2015年11月4日水曜日

「神戸開港式 外国軍艦の号砲」(『セルポート』151001号)


神戸今昔物語(第521号)湊川神社物語(第2部)
         「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(64)
 
             神戸開港式、外国軍艦の号砲 

◆開港宣言  慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神戸は開港した。

開港式は新装なった運上所で行われた。居留地建設責任者の兵庫奉行柴田剛中が、各国代表に幕府外交事務・永井玄番頭が署名した宣言書を読み上げて手交した。宣言書は、漢字主体で仮名が少し混じっていた。現代文に直すと次のとおりだ。「以書状致啓上候。帰国の新年の日をお祝い致す次第です。ことにこの日は我が国の兵庫開港、大坂開市の期日にあい、いささかもって各国と親睦を重ねてきたあらわれであると存じます。お祝いを申し述べます。拝具謹言」。外国側はフランス公使ロッシュ、英国公使パークス、米弁理公使ブルケンボルグ、プロシャ代理公使ブラント、オランダ公使代理総領事ボルスブロック等であった。

◆外国艦隊  このとき、神戸沖に18隻の外国軍艦が停泊していた。英12隻、米5隻、仏1隻である。軍艦は、開港式に臨席する各国代表を運んできた。代表団輸送だけなら大艦隊は要らない。大艦隊には日本側に、条約通り開港するよう圧力をかける目的もあった。有事に備えて陸戦隊も乗艦していた。開港1か月後に三宮神社前で偶発した備前藩士と外国人の衝突で、陸戦隊は上陸して備前藩兵と交戦し建設中の居留地を占拠している。

 運上所は和洋折衷の2階建てで、2階はガラス窓だった。ガラスに朝日が反射しビードロの家と呼ばれていた。2階の式典会場の窓ガラス越しに停泊中の艦隊が見えた。

◆ええじゃないか  派手な着物を着た男女が「ええじゃないか」と踊りながら運上所を見物に来た。

「ええじゃないか」は、慶応3(1867)年8月末ごろ、東海地方で始まり近畿、中国、四国に波及した民衆狂乱である。天からお札(神符)が降り、それが啓示の前触れであるとして、各地で民衆が仮装して「ええじゃないか」を連呼して練り歩き、熱狂的に踊った。兵庫切戸町でも、朝、庭の松の木に神符がひっかっていた家があった。神符が300枚降下したと騒ぐ人や、天からチラチラ神符が降ってくるのを見たという人もいた。誰が降らせたのか。倒幕派が秩序の混乱を狙い、自分たちの行動を見つからないようにするために神符をまいたという説もある。

◆21発の礼砲  正午、外国艦隊が21発の礼砲を放った。雷のような轟音が裏山にこだまし、運上所の窓ガラスを震わせ、踊り狂う民衆の度肝を抜いた。

三田で轟音を聞いた住民は次のように記録した(『諸事風聞帳』)。

「7日、兵庫で大筒(大砲)のような音がした。12月7日の交易(開港)約定日に、交易がはじまることを祝って大筒を放ったものである。当地では祝儀不祝儀に大筒を放つこととなっている。公益所(居留地)は工事中で、未完成である」。

英国外交官アーネストサトウは「元旦には、大坂の河口の天保山と、兵庫において、それぞれ、貿易都市、貿易港として開かれるのを慶賀する祝砲が発せられた」(『外交官が見た明治維新』)。


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 「柴田剛中、神戸開港準備責任者に」(『セルポート』150921号)


 
                             
神戸今昔物語(第520号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(63)

 
柴田剛中、神戸開港準備責任者に

 
◆開港勅許  兵庫開港日(1868年1月1日)が近づいてきた。けれども、朝廷は兵庫開港の勅許(天皇の許可)を下す気配がなかった。幕府は居留地建設に着手できない。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、兵庫開港に反対していた天皇が突然崩御された。35歳の若さである。死因は天然痘である。崩御のタイミングは、その後の歴史の経過をみると、開国派にとりあまりにも都合が良すぎたので、「暗殺説」がささやかれた。岩倉具視が犯人と疑われていた。現在では、暗殺説は否定されている。

慶応3(1867)年1月9日、睦仁親王が践祚した。後の明治天皇である。

朝廷は相変わらず勅許を拒否し続けた。3月5日、上京中の将軍慶喜は、朝廷に兵庫開港勅許を奉請した。3月19日、朝廷は不許と沙汰した。3月22日、慶喜は再度勅許を奉請した。22日、やはり不許の沙汰であった。

◆神戸開港  開港まで時間がない。兵庫は住民の反対で開港できる環境ではない。兵庫から東へ直線距離で3・5kmの神戸村海岸の畑地と砂浜を、幕府は居留地建設適地と判断した。そこには、畑地と墓地、家屋4軒と土蔵があるだけであり、船舶修理のための「船たで場」まであった。

勅許がおりたら、すぐに工事に着手しなければならない。4月13日、幕府は、大坂で英米仏の公使と「兵庫大坂規定書」取り交わし、神戸に居留地を設置することとなった。

9年前の横浜開港の際、幕府が条約上の神奈川に替えて漁村横浜を開港したとき、外国側は猛烈に反対し紛糾した。外国側は、幕府が条約を本気で守る意思があるかどうかを疑ったからである。開港場を兵庫から神戸に替えたとき外国側は反対をしなかった。日本側が開港する意思があることを理解していたからである。

5月23日、慶喜は参内し、諸外国と約束した開港期日を守らなければ大変なことになるとして、兵庫開港を奉請した。朝廷は徹夜の会議の結果、5月24日(6月25日)、やっと兵庫開港の勅許を出した。開港まで6か月余しかない。

◆開港準備責任者  幕府は突貫工事で居留地を建設することとした。7月兵庫奉行所が新設され、柴田剛中が、兵庫奉行として居留地建設責任者に任命された。

 幕府外務官僚の剛中は、幕末に兵庫開港延期交渉団のメンバーにもなった外国通で、2度の渡欧経験があった。剛中は開港事務所を海軍操練所跡に設置し準備を進めた。

 8月、剛中は居留地開設工事の請負入札をし、神戸村庄屋生島四郎大夫が落札した。

9月、「開港につき兵庫表に移住商売したき者は、大坂町奉行神戸村御普請所に出願すべきこと」とお触れを出した。10月には居留地規則を制定した。

10月14日、慶喜が大政奉還をした。外交事務は当分の間「旧によるべし」とされたので、剛中はそのまま事務を担当した。慶応3年12月7日(1868年1月1日)の神戸開港日になっても居留地はまだ工事中であった。
 
    
開港前の居留地予定地(出所:神木哲男/崎山昌廣『神戸と居留地』)


 
(引用する場合は必ずこのURLを明記してください)
 

 

2015年9月15日火曜日

幻の兵庫開港(『セルポート』150911号)


神戸今昔物語(第519号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(62)

幻の「兵庫外国人居留地」
 
◆横浜開港  日米修好通商条約(1858年)で。神奈川、長崎、箱館(函館)、新潟、兵庫の開港と、江戸、大坂の開市が取り決められ、翌年、横浜、長崎、箱館が開港した。

条約上の開港場は神奈川であった。東海道の宿場町神奈川は人馬の往来が激しい。神奈川を開港すれば、外国人が攘夷派の武士と接触することになる。幕府は神奈川から陸路6キロ離れた漁村横浜村(人口105戸)に突貫工事で居留地を造成し横浜を開港した。

外国側は幕府に神奈川開港を要求し、領事は自国の貿易商に横浜居留地を認めないよう要請した。けれども貿易商は聞く耳を持たず、競って横浜居留地に土地を求め商館を建てた。ついに領事たちもあきらめ、横浜が正式の開港場となった。

◆堺が開港候補地に  ここで時計を少し巻き戻す。
日米和親条約(1854年)に基づき、安政3年、米国は下田に領事館を開いた。翌4年、ハリス総領事は江戸で幕府に通商の要を説いた。幕府代表とハリスは、計15回の通商条約協議を行った。ハリスが提示した開港場草案は、函館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川と西日本の2港であり、兵庫は候補地ではなかった。

ハリスは京都と大坂の開港を要請した。幕府は、天皇の居所京都とその玄関口大坂の開港を拒否し、6回目の交渉で堺を提示し、堺の予備として兵庫の名を挙げた。条約では外国人が自由に動ける「外国人遊歩区域」(半径10里)が定められた。堺は遊歩区域内に御陵があるため開港できなかった。結局、兵庫開港、大坂開市で双方が合意した。

◆英国公使が兵庫を絶賛  文久元(1861)年4月、英国オールコック公使が、兵庫に立寄り、薬仙寺を宿舎として、居留地予定地を視察した。オールコックは、「宿泊所の近くに海浜があり、水際から徐々に高くなっていて、将来外国人居留地を建設するには好適な場所」と書いた。居留地は、和田岬から妙法寺尻までの海岸沿いの土地(7万坪)であり、沖には防波堤を建設する計画であった。

慶応元(1865)年9月、英国パークス公使が兵庫に来て海域を測量させた。随員のミットフォードは「居留地に予定された場所は、兵庫の旧市内からやや離れたところにあって、大型船が自由に出入りできるだけの十分な水深もあり、天然の優れた投錨地となっている小さな湾に面している」と記録した。外国側は兵庫を開港適地とみなした。

◆兵庫住民が開港に反対  兵庫の住民は開港を嫌がった。兵庫は西国街道の宿場町であり北前船の物資の集散地として栄えていた。住民は開港による変革を嫌がった。「兵庫の開港が愈愈勅許となり外国の公使へもそれぞれ通牒されたと聞き、人身は頗る平かならず、各落胆の吐息の中にも、せめて外国人の居留地はなるべく遠ざけねばならぬと、それが兵庫の町民の心からの願ひであった」(『松雲神田翁』)。

兵庫の住民が兵庫開港に反対していなければ、居留地は和田岬から駒ヶ林一帯に建設されていた。
 
 

2015年9月7日月曜日

神戸開港150年へのカウントダウン(『セルポート』150901号)


神戸開港・大阪開市 

 
◆残日計  神戸開港以来の出来事を、湊川神社宮司折田年秀の日記と絡めて時系列で紹介している。明治10年の西南戦争まで概観してきた。ここで、少し寄り道して、開港までのいきさつを、あらためて紹介することすることにする。8月末から、開港150年祭のカウントダウンが始まったからである。

 神戸は慶応3年12月7日(1868年1月1日)に開港した。大坂もこの日開市した。

 今年8月20日、開港150年の節目の日まで500日となったことを記念して、JR三ノ宮駅南ターミナルに設置された「残日計」の除幕式が行われた。 

 それにしても「残日計」という用語は、いかにも即物的すぎて、病院用語のような印象を与える。高齢者や重病人には、耳にしたくないことを予感させるニュアンスを持つ言葉である。残日計の愛称を市民から公募すればどうだろうか。

◆神戸の都市魅力  神戸は「住みたいまち、訪れたいまち」として人気がある。この魅力は147年前の開港に起因する。神戸の都市魅力は、雇用、娯楽、文化等、大都市としての充実した都市機能と、山と海が近く自然環境に恵まれていて、街には開港以来の歴史を伝える施設が根付き、外国人との交流で醸成された国際性豊かな文化とおしゃれで上品な雰囲気等である。もし神戸が開港していなければ、神戸は瀬戸内海によくある平凡な湊町にすぎなかったことであろう。神戸の都市魅力の原点が、開港にあることはまちがいない。

◆安政五か国条約  安政5(1858)年6月19日、日米修好通商条約が締結された。幕府は、続いて、蘭、露、英、仏と同内容の条約を締結し、日本が本格的に開国することになった。開国で外国との貿易が始まり、外国人が国内に住みつくことになる。条約で規定された開港場は、神戸、横浜、長崎、箱舘、新潟であり、開市場は江戸と大坂である。大坂は、開市の半年後に開港場に切り替えられた。開港場、開市場には外国人居留地が建設された。

◆開港と開市のちがい  開港、開市戸は何か。開港と開市は、条約上、どこが違うのか。

 違いの第1は、開港場には.外国船が貿易のために入港できるが、開市場には入港できないことである。大坂にも外国人居留地が開設されたが、大坂には外国船が貿易のため入港するは認められなかったので、大坂居留地の外国人が輸出入する場合、通関等の貿易手続きはすべて神戸で行なわれた。

 第2は、開港場、開市場の外国人居留地に居住する外国人の資格である。条約では、外国人は、開港場では「居留」(permanent residence)でき、開市場では「逗留」(residence)できると規定された。開市場では、外国人は「只商売を為す間にのみ逗留する事を得へし」と規定されていた。商売をする間だけ逗留できるという取り決めである。

 安政五か国条約で開港場となったことが、神戸の都市イメージを国際都市と方向づけた。


開港場・開市場と開港・開市年



 

開港場

開市場

条約上の

開港開市年

実際の

開港開市年

開港

横浜

1859

1859

長崎

1859

1859

函館

1859

1859

新潟

1860

1868

神戸

1863

1868

開市

江戸

1862

1868

大阪

1863

1868

2015年8月16日日曜日

津田三蔵と神戸(『セルポート』150811号)


 

神戸今昔物語(第517号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(60)

 

津田三蔵と神戸

◆津田三蔵   明治24年5月11日、大津で巡査津田三蔵(1855~1891)が、ロシア帝国ニコライ皇太子にサーベルで切りつけて負傷させた(「大津事件」)。津田の動機の一つに、事件前に三井寺で、西南戦争忠魂碑に敬意を払わなかった白人に津田が不快感を持ったこともあった。

◆津田と西南戦争  明治5年3月、津田は東京鎮台名古屋分営(後、名古屋鎮台)に入営し、明治6年4月、金沢営所に配属された。明治8年1月、津田は陸軍伍長に昇進した。

明治10年2月15日、西郷隆盛が挙兵し、22日、西郷軍が熊本鎮台の攻撃を開始した。津田が所属する金沢の大隊は、別動旅団に編入されて、3月20日に日奈久(現八代市)に上陸し、熊本城を包囲する西郷軍の背後を衝いた。

 3月26日、津田は、戦闘中に左手人差し指と中指の間の貫通銃創を受け、八代包帯所で応急手当てを受けた後、長崎海軍病院に入院した。5月20日、退院した津田は、熊本大本営に出頭し、26日、船で鹿児島に渡り原隊に復帰した。

◆戦争終結  9月24日、西郷の自刃で戦争は終結した。

津田は、母宛の25日付け書簡で「当月廿四日午前、第四時ヨリ大進撃ニテ、大勝利、魁首西郷隆盛、桐野利秋ヲ獲斃シ大愉快之戦ニテ、(略)、此日、楽隊音楽ヲ奏シ、各部隊ニ日ノ丸ヲ掲ゲ 戦士ハ凱歌ヲ歌ヒ、勇気山ヲ抜ク」(樋爪修「津田三蔵書簡について」)と書いた。

◆西南戦争とコレラ  戦争終結で、帰還兵を満載した船が鹿児島から続々と神戸に到着した。

明治10年9月22日、神戸に着いた亀福丸に乗っていた帰還兵のうち7名がコレラを発病し4名が死亡した。兵庫県は海岸通2丁目に検疫委員出張所、和田岬に検疫消毒所を設置し、入港船の検疫を実施した。9月30日から10月2日までに、帰還兵の発病者は402名で、うち死亡者は108名に達した(「兵庫県検疫委員報告」明治10年10月6日)。さらに、10月だけで414人が発病し、この年、神戸市内だけで市民と帰還兵を合わせて903人が発病し、うち700人が死亡した。

なぜ帰還兵からコレラか。この年7月、中国アモイでコレラが発生した。8月19日、上海から長崎に寄港した英国船船員がコレラに感染していた。コレラが中国から九州に入り広がった。

◆津田、神戸に帰還  9月29日午後4時頃、津田は鹿児島から軍艦孟俊(357㌧)で神戸に到着した。帰還兵は軍艦と商船で輸送した。この日、鹿児島から、軍艦とは別に、住之江丸、敦賀丸(661トン)、兵庫丸(896トン)が、帰還兵を満載して神戸に到着している(カット参照)。3隻とも岩崎弥太郎の所有船で、船長は外国人であった。

 津田は、10月2日付の母宛の手紙で「上陸後、万自由ヲ得、恰も、別世界に蘇生スル心地仕、上陸後、愉快ヲ相極罷募リ候」と書いた(「上掲論文」)。

(津田の帰還艦名は大津市歴史博物館樋爪修館長にご教示いただいた。お礼申し上げる。)

2015年8月9日日曜日

「サッポロビールの父」神戸葺合村で行旅死亡(『セルポート』150801号)


『セルポート」2015-08-01号

神戸今昔物語(第516号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(59)

「サッポロビールの父」神戸葺合村で行旅死亡

◆北海道開拓使  前号に続き薩摩出身の黒田清隆(後、総理大臣)について書く。

黒田は戊申戦争の五稜郭の戦い(明治2年)で功を上げ、明治4年に「北海道開拓使」(以下「開拓使」)次官、同5年に長官(東京在勤)に就任した。開拓使は、明治2年設置の「北海道と樺太の行政・開拓を所管する官庁」であり、現在の用語でいえば「北海道開拓庁」と命名されるべき官庁である。

明治5年、北海道で良質の野生ホップが発見された。開拓使は、ドイツでビール醸造を学んだ中川清兵衛を迎えて「開拓使麦酒製造所」を開いた。後のサッポロビールである。

 明治10年6月26日、開拓使は天皇に「開拓使麦酒」を献上した。この日、天皇は京都御所で熊本から帰還した陸軍軍楽隊の演奏を楽しんだ。

◆村橋久成  開拓使で黒田の部下に村橋久成がいた。村橋家は薩摩藩の名門で、久成も将来家老職が約束された役職である御小姓組番頭として城中に詰めていた。

慶応元年、薩摩藩は、村橋、五代友厚、松木弘保(寺島宗徳)、森有礼ら計19人を英国に派遣した。翌年帰国した村橋は、五稜郭の戦いに「軍監」として参加し手柄を立てる。
 明治4年11月、村橋は開拓使に出仕し、奏任官7等、開拓権少書記に昇進していく。 

明治9年、村橋は「開拓使東京官園内」に建設が決定していた麦酒醸造所を、札幌に変更し、自ら建設の任にあたった。村橋をテーマにした小説『残響』の著者田中和夫は「村橋久成がいたからこそいまのサッポロビールが有る」と書いた。村橋はサッポロビールの生みの親である。

 明治14年5月、村橋は、突然、開拓使を辞職し、雲水姿で諸国行脚に出た。

◆葺合村の行旅死亡者  

11年後、『神戸又新日報』(明治25年10月12日号)に村橋の死亡公告が載った。

 

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                      鹿児島県鹿児島郡塩谷村        

                           村橋久成

一 相貌 年齢四十八歳 身幹五尺五寸位 顔丸ク色黒キ方 薄キ痘痕アリ 目大ニシテ 鼻隆キ方 前歯一本欠 頭髪薄キ方 其他常体  

一 着衣 紺木綿シャツ一枚 白木綿三尺帯一筋 

右ノ者 本年九月廿五日 当市葺合村於テ 疾病ノ為メ倒レ居リ 当庁救護中 同月廿八日ニ死亡ニ付仮埋葬ス 心当リノ者ハ申出ヘシ           

                       明治廿五年十月  神戸市役所

 

村橋は、巡査の質問に、当初、偽名と偽住所を告げたが、再度問われ、本名と出身地を告白し、3日後に死亡した。

◆開拓使官有物払下事件  明治14年、政府は開拓使を翌15年に廃止することとした。

 黒田は、1400万円を投じた船舶、炭鉱、工場等の官有財産を、同郷の五代友厚らが経営する関西貿易商会に、「38万円無利息30年賦」で払い下げようとした。世論が猛反発し、払い下げは中止となり、黒田は辞任した。

村橋は、同郷の薩摩人による癒着に抗議して雲水になった、と筆者は考えている。

(楠本利夫)

 

 死亡公告『神戸又新日報』(明治25年10月12日号)