神戸今昔物語(第520号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(63)
柴田剛中、神戸開港準備責任者に
◆開港勅許 兵庫開港日(1868年1月1日)が近づいてきた。けれども、朝廷は兵庫開港の勅許(天皇の許可)を下す気配がなかった。幕府は居留地建設に着手できない。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、兵庫開港に反対していた天皇が突然崩御された。35歳の若さである。死因は天然痘である。崩御のタイミングは、その後の歴史の経過をみると、開国派にとりあまりにも都合が良すぎたので、「暗殺説」がささやかれた。岩倉具視が犯人と疑われていた。現在では、暗殺説は否定されている。
慶応3(1867)年1月9日、睦仁親王が践祚した。後の明治天皇である。
朝廷は相変わらず勅許を拒否し続けた。3月5日、上京中の将軍慶喜は、朝廷に兵庫開港勅許を奉請した。3月19日、朝廷は不許と沙汰した。3月22日、慶喜は再度勅許を奉請した。22日、やはり不許の沙汰であった。
◆神戸開港 開港まで時間がない。兵庫は住民の反対で開港できる環境ではない。兵庫から東へ直線距離で3・5kmの神戸村海岸の畑地と砂浜を、幕府は居留地建設適地と判断した。そこには、畑地と墓地、家屋4軒と土蔵があるだけであり、船舶修理のための「船たで場」まであった。
勅許がおりたら、すぐに工事に着手しなければならない。4月13日、幕府は、大坂で英米仏の公使と「兵庫大坂規定書」取り交わし、神戸に居留地を設置することとなった。
9年前の横浜開港の際、幕府が条約上の神奈川に替えて漁村横浜を開港したとき、外国側は猛烈に反対し紛糾した。外国側は、幕府が条約を本気で守る意思があるかどうかを疑ったからである。開港場を兵庫から神戸に替えたとき外国側は反対をしなかった。日本側が開港する意思があることを理解していたからである。
5月23日、慶喜は参内し、諸外国と約束した開港期日を守らなければ大変なことになるとして、兵庫開港を奉請した。朝廷は徹夜の会議の結果、5月24日(6月25日)、やっと兵庫開港の勅許を出した。開港まで6か月余しかない。
◆開港準備責任者 幕府は突貫工事で居留地を建設することとした。7月兵庫奉行所が新設され、柴田剛中が、兵庫奉行として居留地建設責任者に任命された。
幕府外務官僚の剛中は、幕末に兵庫開港延期交渉団のメンバーにもなった外国通で、2度の渡欧経験があった。剛中は開港事務所を海軍操練所跡に設置し準備を進めた。
8月、剛中は居留地開設工事の請負入札をし、神戸村庄屋生島四郎大夫が落札した。
9月、「開港につき兵庫表に移住商売したき者は、大坂町奉行神戸村御普請所に出願すべきこと」とお触れを出した。10月には居留地規則を制定した。
10月14日、慶喜が大政奉還をした。外交事務は当分の間「旧によるべし」とされたので、剛中はそのまま事務を担当した。慶応3年12月7日(1868年1月1日)の神戸開港日になっても居留地はまだ工事中であった。
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