いた。昭和28年、結婚式の引出物に打出焼の茶碗を注文した市民がいた(藤川、上掲論文)。

今年7月、筆者が、芦屋市翠ヶ丘の知人宅を訪問した際、玄関脇にあった傘立てが打出焼と知った。打出焼は今も市民の生活に溶け込んでいる。