2015年11月30日月曜日

「第1回神戸市会議員選挙」(『セルポート』151121号)


神戸今昔物語(第526号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(69
 
         開港150年へのカウントダウン 第1回神戸市会議員選挙  

◆「市制及町村制」  明治21年、法律「市政及町村制」が交布された。大日本帝国憲法発布(明治22年)、「府県制郡制」制定(明治23年)で、近代国家としての骨格がほぼでき上がることになる。

市制及町村制の骨子は次の3点である。

市町村に独立の法人格を認め、公共事務・委任事務を処理するものとし、条例・規則制定権を付与する。

② 市町村会は「公民の等級選挙制」に基づく「公選名誉職議員」で構成し、市町村に関する一切の事件及び委任された事件を議決する。

等級選挙制」とは、選挙人を、納税額を基準としていくつかの等級に区分し,高額納税の等級区分に属する選挙人ほど選挙権の価値を大きくする選挙制度である。具体的には、全有権者をその納税累計額が等しくなるように3階級に分け,各階級からそれぞれ同数の議員を選出する。公民とは、国税2円以上を払う男子である。

執行機関は、市では市長及び市参事会(市長・助役・名誉職参事会員で構成)、町村では町村長とし、市長は市会が推薦した者のうちから内務大臣が直截を得て選任し、その他は市会・町村会で選挙する。

◆第1回市会議員選挙  明治12年、第一区(神戸)、第二区(兵庫)と坂本村が合併し「神戸区」が発足した。

明治224月1日、市制及町村制施行で、神戸区と葺合村、荒田村が合併し、人口134,704人の神戸市が誕生した。このとき、全国で36の市が発足した。

425日、第1回神戸市会議員選挙の投票が行われ、36人の議員が誕生した。

・第1選挙区(葺合部):定数4、投票場:雲中小学校):萬谷栄太郎、井上藤次郎、山本繁造、瀧本甚右衛門。

・第2選挙区(神戸部):定数11、投票場:神戸小学校):森本六兵衛、橋本藤左衛門、杉山利助、小寺泰次郎、池田貫兵衛、生島四郎左衛門、桑田彌兵衛、船井長四郎、塚本伊左衛門、山田佐兵衛、中西市蔵。

・第3選挙区(湊東部及び荒田村):定数4、投票場:湊川小学校):中島大二、友成徳次郎、直木政之助、高徳藤五郎。

・第4選挙区(湊西部):定数17、投票場:兵庫小学校:山本彌兵衛、神田甚兵衛、明石甚八、柏木莊兵衛、水渡甚左衛門、澤田清兵衛、魚住惣左衛門、上田栄次郎、黒田甚兵衛、岸本豊太郎、小曽根喜一郎、神田兵右衛門、岡田元太郎、川西清兵衛、加藤次郎兵衛、有馬市太郎、池永通。

 『神戸開港三十年史』は、「選挙棄権者多かりしの一事は、明らかに市民が未だ政治に冷淡なるを表證せり」と書いた。

◆折田年秀も投票  湊川神社折田宮司も湊川小学校で投票した。「午前七時ヨリ議員選挙会ニ出頭、直木政之助・高徳藤五郎之二名ヲ投票ス」(『折田年秀日記』)。

直木はマッチ製造会社「奨拡社」の経営者であり、高徳は後に県会議員になる。

明治23年、直木、高徳、川崎正蔵ら8名は連名で貧困者対象施療施設神戸市湊東慈善施療所」の広告を「神戸又新日報」に出している。
 


 

 

2015年11月14日土曜日

「ええじゃないか(続)」(『セルポート』151111号)


開港150年へのカウントダウン(8) 「ええじゃないか(続)」

 
◆神符降下  県内のええじゃないかをもっと知りたい、とのメールを読者からいただいた。

慶応311月から翌年4月頃まで、現兵庫県域内において、神符が降下し人々がええじゃないかと乱舞した(『兵庫県史 史料篇 幕末維新』)。

「西宮に御札降下し、町中乱舞」

「摂津川辺郡一橋領西村村々へ御札降下」

「川辺郡鳥島村に御札降下、村中総踊り、御伴・酒肴振舞の書上」

「伊丹町に御札降下し、踊り大流行」「川辺郡多田院村に御札降下し、村中乱舞」

「有馬郡南部の村々から三田町へかけて御札降下し、踊り波及」

「有馬郡から美嚢郡南部にかけて再び御札降下し、踊りが再燃」

「兵庫柳原に御札降下し、踊り始まる」

「兵庫切戸町・魚棚町・新町などでも踊り流行」

「明石の町にも踊り波及」

「淡路津名・三原両郡の村々に御札降下し、おのころ島神社への踊込参りが盛行」

「明石藩領加古郡二見で踊り盛行、隣接の姫路藩、踊りの波及を恐れて制圧したため、加古郡に御札の降下あるも踊り見られず」

「播磨加西郡に踊り波及し、昼夜なく踊り騒ぐ」

「播磨多可郡高田井村に御札降下し、酒食の饗応を行う」

「播磨多可郡船町村では踊り流行により節季勘定も正月晦日に延期される」

「幕府領但馬生野町に御札降下し、踊り流行」「幕府領丹後久美浜において御札降下し、領民の踊りが盛行したが、大坂落城の報により鎮静す」

「但馬豊岡町に御札降下し、踊り盛行、取締により鎮静す」

「但馬養父郡八鹿周辺に御札降下し、踊り流行」

「播磨宍粟郡山崎町に御札降下し、踊り波及するにより制止す」

「播磨宍粟郡高下村に御札降下し、代官、踊りを禁止す」

◆西宮  当時15歳だった西宮神社吉井良秀宮司は、慶応311月から翌年正月にかけて西宮で起きた騒乱を懐古している(『老の思ひ出』)。

「神様の御札が空から降りだした、伊勢の御札が多くて、牛頭天王や釈迦ケ嶽や種々の物で広く諸国にも拡まった、此地方では、秋から冬に掛けて至って盛んで、毎日此処や、彼所に、五軒や、八軒、降った。御札のみならず小判や二分金や銭や銀札が降った」。

 「降った家では悦んで俄かに、神棚を店や玄関の人目に近い所に拵えて祭ると、親戚や知己や近所から御祝に鏡餅や菓子肴種々な物を供へに来る、そうして親戚知己が踊りに来る、男も女も仮装する、派手な襦袢を着て一団を成して手に手に采配やうの物を以って、先一番に神社に出かける、知人の家々へ踊りに廻る。甲の家も乙の家も同様で毎日々々商売を休んで、市中は躍りで騒ぎ立てた」(原文のまま)。

◆終息  神符降下は、勤皇志士が行動を隠蔽するために起こした騒乱とする説が有力である。神符降下の間に、大政奉還、神戸開港大坂開市、戊辰戦争、王政復古、神戸事件、堺事件、五箇条御誓文、江戸開城等の歴史的大事件があった。
ええじゃないかは慶応44月にほぼ終息し、6月の備中里之中を最後に完全に終息した(外川淳『幕末維新』)。

2015年11月9日月曜日

「偕楽亭~兵庫と神戸和解の象徴施設~」(『セルポート』151101号)


神戸今昔物語(第524号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(67

 
開港150年へのカウントダウン(7) 兵庫神戸の融和
 

◆開港場神戸  慶応3127日、神戸が開港した。各国は神戸に領事館を開設し欧米貿易商が商館を建設した。中国人も大挙して神戸に来た。日本人も国内各地から移住してきた。居留地、生田川付替え、栄町通等の大規模土木工事が実施された。明治7年、神戸大阪間鉄道が開通、9年には神戸京都間が開通した。西南戦争勃発で神戸に兵站基地運輸局が設置され、神戸は戦争特需で活気を呈した。開港翌年、スエズ運河が開通し、極東と欧州の海上距離が短縮され、物流、人流が盛んになり、神戸は横浜と共に世界への窓口になった。

◆兵庫の衰退  兵庫では劇的変化はない。「兵庫は土着人を以て成り、西摂唯一の商業地として既に其基礎を固くす。兵庫気風の存するや久しく、而して旧家と称され素封家と呼ばるゝ家あり。此等の家の君主は、他より指して旦那衆と崇め、旦那衆は公共的義務あるものと信せられ、亦、自らも然と信ぜしなり」(『神戸開港三十年史』)。

兵庫には伝統的な「兵庫気風」を維持し、旧家素封家の旦那衆が「公共的義務がある者」として兵庫を仕切っていた。旦那衆は「寛厚なるべき者」と尊敬され、本人も自信を持っていた。「此自信は、自ら名誉心の生命となり、墳墓の地たる兵庫の為に栄光あれと祈る也。兵庫の住民の為には慶幸あれと願う也」(上掲書)。

旦那衆は、開港した神戸が発展しつつあることを知っても意に介さなかった。「彼等の多くは、(略)すでに資力あり、地位あり、名望ありて、所謂旦那衆として崇めらゝものは、冒険の地に立って進取の気力を鼓し、新運命を求むるの必要を感ぜざるなり」。

兵庫の旦那衆は、カネを求めて外国人にすり寄るように見える神戸の新住民を軽蔑していた。「兵庫人士の眼中に映ずる神戸人士は」「軽薄なり」「狡猾なり」「成上り紳士なり」であった(上掲書)。

◆兵庫と神戸融和のきっかけ  湊川が兵庫と神戸の交流を遮っていた。「一條の湊川、両港の人情、風俗、嗜好、習慣を異ならしむ」。兵庫と神戸の住民はお互いに交流しようとしなかった。

 明治10年、天皇の神戸行幸が決まった。神戸・京都間の鉄道開通式典に臨御するためである。天皇の立寄り先に湊川堤防が挙がった。川床6.5メートルの天井川湊川の両岸の松並木は神戸の観光名所であった。茶屋も立ち並んでいた。

湊川の「琴平橋」に天皇の立寄り所として「あずまや」を建設することになった。「此時、両港知名の人士は、相い謀りて其建築費を醸出せり」。

◆偕楽亭  明治1025日、神戸駅で盛大な式典が開催された。終了後、天皇はそのまま汽車で京都七条駅での式典に臨まれた。結局、天皇は湊川堤防には立ち寄られなかった。

天皇の名代として伊藤博文が亭を訪れ、「偕楽亭」と命名した扁額を揮毫した。兵庫と神戸の合作の偕楽亭である。祝宴で出席者は感激して交流した。「是れ、実に両港人士開港以来空前の会合と為すなり」(上掲書)。
 
       偕楽亭変額(『岡方文書』)

 
本稿から引用する場合は必ず引用元(ブログ名等)を明記してください。

2015年11月4日水曜日

「兵庫と神戸の確執」(『セルポート』151021号)


開港150年へのカウントダウン(6) 兵庫と神戸の確執

◆兵庫と神戸  神戸は186811日に開港した。外国人居留地は神戸村(人口1925人)海岸沿いの砂浜に設置された。兵庫は兵庫津として繁栄していて、人口も神戸の10倍強の2万人であった。兵庫と神戸は南北に流れる天井川の湊川により分断されていたため、ほとんど交流がなかった。

条約上の開港場である兵庫ではなく神戸が開港した。理由は、兵庫の住民が、変革につながる可能性がある開港を嫌がったこと、開港勅許が遅れ、幕府は外国側に約束した開港日に開港を間に合わせるため急いで居留地を建設する必要があったことである。

明治元年111日(1868.12.14)、神戸村と二茶村(1155人)、走水村(539人)が合併した。明治1218日、兵庫、神戸と坂本村が合併して「神戸区」になった。

◆神戸開港   開港した神戸に各国は領事館を開設し各国貿易商が商館を建設した。中国人も数多く来住した。開港翌年にスエズ運河が開通して東西交易が盛んになり、神戸は横浜とともにわが国の「世界への窓口」となった。

国内各地からビジネスチャンスを求めて人々が神戸に移住してきた。城下町ではなかった神戸には、古い町特有の人々の行動を制約する桎梏はない。出身地が異なる人達はお互いに他人の行動には無関心である。神戸では「隣人は外国人」であった。新来住民は他人に気兼ねすることなく、積極的に外国人のライフスタイルを吸収し、外国人向けの商売に挑戦した。神戸の旧住民は、土地や家屋を外国人や新住民に賃貸する商売に転じた。

◆兵庫と神戸  開港直後は、兵庫の経済力が神戸を上回っていた。けれども、明治10年頃から神戸の経済力が兵庫を凌駕しはじめた。神戸では外国人居留地、鉄道、港湾施設、栄町通等の大規模公共投資が行われ、貿易、海運、外国人相手の商売等で、街全体が活況を呈したからである。それまで、北前船の拠点、西国街道の宿場町であり、米穀、肥料の集散地として繁栄していた兵庫の地位は低下していった。神戸と兵庫の格差は広がるばかりであった。

◆兵庫と神戸の確執  一攫千金を夢見て神戸に集まってきた新住民の狂乱ぶりは異常であった。『神戸開港三十年史』は皮肉を込めて次のように書いている。

神戸の新住民は「故郷を捨てて新運命を求め」「冒険も恐れず労苦も辞せざる気力ある者」である。彼らの「眼中には自己あるのみ」「胸中には利己あるのみ」「欲望には銭あるのみ」「燃ゆるが如き貨殖の希望」「壮なる営利の意思を有す」。神戸の新住民は「名誉のごときは問う所にあらず」「高尚なる思考を有せず」「優美なる思想を有せず」。

新住民は、身近な外国人のライフスタイルを積極的に吸収した。それまで発展していた兵庫にはまだおっとりとした旦那衆がいた。兵庫の大商人は、神戸の発展と変貌を羨望と軽蔑のまなざしで見ていた。

「新興神戸」と「守旧兵庫」の住民はお互いに融和しようとしなかった。

 
元町通商店の英語看板(『豪商 神兵 湊の魁』明治15年)
 
本稿から引用する場合は必ずこのURLを明記してください。

「ええじゃないか」(『セルポート』151011号)


開港150年へのカウントダウン(5) ええじゃないか 

 
◆「ええじゃないか」   前号で、踊りながら神戸開港式を見物に来た人々がいたこと紹介した。

「ええじゃないか」は、慶応38月末頃に三河御油宿(現・豊橋市)で始まり、翌44月頃まで、東海、近畿、南関東、中国、四国へと波及した大衆乱舞だ。伊勢神宮などの神符が天から降り、女装男性や男装女性が、「ええじゃないか」に囃しを付けた卑猥な歌を歌いながら集団で町や村を踊り歩いた。神符が降下した家は神主や近隣の人を招いて祝宴を開いた。宴会は23日、34日も続くものが少なくなかった。

騒動は、倒幕派が自分達の動きを幕府に察知されよう隠れ蓑として起こしたといわれている。

なぜ急速に広まったのか。筆者は騒動で実益を得る人達が底辺にいて、その人達の無邪気な行動と、本気で世直しを願う人、愉快犯的な人、付和連動の人達等の行動が相乗効果を生み、連鎖反応的に次々と広がっていったと考えている。

◆外国人が見た「ええじゃないか」  慶応31117日、英国外交官ミットフォードは神戸と大坂で「ええじゃないか」を目撃した。

「外国人居留地ができる予定の神戸では、(略)赤い縮緬の衣装を着けた人々が新しい居留地へ土を運ぶ荷車を擬した車と一緒に行列した」。

大坂では、「何千人もの人々が幸せそうに、赤や青の縮緬の晴れ着を着、赤い提灯を頭上に掲げ、声を限りに『ええじゃないか!ええじゃないか!』と叫びながら踊っているのであった。」(『英国外交官が見た幕末維新』)。

アーネストサトウ(後、駐日公使)は、「これらの騒ぎは官民ともに開港に好意をもつ明白なしるしであって、日本人と外国人との間の親善関係の素晴らしい増進を約束するものと見てとった」(『一外交官の見た明治維新』)と書いた。

◆兵庫   神符は、11月頃から柳原、切戸町、魚棚町、新町に降り始め、神戸にも波及した(『兵庫県史 資料篇』)。

切戸町の五味屋では神符が300枚降った。天から降ってくるのを見たという人も表れた。

神符が降った家では、鏡餅と神酒を供え、神主と親戚友人を招いて祝宴を開いた。降らない家の人は嘆いた。それを見た近隣の人が、夜半密かにその家の屋根、庭松に神符を掛けた。朝、神符を発見したその家の人が「神符が降った」と大喜びし祝宴を開いた。「神官は招きを受けて期せざるの収入を得、以謂らく『いいじゃないか』と。流行、此に至っては、傭者の如き、神官の如き、好事家、薄命者、皆一朝にして神符の散布者と変ず。諸神降下の盛んなる、また何ぞ怪しまん」(『神戸開港三十年史』)。騒動でささやかな実益を得る人がいたのである。

西宮、川辺郡、伊丹、有馬郡、三田、美嚢郡、明石、津名郡、三原郡、加西郡、多可郡、生野町、久美浜、豊岡、八鹿、宍粟郡等での神符降下の詳細な記録がある(上掲「県史」)

314日、五箇条ご誓文が示され、411日、江戸城が無血開城した。狂乱は急速に終息していった。
 
ええじゃないか(『兵庫県市』)
 
 
「本稿から引用する場合は必ずこのURLを明記してください」

「神戸開港式 外国軍艦の号砲」(『セルポート』151001号)


神戸今昔物語(第521号)湊川神社物語(第2部)
         「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(64
 
             神戸開港式、外国軍艦の号砲 

◆開港宣言  慶応3127日(186811日)、神戸は開港した。

開港式は新装なった運上所で行われた。居留地建設責任者の兵庫奉行柴田剛中が、各国代表に幕府外交事務・永井玄番頭が署名した宣言書を読み上げて手交した。宣言書は、漢字主体で仮名が少し混じっていた。現代文に直すと次のとおりだ。「以書状致啓上候。帰国の新年の日をお祝い致す次第です。ことにこの日は我が国の兵庫開港、大坂開市の期日にあい、いささかもって各国と親睦を重ねてきたあらわれであると存じます。お祝いを申し述べます。拝具謹言」。外国側はフランス公使ロッシュ、英国公使パークス、米弁理公使ブルケンボルグ、プロシャ代理公使ブラント、オランダ公使代理総領事ボルスブロック等であった。

◆外国艦隊  このとき、神戸沖に18隻の外国軍艦が停泊していた。英12隻、米5隻、仏1隻である。軍艦は、開港式に臨席する各国代表を運んできた。代表団輸送だけなら大艦隊は要らない。大艦隊には日本側に、条約通り開港するよう圧力をかける目的もあった。有事に備えて陸戦隊も乗艦していた。開港1か月後に三宮神社前で偶発した備前藩士と外国人の衝突で、陸戦隊は上陸して備前藩兵と交戦し建設中の居留地を占拠している。

 運上所は和洋折衷の2階建てで、2階はガラス窓だった。ガラスに朝日が反射しビードロの家と呼ばれていた。2階の式典会場の窓ガラス越しに停泊中の艦隊が見えた。

◆ええじゃないか  派手な着物を着た男女が「ええじゃないか」と踊りながら運上所を見物に来た。

「ええじゃないか」は、慶応31867)年8月末ごろ、東海地方で始まり近畿、中国、四国に波及した民衆狂乱である。天からお札(神符)が降り、それが啓示の前触れであるとして、各地で民衆が仮装して「ええじゃないか」を連呼して練り歩き、熱狂的に踊った。兵庫切戸町でも、朝、庭の松の木に神符がひっかっていた家があった。神符が300枚降下したと騒ぐ人や、天からチラチラ神符が降ってくるのを見たという人もいた。誰が降らせたのか。倒幕派が秩序の混乱を狙い、自分たちの行動を見つからないようにするために神符をまいたという説もある。

21発の礼砲  正午、外国艦隊が21発の礼砲を放った。雷のような轟音が裏山にこだまし、運上所の窓ガラスを震わせ、踊り狂う民衆の度肝を抜いた。

三田で轟音を聞いた住民は次のように記録した(『諸事風聞帳』)。

7日、兵庫で大筒(大砲)のような音がした。12月7日の交易(開港)約定日に、交易がはじまることを祝って大筒を放ったものである。当地では祝儀不祝儀に大筒を放つこととなっている。公益所(居留地)は工事中で、未完成である」。

英国外交官アーネストサトウは「元旦には、大坂の河口の天保山と、兵庫において、それぞれ、貿易都市、貿易港として開かれるのを慶賀する祝砲が発せられた」(『外交官が見た明治維新』)。


本稿から引用する場合は必ずこのURLを明記してください。
 

 

 「柴田剛中、神戸開港準備責任者に」(『セルポート』150921号)


 
                             
神戸今昔物語(第520号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(63

 
柴田剛中、神戸開港準備責任者に

 
◆開港勅許  兵庫開港日(186811日)が近づいてきた。けれども、朝廷は兵庫開港の勅許(天皇の許可)を下す気配がなかった。幕府は居留地建設に着手できない。

慶応21225日(1867130日)、兵庫開港に反対していた天皇が突然崩御された。35歳の若さである。死因は天然痘である。崩御のタイミングは、その後の歴史の経過をみると、開国派にとりあまりにも都合が良すぎたので、「暗殺説」がささやかれた。岩倉具視が犯人と疑われていた。現在では、暗殺説は否定されている。

慶応31867)年19日、睦仁親王が践祚した。後の明治天皇である。

朝廷は相変わらず勅許を拒否し続けた。35日、上京中の将軍慶喜は、朝廷に兵庫開港勅許を奉請した。319日、朝廷は不許と沙汰した。322日、慶喜は再度勅許を奉請した。22日、やはり不許の沙汰であった。

◆神戸開港  開港まで時間がない。兵庫は住民の反対で開港できる環境ではない。兵庫から東へ直線距離で35kmの神戸村海岸の畑地と砂浜を、幕府は居留地建設適地と判断した。そこには、畑地と墓地、家屋4軒と土蔵があるだけであり、船舶修理のための「船たで場」まであった。

勅許がおりたら、すぐに工事に着手しなければならない。413日、幕府は、大坂で英米仏の公使と「兵庫大坂規定書」取り交わし、神戸に居留地を設置することとなった。

9年前の横浜開港の際、幕府が条約上の神奈川に替えて漁村横浜を開港したとき、外国側は猛烈に反対し紛糾した。外国側は、幕府が条約を本気で守る意思があるかどうかを疑ったからである。開港場を兵庫から神戸に替えたとき外国側は反対をしなかった。日本側が開港する意思があることを理解していたからである。

523日、慶喜は参内し、諸外国と約束した開港期日を守らなければ大変なことになるとして、兵庫開港を奉請した。朝廷は徹夜の会議の結果、524(625)、やっと兵庫開港の勅許を出した。開港まで6か月余しかない。

◆開港準備責任者  幕府は突貫工事で居留地を建設することとした。7月兵庫奉行所が新設され、柴田剛中が、兵庫奉行として居留地建設責任者に任命された。

 幕府外務官僚の剛中は、幕末に兵庫開港延期交渉団のメンバーにもなった外国通で、2度の渡欧経験があった。剛中は開港事務所を海軍操練所跡に設置し準備を進めた。

 8月、剛中は居留地開設工事の請負入札をし、神戸村庄屋生島四郎大夫が落札した。

9月、「開港につき兵庫表に移住商売したき者は、大坂町奉行神戸村御普請所に出願すべきこと」とお触れを出した。10月には居留地規則を制定した。

1014日、慶喜が大政奉還をした。外交事務は当分の間「旧によるべし」とされたので、剛中はそのまま事務を担当した。慶応3127日(186811日)の神戸開港日になっても居留地はまだ工事中であった。
 
    
開港前の居留地予定地(出所:神木哲男/崎山昌廣『神戸と居留地』)


 
(引用する場合は必ずこのURLを明記してください)