2013年2月19日火曜日

2013年2月15日金曜日

明治神戸教育史新聞記事集 神戸又新日報 「湊川神社物語」(『セルポート』2012.2.11号)

『セルポート』2013211日号(連載通算第434号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第102




 「神戸又新日報」の明治の教育関連記事スクラップ集
 ◆うれしい訪問者  128日、神戸では珍しい積雪があった。雪が降るとなぜか心が弾 
 む。はたして、翌日私の研究室にうれしい訪問者があった。

来客は、神戸シルバーカレッジ卒業生(12期)の大崎雅勝さん、濱谷浩三さん、松山昭さんである。彼らは平成203月の卒業であるので、すでに卒業後5年が過ぎている。3人とも70代後半から80代で、うち2名は小学校の校長経験者である。カレッジの国際交流・協力コースで、私が卒業研究を担当させていただいたのがご縁の始まりである。

「神戸又新日報」の教育関連記事  彼らは、「幕末から明治にかけての神戸の教育」と題した論文と、神戸市の教育に関する「神戸又新日報」記事の分厚い「切り抜き集」を持参した。3人が手分けして、5年の歳月をかけて、神戸市文書館所蔵の「神戸又新日報」から、教育に関する記事、広告等の情報を集めてまとめた「A4両面コピー・231ページ」の膨大な資料である。学校の運動会・入学式・卒業式等の記事、生徒募集広告、外国人の英語塾広告、文部省検定教科書広告等もあり興味深い。

「神戸又新日報」は明治17年創刊、昭和14年「無期休刊」の日刊紙で、明治から昭和にかけての情報の宝庫とも言える貴重な新聞である。明治1718年の新聞は欠落しているが、文書館には明治191月から昭和14年迄の新聞が、ハードコピーの簿冊形式で、時系列を追って保存されている。彼らが収集したのは、明治19年から、外国人居留地が神戸市に返還された明治32年までの教育に関する記事、広告である。

◆生涯学習テーマ「神戸教育史」  カレッジを卒業する時、彼らが筆者に「卒業後も研究を続けたいがどのようなテーマがよいか」と相談したとき、筆者が「次の世代の研究者の参考になるような基礎データ集を作成すればどうか」と示唆したことがきっかけである、と彼らは懐かしそうに語った。

卒業後、彼らはせっせと文書館に通い、膨大な量の新聞を老眼鏡と虫眼鏡を頼りに11枚綿密にチェックして、教育に関する情報が掲載されている紙面を複写し、記事等を切り抜いてスクラップ集を作製した。文書館の複写代は1枚当たり10円であるので、彼らは相当な経費も費やしている。

私は彼らの努力の結晶を見て胸が熱くなった。カレッジで卒論のお手伝いをさせていただいてよかった、と心底から思った。

◆資料公開  3人が5年かけて収集した膨大な情報である。神戸近代教育史の研究者にとりこのような基礎資料は「垂涎の的」である。これから博士論文、修士論文に取り組む学生には、この資料の存在は「暗闇の中の光明」となることは間違いない。

シルバーカレッジの校是は「再び学んで他のために」である。彼らは校是を忠実に実践し、この資料を神戸市立中央図書館、神戸市文書館、神戸シルバーカレッジ等に寄贈すると語った。立派な「知的社会貢献」である。

3人の努力に心から敬意を表したい。

 

2013年2月4日月曜日

特高の圧力で「神戸又新日報」が「無期休刊」 「湊川神社物語」(『セルポート』2013.2.1号)


『セルポート』201321日号(連載通算第433号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第101

 「神戸又新日報」の「無期休刊」


◆「神戸又新日報」無期休刊  「言論の弾圧によって『神戸又新日報』(こうべゆうしんにっぽう)は、多くの波乱を残して、幻のように消え去った」(西松五郎「『神戸又新日報』略史~波乱に富んだその歴史~」(『歴史と神戸』18巻2号、神戸史学会、19794月)。明治17年から昭和14年6月まで続いた神戸本社の日刊紙「神戸又新日報」の終焉を、西松はこう書いている。西松の「神戸又新日報」への「弔辞」ともいうべきものである。

神戸新聞の名物記者であった西松は、『神戸新聞70年史』の執筆者であり、『新聞の父アメリカ彦蔵物語』(1949)、『神戸新聞による世相60年』(1964年)等の著作も残している。

西松は続ける。「神戸又新日報」は、「立派な新聞資料として、いまでも息づいている。明治中期に、日刊として発行された、ただ一つの貴重な新聞であり、そのころの兵庫県の地域史研究には、なくてはならない資料である。とくに潰え去るまで、言論の弾圧に抗して果敢に報道されてきた政治運動、社会運動、そして特異の労働運動、農民運動への報道は、いまでも高く評価されている」(上掲論文)。西松の評価は的を射ている。

◆社史がない「神戸又新日報」  「神戸又新日報」には社史がない。「新聞史や社史は、過去に多く出版されているが、それらは現存する新聞社の企業PRのための社史がほとんどで、潰え去った新聞の社史はない」(西松、前掲論文)。なぜ「神戸又新日報」の社史がないのか。

「神戸又新日報」を「無期休刊」に追い込んだのは特高である。「神戸又新日報」が「無期休刊」となった2年後の昭和16年に太平洋戦争が勃発した。特高ににらまれて「無期休刊」となった新聞社の社史などとても書ける環境ではない。昭和208月、日本はポツダム宣言を受諾した。敗戦による大混乱の中で、「神戸又新日報」のかつての社員達も生きるのに必死で、潰れた会社の社史を書く余裕などあるはずがない。

西松は論文執筆にあたり、「神戸又新日報」の関係者たちに直接面談している。西松論文は、「神戸又新日報」の誕生から「無期休刊」までを体系的に記録した貴重な文献である。

◆「要注意新聞」になった「神戸又新日報」  「『又新』は川崎三菱大労働争議、自社のストライキ、左翼ジャーナリストの動きで注目されていたほか、昭和十一年(一九三六)の「二・二六事件」発生の時は、勇気ある新聞として、二月二十七日付夕刊で、発表前に、事件の全容を紙面に組み込んだが、署名人の富家栄は「特高」に呼び出されたうえ、一面全部鉛版が削り取られ、白紙の新聞を発行、「特高」からは「要注意新聞」に挙げられていた」(西松、前掲論文)。

輝かしい歴史を持つ「神戸又新日報」も、後発の神戸新聞に押されて、徐々に販売部数を落としていた。けれども、「神戸又新日報」を「無期休刊」にしたのは発行者の意思ではない。体力が衰えていた新聞にとどめを刺したのは特高である。

(芦屋大学客員教授 楠本利夫)

 

「神戸又新日報」大楠公六百年祭協賛広告(昭和10523日号)

 

2013年1月21日月曜日

新聞統制で無期休刊になった「神戸又新日報」  「湊川神社物語」(『セルポート』2013.1.21号)


『セルポート』2013121日号(連載通算第432号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第100

神戸又新日報と神戸新聞

◆神戸又新日報と神戸新聞  神戸の近現代史を研究するとき、「神戸又新日報」と「神戸新聞」は貴重な情報源である。明治時代に創刊されたこの2つの新聞は、ライバル紙で、全く別の新聞である。かつてある研究者が学界で神戸又新日報を「神戸新聞の前身」と発表したのに大変驚いたことがある。

 神戸又新日報は、明治17519日に創刊された。同紙はその後「神戸新報」を合併して勢力を拡大し、明治193月には、一時、准県紙(「公布式新聞」)となったこともある。

 神戸新聞は、明治31年に神戸又新日報の対抗紙として、川崎造船所のオーナーの川崎家の出資で創刊された。両紙は兵庫県・神戸を代表する地方紙として競争していたが、神戸又新日報は徐々に神戸新聞に読者を奪われ、昭和14630日に「新聞統制」による「一県一紙制」のため「休刊」となった。

◆新聞統制  新聞統制とは、満州事変(昭和6年)から敗戦までの15年間に行われた新聞の統廃合、削減と報道規制等を目的とした政策の総称である。

満州事変が勃発した時、新聞の姿勢は全面支持であった。各紙とも膨大な資金と人員を投入して事変を熱狂的に報道にして世論をあおりたて、部数を伸ばした。

「非常時」の合言葉が叫ばれ、軍部の台頭でファッショ化傾向が表面化してテロ行為が続出したとき、さすがに、一部の新聞は政府を批判した。けれども、「福岡日日新聞」の五・一五事件(昭和7年)への痛烈な批判が久留米師団から激しい脅迫と威嚇を受け、「信濃毎日新聞」の「防空演習を嗤ふ」との論説(昭和8年)で主筆が軍部からの圧力でその地位を追われ、二・二六事件(昭和11年)では「東京朝日新聞」が襲撃されるなど、軍部の圧力が相次いだため、新聞が政府批判することは全く影を潜めてしまった。

◆新聞統廃合  昭和10年、内閣に「新聞用紙統制委員会」が設置され、政府が新聞の用紙統制権を握った。言論統制の外堀が埋められた。昭和11年、国策通信社「同盟通信」の設立を契機に、政府の言論統制は激しさを増していった。従来の「新聞紙法」(明治42年公布)に加えて昭和16年には、「新聞紙等掲載制限令」(1月公布)に続き、国家機密の漏えいを防止するため、「国防保安法」(3月公布、5月施行)が制定された。

太平洋戦争開始直後の昭和1612月、政府は「新聞事業令」を公布し、新聞事業の統廃合の強制権を握り、「言論出版集会結社等臨時取締法」を制定して、新聞発行の許可主義と、発行禁止行政処分権を復活させ、表現の自由を奪った。

昭和15年頃から、既存新聞の統合が進められた。全国誌は統合され、地方紙は「一県一紙制の原則」を徹底した。国論統一と反政府記事の取り締まりを容易にするためである。その結果、昭和14年には848紙を数えていた日刊紙は、昭和1710月には54紙に減少した。「神戸又新日報」廃刊の背景には、このような新聞統制があったのである。