2016年1月2日土曜日

『豪商 神兵 湊の魁』(1)明治15年「神戸兵庫の先端企業名鑑」(『セルポート』160101号) 

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(73
 
『豪商 神兵 湊の魁』(1)明治15年「神戸兵庫の先端企業名鑑」 

◆先端企業名鑑  明治1511月刊行の『豪商 神兵 湊の魁』は、明治10年代前半の神戸と兵庫の商工名鑑である。同書の目的は「商取引」と「遊覧の利便」(序文)であり、「神兵」は神戸と兵庫で「湊」は「開港場神戸」と「兵庫津」である。

同書には574の商店、製造場等が名を連ねている。「神戸区東部・湊川以東」が26546.2%)、「神戸区西部・湊川以西」が30953.8%)である。湊川を境に神戸区東部が神戸、西部が兵庫である。観光名所13か所も掲載されている。

神戸開港から15年が経過した頃の神戸と兵庫の町の盛衰と変貌が、同書から見えてくる。

開港場神戸では、外国人居留地が開港日に間に合わなかったため、居留地を囲い込む形で「雑居地」が設けられた。生田川と宇治川、山麓と海岸に囲まれた雑居地は、外国人と日本人が混住できる地域である。

開港した神戸に国内から人々が移住してきた。神戸では「隣人は外国人」であった。住民は身近な外国人の生活文化を積極的に吸収した。同書には、神戸に定着しつつあった洋食、写真、西洋小物、洋服、コーヒー、パン・ビール、靴等の洋風生活文化を扱う店舗、事業所と、三菱汽船向けの荷物取扱業、外国商館相手の茶貿易商等が紹介されている。

一方、兵庫には伝統ある米商会所、穀物仲買仲間、肥料問屋、造船所等が立地していた。
 明治10年ごろまでは兵庫の経済力が神戸を上回っていたけれども、その後、開港場神戸の発展につれ兵庫と神戸の地位は逆転していった。兵庫の住民は新興神戸の発展を苦々しく見ていた。

◆同書の体裁  神戸史学会が昭和5071日に250部限定で発行した「復刻版」は、縦7.6cm×横18cmの和装紐綴で、ほぼ「郵便ハガキ」サイズである。

574事業者それぞれの紹介スペースは均一ではない。商号、事業者名だけの簡素なものと、半ページから1ページのスケッチ付きのものがある。スペースの違いは企業が払う広告料の違いであると考えられる。同書への掲載は有料であったのである。

同書の定価25銭は、明治15年の理髪料金(8銭)の3倍強であるので、現在の価格では約1万円となる。

 奥付には明治十五年一月十九日御届」「同十一月出版」「定価拾五銭」、「編輯出版人 大阪北区曽根嵜新地1丁目の垣貫與祐、「賣捌人 兵庫県下神戸相生町東詰 熊谷久榮堂、大阪府下高麗橋2丁目 熊谷久榮堂」とある。

◆『神戸開港三十年史』  明治中期までの神戸は、『神戸開港三十年史 乾坤』(村田誠治、明治31年)が詳しい。『湊の魁』は事業所のスケッチ入りであるので、『三十年史」と合わせて読むと、当時の神戸と兵庫の姿が生き生きとよみがえってくる。筆者は『近代日本総合年表』と『神戸市史 年表』を縦軸とし、上掲2史料と『折田年秀日記』(3巻)及び当時の新聞記事(和文、英文)を横軸として、明治期の神戸と兵庫に思いを馳せている。
 

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