2013年7月26日金曜日

改正条約施行 内地雑居の暁 和装の初歩 神戸又新日報


セルポート』2013721日号(連載通算第449号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(13) 「和装の初歩」

 

◆外国人の和装  新条約発効による内地雑居を控えていた頃、庶民の関心事は、文化が異なる外国人が同じ町内に住むことであった。言葉が通じない隣人と仲よくやっていけるか、隣地に高い洋館が建ち自邸がその日陰になるのではないか等々、心配の種は尽きなかった。

カットの「和装の初歩」は、外国人が和服で町を歩いている姿である。羽織袴に下駄をはいて、帽子をかぶり、手には扇子を持っている。こんな外国人なら共存できる、と住民はほっとしたことであろう。

◆洋服の流行  「外国人の和装」の逆は「日本人の洋装」である。

神戸で洋服を広めた先駆者は、初代兵庫県知事伊藤博文と、兵庫の名士である神田(こうだ)兵右衛門(18411922)と藤田積中(18291888)である。

「知事伊藤博文が、当時、人の珍とせし、澤井フクリン・呉郎フクリン等において仕立てし衣服を著用してより、服装一時紳士の流行となりし」(『神戸市史 本編各説』)。伊藤の在任期間は、明治元年5月から翌24月であるので、伊藤は明治初年に洋服を広めたことになる。神田と藤田は、明治2年に「率先し洋服を著用して流行の魁となし、県当局の依頼により、市民勧誘のため、洋服著用のまヽ市中を逍遥し且つ撮影せるあり」(上掲書)。伊藤に依頼された二人は、洋服の広告塔役を引き受けたのである。

◆神田兵右衛門と藤田積中  兵庫の豪商神田は、私学「明親館」を興して教育の普及に努め、新川運河を開いて市街の発展に尽くし、兵庫商法会議所を設けて産業振興を図り、初代神戸市会議長として公益のために尽くした。神田の葬式は、神戸市初の市葬あった。

藤田は、明治元年に明親館の教員になり、兵庫県で最初の新聞「湊川濯餘」を発行した知識人である。伊藤知事は、藤田の才能を見込んで官界に誘ったが、藤田は明治9年に官界を去った。藤田は、明治12年に兵庫県会議員に初当選し、以後、議員を続けた。

◆兵庫と神戸の確執  安政条約上の開港場は兵庫であった。幕末、「兵庫津」は、西国街道の宿場町、内航海運の拠点として人口2万人を擁し、殷賑をきわめていた。住民は、変革を伴う開港を嫌がったため、兵庫に代わって神戸が開港場となった。神戸村の海沿いに外国人居留地が建設され、各国は神戸に領事館を開設し、世界中から来航した貿易商が商館を建設した。日本人も国内各地から神戸に移住してきた。

新来の神戸の住民は外国の文物を貪欲に吸収した。明治2年には、早くも神戸に写真館が開業した。神戸の人は、撮った写真を人に見せて喜んでいたが、兵庫の人は写真を撮られると命が縮むと敬遠した。洋食店も、明治56年には、神戸に56軒もあったが、兵庫には1軒もなかった。

兵庫の住民は、神戸の住民を「軽薄」「狡猾「成り上り」「利己的」と軽蔑し、神戸の急速な発展を苦々しく思っていた。天井川の湊川が兵庫と神戸の交流を阻害していたため、「守旧兵庫」と「新興神戸」の住民は融和しようとしなかった(『神戸開港三十年史』)。

保守的な兵庫の有力者である神田と藤田が、神戸で洋服を広める役割を担ったことは興味深い。

 

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