2013年2月4日月曜日

特高の圧力で「神戸又新日報」が「無期休刊」 「湊川神社物語」(『セルポート』2013.2.1号)


『セルポート』201321日号(連載通算第433号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第101

 「神戸又新日報」の「無期休刊」


◆「神戸又新日報」無期休刊  「言論の弾圧によって『神戸又新日報』(こうべゆうしんにっぽう)は、多くの波乱を残して、幻のように消え去った」(西松五郎「『神戸又新日報』略史~波乱に富んだその歴史~」(『歴史と神戸』18巻2号、神戸史学会、19794月)。明治17年から昭和14年6月まで続いた神戸本社の日刊紙「神戸又新日報」の終焉を、西松はこう書いている。西松の「神戸又新日報」への「弔辞」ともいうべきものである。

神戸新聞の名物記者であった西松は、『神戸新聞70年史』の執筆者であり、『新聞の父アメリカ彦蔵物語』(1949)、『神戸新聞による世相60年』(1964年)等の著作も残している。

西松は続ける。「神戸又新日報」は、「立派な新聞資料として、いまでも息づいている。明治中期に、日刊として発行された、ただ一つの貴重な新聞であり、そのころの兵庫県の地域史研究には、なくてはならない資料である。とくに潰え去るまで、言論の弾圧に抗して果敢に報道されてきた政治運動、社会運動、そして特異の労働運動、農民運動への報道は、いまでも高く評価されている」(上掲論文)。西松の評価は的を射ている。

◆社史がない「神戸又新日報」  「神戸又新日報」には社史がない。「新聞史や社史は、過去に多く出版されているが、それらは現存する新聞社の企業PRのための社史がほとんどで、潰え去った新聞の社史はない」(西松、前掲論文)。なぜ「神戸又新日報」の社史がないのか。

「神戸又新日報」を「無期休刊」に追い込んだのは特高である。「神戸又新日報」が「無期休刊」となった2年後の昭和16年に太平洋戦争が勃発した。特高ににらまれて「無期休刊」となった新聞社の社史などとても書ける環境ではない。昭和208月、日本はポツダム宣言を受諾した。敗戦による大混乱の中で、「神戸又新日報」のかつての社員達も生きるのに必死で、潰れた会社の社史を書く余裕などあるはずがない。

西松は論文執筆にあたり、「神戸又新日報」の関係者たちに直接面談している。西松論文は、「神戸又新日報」の誕生から「無期休刊」までを体系的に記録した貴重な文献である。

◆「要注意新聞」になった「神戸又新日報」  「『又新』は川崎三菱大労働争議、自社のストライキ、左翼ジャーナリストの動きで注目されていたほか、昭和十一年(一九三六)の「二・二六事件」発生の時は、勇気ある新聞として、二月二十七日付夕刊で、発表前に、事件の全容を紙面に組み込んだが、署名人の富家栄は「特高」に呼び出されたうえ、一面全部鉛版が削り取られ、白紙の新聞を発行、「特高」からは「要注意新聞」に挙げられていた」(西松、前掲論文)。

輝かしい歴史を持つ「神戸又新日報」も、後発の神戸新聞に押されて、徐々に販売部数を落としていた。けれども、「神戸又新日報」を「無期休刊」にしたのは発行者の意思ではない。体力が衰えていた新聞にとどめを刺したのは特高である。

(芦屋大学客員教授 楠本利夫)

 

「神戸又新日報」大楠公六百年祭協賛広告(昭和10523日号)

 

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