2012年9月30日日曜日

なぜ芦屋に楠木正成を祭る神社が? 打出楠公社(「湊川神社物語」『セルポート』2012.10.1号)


『セルポート』2012101日号(連載通算第422号)

「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第90

打出楠公社と徳重中堂

 ★田村一郎と天王谷  大楠公戦跡碑の土地提供者斎藤幾太の弟の田村一郎が「神戸市天王谷で閑居」と911日号で書いた。
 読んで下さった大先輩の矢木勉さんから、丁重な手紙で、以下のような貴重な情報をいただいた。矢木さんは、元神戸市参与(局長級、公園担当)で、花時計に関する立派な著書もある。
 
 

 公園緑地部長(昭和4757年)をしていた頃、裏山の山裾に「諏訪山公園のような位置の公園」を建設する場所を探していた。そのとき、「平野祇園神社西北部にある土地を売却したい人がいる」との情報を得た。昭和56年頃だったと記憶している。その土地には、かつて「翠晃園」という料亭があったが、料亭はすでに廃業していた。土地の所有者は水産会社を経営していたと記憶している。所有者の名前は忘れたが、住居は、東京の「椿山荘」の東辺りで、少し西へ歩くと田中角栄の大きな屋敷があった。神戸市はこの土地を買収して、昭和59年に「平野展望公園」(8.7ha)を設置した。

矢木さんに頂いた地図を見ると、場所は、兵庫区の平野交差点から有馬街道を北へ約400㍍、祇園神社から道路を挟んで西北一帯の丘陵である。筆者は、この手がかりを大切にして、天王谷時代の田村について調査していきたいと思っている。

打出楠公社  芦屋に大楠公崇敬者として著名な人物がもう一人いた。徳重中堂(18811954年)である。中堂は、「大楠公の偉勲宣揚のため私財十数万円を投じた」(「武庫の探勝」細川道草編著『芦屋郷土誌』(昭和38年))。銀行員の初任給が70円の時代である。現在の価値に換算すると、約3億円程度となる。

中堂は、自邸に「打出楠公会」を創建し、敷地の一角に「打出楠公社」を奉祀した。

中堂の邸は、大楠公戦跡碑から北へ100㍍余、武庫郡精道村字打出にあった。現在の住所表示では翠ケ丘町7-19である。戦跡碑から楠公社まで、現在はJR線路で分断されているため、かなり迂回して線路の下のトンネル歩道を通らなければならないが、もし線路で分断されていなければ、徒歩56分程の距離である。

昭和8年、中堂は打出楠公社の建設に着手した。中堂51歳のときである。

「兵庫県武庫郡精道村字打出は大楠公が足利尊氏を撃退して九州へ走らせた戦捷の地でありますので、このたび楠公六百年祭を記念するため拙宅内の空地200坪をさいて、打出楠公社を建設いたしました」(「徳重中堂の記録」(岡邑嘉三『徳重中堂 思想と生涯』)とその動機を書き残している。

打出楠公社が、「財団法人打出楠公社」として発足したのは昭和16年である。中堂は60歳になっていた。設立目的は、「敬神尊王の思想を助長し殉国、護国の精神を澳発し昂調するを目的とす」(「財団法人打出楠公社寄付行為」)であった。

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