2015年11月4日水曜日

「兵庫と神戸の確執」(『セルポート』151021号)


開港150年へのカウントダウン(6) 兵庫と神戸の確執

◆兵庫と神戸  神戸は186811日に開港した。外国人居留地は神戸村(人口1925人)海岸沿いの砂浜に設置された。兵庫は兵庫津として繁栄していて、人口も神戸の10倍強の2万人であった。兵庫と神戸は南北に流れる天井川の湊川により分断されていたため、ほとんど交流がなかった。

条約上の開港場である兵庫ではなく神戸が開港した。理由は、兵庫の住民が、変革につながる可能性がある開港を嫌がったこと、開港勅許が遅れ、幕府は外国側に約束した開港日に開港を間に合わせるため急いで居留地を建設する必要があったことである。

明治元年111日(1868.12.14)、神戸村と二茶村(1155人)、走水村(539人)が合併した。明治1218日、兵庫、神戸と坂本村が合併して「神戸区」になった。

◆神戸開港   開港した神戸に各国は領事館を開設し各国貿易商が商館を建設した。中国人も数多く来住した。開港翌年にスエズ運河が開通して東西交易が盛んになり、神戸は横浜とともにわが国の「世界への窓口」となった。

国内各地からビジネスチャンスを求めて人々が神戸に移住してきた。城下町ではなかった神戸には、古い町特有の人々の行動を制約する桎梏はない。出身地が異なる人達はお互いに他人の行動には無関心である。神戸では「隣人は外国人」であった。新来住民は他人に気兼ねすることなく、積極的に外国人のライフスタイルを吸収し、外国人向けの商売に挑戦した。神戸の旧住民は、土地や家屋を外国人や新住民に賃貸する商売に転じた。

◆兵庫と神戸  開港直後は、兵庫の経済力が神戸を上回っていた。けれども、明治10年頃から神戸の経済力が兵庫を凌駕しはじめた。神戸では外国人居留地、鉄道、港湾施設、栄町通等の大規模公共投資が行われ、貿易、海運、外国人相手の商売等で、街全体が活況を呈したからである。それまで、北前船の拠点、西国街道の宿場町であり、米穀、肥料の集散地として繁栄していた兵庫の地位は低下していった。神戸と兵庫の格差は広がるばかりであった。

◆兵庫と神戸の確執  一攫千金を夢見て神戸に集まってきた新住民の狂乱ぶりは異常であった。『神戸開港三十年史』は皮肉を込めて次のように書いている。

神戸の新住民は「故郷を捨てて新運命を求め」「冒険も恐れず労苦も辞せざる気力ある者」である。彼らの「眼中には自己あるのみ」「胸中には利己あるのみ」「欲望には銭あるのみ」「燃ゆるが如き貨殖の希望」「壮なる営利の意思を有す」。神戸の新住民は「名誉のごときは問う所にあらず」「高尚なる思考を有せず」「優美なる思想を有せず」。

新住民は、身近な外国人のライフスタイルを積極的に吸収した。それまで発展していた兵庫にはまだおっとりとした旦那衆がいた。兵庫の大商人は、神戸の発展と変貌を羨望と軽蔑のまなざしで見ていた。

「新興神戸」と「守旧兵庫」の住民はお互いに融和しようとしなかった。

 
元町通商店の英語看板(『豪商 神兵 湊の魁』明治15年)
 
本稿から引用する場合は必ずこのURLを明記してください。

0 件のコメント:

コメントを投稿