2016年2月3日水曜日

『豪商 神兵 湊の魁』(3)~本書の意義~(『セルポート』2016.2.1日号)


「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(75

『豪商 神兵 湊の魁』(3)~本書の意義~
 
 ◆『豪商 神兵 湊の魁』  『豪商 神兵 湊の魁』(明治1511月)は、明治10年代前期の神戸区「先端企業名鑑」である。

神戸区は、明治1218日に「第一区神戸」と「第二区兵庫」に坂本村を加えて発足した。明治22年4月、神戸区に葺合村、荒田村を合わせて神戸市が誕生する。

同書では、神戸区を、湊川で東西に分けている。冒頭からページを繰っていくと、突然「神戸区・湊川之西」と表記したページが現れ、兵庫の事業所紹介が続いている。神戸には特段の表示はない。

当時、兵庫と神戸は、川床6㍍超の天井川・湊川により東西に分断されていたため、交流はほとんどなく、「人情、風俗、嗜好、習慣」まで異なっていた(『神戸開港三十年史』)。

◆雑居地  開港当日になっても居留地は工事中であった。朝廷による開港勅許が遅れ、幕府が居留地建設に着工できなかったためである。外国人は「住むところがない」として、政府に居留地外の居住を認めるよう陳情した。政府は居留地の外側に日本人と外国人が混住できる「雑居地」を設けた。雑居地は生田川と宇治川の間の区域である。

開港した神戸に各国は領事館を開き、欧米人貿易商が商館を開業した。中国人も数多く来住した。開港翌年の186911月にスエズ運河が開通した。東西の物流、人流が盛んになり、神戸は横浜とともにわが国の「世界への窓口」となっていく。

日本人も国内各地から神戸に移住してきた。神戸では「隣人は外国人」であった。進取の気風に富む新来住民は、外国人のライフスタイル、生活文化を積極的に吸収し、外国人相手の商売にも果敢に挑戦した。

『湊の魁』の意義

同書には神戸区の小売業、卸売業、飲食業、料亭、製造業(靴、西洋家具、パンビール等)、造船所、米商会所、問屋、代言人(弁護士)、左官、銭湯、理髪店等574事業者が、屋号、取扱品目、所在地等とともに紹介されている。

同書の意義として次の諸点を指摘することができる。

1は、開港から15年が経過した神戸で、欧米風の生活文化の萌芽が確認できることである。

2は、神戸に三菱会社を中心とした海運関連企業が定着しつつあることがわかることである。

3は、貿易関連業が神戸に定着しつつあることが確認できることである。

4は、神戸と兵庫の町の性格違いを読み取ることができることである。

5は、湊川が神戸と兵庫を、物理的、心理的に分断していたことが分かることである。

6は、神戸と兵庫の観光名所が紹介されていることである。

7は、スケッチ等のビジュアル情報があることである。

8は、「国際港湾都市」「国際貿易都市」神戸の芽生えが見えてくることである。

9は、おしゃれで上品な大都市神戸の都市魅力の原点が読み取れることである。

10は、同書を『神戸開港三十年史』等の同時代の史料と併せ読むことによって、当時の神戸の様子が生き生きと伝わってくることである。
 

(カット)「神戸区湊川西之部」のページ



 

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