2012年8月20日月曜日

なぜ芦屋に大楠公戦跡碑が? (「湊川神社物語」『セルポート』2012.9.1号)

『セルポート』201291日号(連載通算第419号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第87

芦屋・大楠公戦跡碑

★精道村教化団体連合会  大楠公六百年祭(昭和10年)に際して「精道村教化団体連合会」が大楠公戦跡碑を建立した。
 連合会の目的は「社会教育ニ関スル活動ヲシテ相互強化セシムルヤウ務メ」ることであり、精道村青年団、女子青年団、婦人会、教育会等9団体が加盟していた。会長は精道村村長である(『新修芦屋市史 資料編』)。

★斎藤幾太の胸像  大楠公戦跡碑の土地を提供したのは斎藤幾太である。境内に建立されていた幾太の胸像が、第2次大戦中の金属供出で取り壊され、現在は台座だけが残っていると前号で書いた。大戦中の金属供出で、渋谷駅前の忠犬ハチ公像、兵庫能福寺の大仏、神戸大倉山の伊藤博文の銅像なども取り壊されたので、筆者は、幾太の銅像も戦時中に供出されたと思いこんでいた。
 今年8月中旬、「神戸深江生活文化史料館」の藤川祐作研究員から、1枚の手書き内部記録コピーを見せていただいた。外部の照会者からの照会内容と、それに対する史料館の回答のメモである。その照会は幾太の銅像が戦後まであった可能性を示唆するものであった
 昭和57626日、史料館が、西宮市苦楽園在住の女性(記録には実名あり。当時88歳)に所用で電話をかけたとき、彼女から次の質問があった。「楠町の大楠公戦跡碑の敷地内に建てられていた斎藤幾太の胸像が3年ほど前には現存していた。それが見られないのはどうなったのか」。
 電話での応答は昭和57年であるので、「3年ほど前には現存していた」とすれば、昭和54年頃まで胸像があったことになる。史料館は、芦屋市緑地公園課、経済課、観光協会、生活文化課などに問い合わせたが、事実は不明であった。
 次の3つの可能性が考えられる。第1は、胸像は戦時中に供出されなかったが、戦後、何者かが撤去した。第2は、胸像は戦時中に撤去されたが、戦後、再び胸像が建立され、それを何者かが撤去した。第3の可能性は、この女性の勘違いである。
 国道2号線沿いのひと目につく戦跡跡碑であるので、上記1,2のケースなら、当然、近隣の住民などの証人がいるはずである。電話でのやりとりの時、彼女は88歳であったので、彼女の記憶違いの可能性は否定できないと筆者は考えている。

★神戸深江生活文化史料館  神戸深江生活文化史料館(大国正美館長)は、1981年に深江財産区が設立した。史料館は「旧本庄村の史誌の編纂過程で、深江で古くから偉業を営んできた深山家をはじめ、多くの有志の方々から寄贈された文献資料、生活資料を保存し、展示」している。旧本庄村は、昭和25年に神戸市と合併して東灘区の一部となった。史料館は土日のみ開館している。

0 件のコメント:

コメントを投稿