2015年11月9日月曜日

「偕楽亭~兵庫と神戸和解の象徴施設~」(『セルポート』151101号)


神戸今昔物語(第524号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(67

 
開港150年へのカウントダウン(7) 兵庫神戸の融和
 

◆開港場神戸  慶応3127日、神戸が開港した。各国は神戸に領事館を開設し欧米貿易商が商館を建設した。中国人も大挙して神戸に来た。日本人も国内各地から移住してきた。居留地、生田川付替え、栄町通等の大規模土木工事が実施された。明治7年、神戸大阪間鉄道が開通、9年には神戸京都間が開通した。西南戦争勃発で神戸に兵站基地運輸局が設置され、神戸は戦争特需で活気を呈した。開港翌年、スエズ運河が開通し、極東と欧州の海上距離が短縮され、物流、人流が盛んになり、神戸は横浜と共に世界への窓口になった。

◆兵庫の衰退  兵庫では劇的変化はない。「兵庫は土着人を以て成り、西摂唯一の商業地として既に其基礎を固くす。兵庫気風の存するや久しく、而して旧家と称され素封家と呼ばるゝ家あり。此等の家の君主は、他より指して旦那衆と崇め、旦那衆は公共的義務あるものと信せられ、亦、自らも然と信ぜしなり」(『神戸開港三十年史』)。

兵庫には伝統的な「兵庫気風」を維持し、旧家素封家の旦那衆が「公共的義務がある者」として兵庫を仕切っていた。旦那衆は「寛厚なるべき者」と尊敬され、本人も自信を持っていた。「此自信は、自ら名誉心の生命となり、墳墓の地たる兵庫の為に栄光あれと祈る也。兵庫の住民の為には慶幸あれと願う也」(上掲書)。

旦那衆は、開港した神戸が発展しつつあることを知っても意に介さなかった。「彼等の多くは、(略)すでに資力あり、地位あり、名望ありて、所謂旦那衆として崇めらゝものは、冒険の地に立って進取の気力を鼓し、新運命を求むるの必要を感ぜざるなり」。

兵庫の旦那衆は、カネを求めて外国人にすり寄るように見える神戸の新住民を軽蔑していた。「兵庫人士の眼中に映ずる神戸人士は」「軽薄なり」「狡猾なり」「成上り紳士なり」であった(上掲書)。

◆兵庫と神戸融和のきっかけ  湊川が兵庫と神戸の交流を遮っていた。「一條の湊川、両港の人情、風俗、嗜好、習慣を異ならしむ」。兵庫と神戸の住民はお互いに交流しようとしなかった。

 明治10年、天皇の神戸行幸が決まった。神戸・京都間の鉄道開通式典に臨御するためである。天皇の立寄り先に湊川堤防が挙がった。川床6.5メートルの天井川湊川の両岸の松並木は神戸の観光名所であった。茶屋も立ち並んでいた。

湊川の「琴平橋」に天皇の立寄り所として「あずまや」を建設することになった。「此時、両港知名の人士は、相い謀りて其建築費を醸出せり」。

◆偕楽亭  明治1025日、神戸駅で盛大な式典が開催された。終了後、天皇はそのまま汽車で京都七条駅での式典に臨まれた。結局、天皇は湊川堤防には立ち寄られなかった。

天皇の名代として伊藤博文が亭を訪れ、「偕楽亭」と命名した扁額を揮毫した。兵庫と神戸の合作の偕楽亭である。祝宴で出席者は感激して交流した。「是れ、実に両港人士開港以来空前の会合と為すなり」(上掲書)。
 
       偕楽亭変額(『岡方文書』)

 
本稿から引用する場合は必ず引用元(ブログ名等)を明記してください。

0 件のコメント:

コメントを投稿