神戸今昔物語(第521号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(64)
開港式は新装なった運上所で行われた。居留地建設責任者の兵庫奉行柴田剛中が、各国代表に幕府外交事務・永井玄番頭が署名した宣言書を読み上げて手交した。宣言書は、漢字主体で仮名が少し混じっていた。現代文に直すと次のとおりだ。「以書状致啓上候。帰国の新年の日をお祝い致す次第です。ことにこの日は我が国の兵庫開港、大坂開市の期日にあい、いささかもって各国と親睦を重ねてきたあらわれであると存じます。お祝いを申し述べます。拝具謹言」。外国側はフランス公使ロッシュ、英国公使パークス、米弁理公使ブルケンボルグ、プロシャ代理公使ブラント、オランダ公使代理総領事ボルスブロック等であった。
◆外国艦隊 このとき、神戸沖に18隻の外国軍艦が停泊していた。英12隻、米5隻、仏1隻である。軍艦は、開港式に臨席する各国代表を運んできた。代表団輸送だけなら大艦隊は要らない。大艦隊には日本側に、条約通り開港するよう圧力をかける目的もあった。有事に備えて陸戦隊も乗艦していた。開港1か月後に三宮神社前で偶発した備前藩士と外国人の衝突で、陸戦隊は上陸して備前藩兵と交戦し建設中の居留地を占拠している。
運上所は和洋折衷の2階建てで、2階はガラス窓だった。ガラスに朝日が反射しビードロの家と呼ばれていた。2階の式典会場の窓ガラス越しに停泊中の艦隊が見えた。
◆ええじゃないか 派手な着物を着た男女が「ええじゃないか」と踊りながら運上所を見物に来た。
「ええじゃないか」は、慶応3(1867)年8月末ごろ、東海地方で始まり近畿、中国、四国に波及した民衆狂乱である。天からお札(神符)が降り、それが啓示の前触れであるとして、各地で民衆が仮装して「ええじゃないか」を連呼して練り歩き、熱狂的に踊った。兵庫切戸町でも、朝、庭の松の木に神符がひっかっていた家があった。神符が300枚降下したと騒ぐ人や、天からチラチラ神符が降ってくるのを見たという人もいた。誰が降らせたのか。倒幕派が秩序の混乱を狙い、自分たちの行動を見つからないようにするために神符をまいたという説もある。
◆21発の礼砲 正午、外国艦隊が21発の礼砲を放った。雷のような轟音が裏山にこだまし、運上所の窓ガラスを震わせ、踊り狂う民衆の度肝を抜いた。
三田で轟音を聞いた住民は次のように記録した(『諸事風聞帳』)。
「7日、兵庫で大筒(大砲)のような音がした。12月7日の交易(開港)約定日に、交易がはじまることを祝って大筒を放ったものである。当地では祝儀不祝儀に大筒を放つこととなっている。公益所(居留地)は工事中で、未完成である」。
英国外交官アーネストサトウは「元旦には、大坂の河口の天保山と、兵庫において、それぞれ、貿易都市、貿易港として開かれるのを慶賀する祝砲が発せられた」(『外交官が見た明治維新』)。
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