2014年5月7日水曜日

大講義・折田年秀「折田年秀日記」(『セルポート』2014.4.1号)


神戸今昔物語(通産第472号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(15

 

大講義・折田年秀(2)

 

◆教部省  明治652日、折田年秀は「湊川神社宮司兼大講義」の発令を受けた。大講義は、国民教化活動を行う「教導職」の一階級である。

 明治政府の国民教化活動については先に書いた。折田の宮司発令後の行動を理解するため、再度、教導職、大教院について紹介したい。

慶応4年閏4月、維新政府は、神祇、祭祀を所管する神祇官を置き、「宣教師」を設けて「神道と儒教を基本とした国民教導」を行った。国学、神道、儒教中心の宣教は円滑に進まなかったため、仏教勢力の地盤と教化能力を取り込んだ合同布教体制が必要であった。

明治4年、政府は、神祇官を廃し神祇の祭祀と行政を所管する神祇省を設置した。明治53月、政府は、神祇省を改組し民部省社寺掛を併合して「教部省」を設置した。教部省は社寺の廃立、神官・僧侶の任命昇叙などを管掌した。

教部省は「教導職」を設置し、神道、儒教、仏教による国民教化をめざした。教導職は無給の官職である。すべての神官、僧侶が教導職に任命され、講談師、落語家等も、国民教化に役立つとみなされて任命された。

◆大教院   明治55月、教部省は、「教導職に任命された諸宗の住職の願出」(『明治官制辞典』)を認め「大教院」を設置した。大教院は、神仏合同による国民教化の研究、宣教機関である。「大教院」の下に、各府県単位で教化の統括を行なう「中教院」と、全国に「小教院」が置かれた。

大教院は東京芝増上寺に置かれた。折田は、発令後赴任までの3か月間に「大教院」に6回訪ねている。

明治68月、折田は「中教院建設に関する願書」を教部省に提出し、湊川神社が兵庫県における中教院となった。兵庫県がほぼ現在の区域になるのは、飾磨県(播磨)・豊岡県(但馬・丹波)・名東県(淡路)を併合した明治9年である。神戸には「延喜式神名帳」記載神社(「式内社」)の生田神社、長田神社ある。創建されたばかりの湊川神社が兵庫県内の国民教化を統括する機関になったのである。

◆教導職  教導職は「三条の教則」(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴)に基づき、各地の社寺で、国家・天皇への恭順や、敬神思想等の説教を行った。

教導職の階級として「教正」「講義」「訓導」が置かれた。教正と講義には、それぞれ、大、中、少と権(副)を、訓導には権を置き、教導職は、大教正、権大教正、中教正、権中教正、少教正、権少教正、大講義、権大講義、中講義、権中講義、少講義、権少講義、訓導と権訓導の14階級であった。

明治758日、折田は、「大講義」から「権少教正」に昇任した。

◆教部省廃止  神道と仏教合同の教化活動には無理があり、両者は反発することが多かった。明治10年、神道勢力と浄土真宗の深刻な意見対立のため、浄土真宗4派が大教院を離脱した。

明治11111日、政府は教部省を廃止した。

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