開港150年へのカウントダウン(5) ええじゃないか
◆「ええじゃないか」 前号で、踊りながら神戸開港式を見物に来た人々がいたこと紹介した。
「ええじゃないか」は、慶応3年8月末頃に三河御油宿(現・豊橋市)で始まり、翌4年4月頃まで、東海、近畿、南関東、中国、四国へと波及した大衆乱舞だ。伊勢神宮などの神符が天から降り、女装男性や男装女性が、「ええじゃないか」に囃しを付けた卑猥な歌を歌いながら集団で町や村を踊り歩いた。神符が降下した家は神主や近隣の人を招いて祝宴を開いた。宴会は2泊3日、3泊4日も続くものが少なくなかった。
騒動は、倒幕派が自分達の動きを幕府に察知されよう隠れ蓑として起こしたといわれている。
なぜ急速に広まったのか。筆者は騒動で実益を得る人達が底辺にいて、その人達の無邪気な行動と、本気で世直しを願う人、愉快犯的な人、付和連動の人達等の行動が相乗効果を生み、連鎖反応的に次々と広がっていったと考えている。
◆外国人が見た「ええじゃないか」 慶応3年11月17日、英国外交官ミットフォードは神戸と大坂で「ええじゃないか」を目撃した。
「外国人居留地ができる予定の神戸では、(略)赤い縮緬の衣装を着けた人々が新しい居留地へ土を運ぶ荷車を擬した車と一緒に行列した」。
大坂では、「何千人もの人々が幸せそうに、赤や青の縮緬の晴れ着を着、赤い提灯を頭上に掲げ、声を限りに『ええじゃないか!ええじゃないか!』と叫びながら踊っているのであった。」(『英国外交官が見た幕末維新』)。
アーネストサトウ(後、駐日公使)は、「これらの騒ぎは官民ともに開港に好意をもつ明白なしるしであって、日本人と外国人との間の親善関係の素晴らしい増進を約束するものと見てとった」(『一外交官の見た明治維新』)と書いた。
◆兵庫 神符は、11月頃から柳原、切戸町、魚棚町、新町に降り始め、神戸にも波及した(『兵庫県史 資料篇』)。
切戸町の五味屋では神符が300枚降った。天から降ってくるのを見たという人も表れた。
神符が降った家では、鏡餅と神酒を供え、神主と親戚友人を招いて祝宴を開いた。降らない家の人は嘆いた。それを見た近隣の人が、夜半密かにその家の屋根、庭松に神符を掛けた。朝、神符を発見したその家の人が「神符が降った」と大喜びし祝宴を開いた。「神官は招きを受けて期せざるの収入を得、以謂らく『いいじゃないか』と。流行、此に至っては、傭者の如き、神官の如き、好事家、薄命者、皆一朝にして神符の散布者と変ず。諸神降下の盛んなる、また何ぞ怪しまん」(『神戸開港三十年史』)。騒動でささやかな実益を得る人がいたのである。
西宮、川辺郡、伊丹、有馬郡、三田、美嚢郡、明石、津名郡、三原郡、加西郡、多可郡、生野町、久美浜、豊岡、八鹿、宍粟郡等での神符降下の詳細な記録がある(上掲「県史」)。
3月14日、五箇条ご誓文が示され、4月11日、江戸城が無血開城した。狂乱は急速に終息していった。
ええじゃないか(『兵庫県市』)
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