2012年12月28日金曜日

湊川神社創建の謎 「京都創建案もあった湊川神社」(湊川神社社報『あぁ楠公さん』2013新春号)


楠本利夫「京都創建案もあった湊川神社~湊川神社創建の謎~」

湊川神社『ああ楠公さん』(平成151月号)にこんな文章を載せました。
目次は次のとおりです。ご興味がある方は湊川神社広報までご照会ください。
       
 
・湊川神社はなぜ神戸にあるのか

・島津久光の楠社神戸創建建言

・尾張藩の楠社京都創建案

・神戸事件と勅使東久世通禧

・兵庫裁判所役人の神社創建嘆願と東久世通禧

・寄附と住民の勤労奉仕で神社創建

・湊川神社は神戸の宝・日本の宝

 なお、2013年春発行予定の『神戸外国人居留地研究会年報 居留地の窓から』にこのテーマの論文を発表します。

大楠公六百年大祭供詠 「湊川神社物語」(『セルポート』2013.1.1)

『セルポート』201311日号(連載通算第431号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第99

大楠公六百年大祭 

大楠公六百年大祭供詠  昭和10年は湊川の合戦から600年の節目の年である。合戦が行われた525日を中心として前後1週間、「大楠公六百年大祭」が大々的に繰り広げられた。

62日、六百年大祭の最終行事として「献詠披講式」が開催された。

午前10時、六百年大祭奉賛会会長の勝田銀次郎市長、総裁の兵庫県知事湯沢三千男らが参殿した。秩父宮妃殿下、高松宮妃殿下等各皇族の詠歌に続いて、全国から供詠された和歌1900首余、漢詩200余篇、祭文1章が披露された。詠題は「橘花薫」である。

奉賛会会長、総裁、藤巻正之神社宮司がそれぞれ供詠した。

兵庫県知事 湯沢三千男(奉賛会総裁従四位勲三等) 
たちはなの はなのかをりのいや高く たふときみよに生くるうれしさ

神戸市長 勝田銀次郎(六百年大祭奉賛会会長勲四等)         

みなと川 のちの世遠くなかれきて 立花はなのかをり久しも

  別格官幣社湊川神社宮司 藤巻正之(正六位)                      
いつあはれ ことしはわきてたちはなの 花の香たかきこゝちこそすれ

神戸新聞は「新緑の楠社に殉忠を讃ふ 大祭最終行事供詠披講式 光栄に輝く預選歌」の見出しで披講式の様子を報道した(63日朝刊)。

  ◆勝田銀次郎市長  「大楠公六百年祭献詠披講式参列記念撮影」(昭和1062日)写真の前列右が勝田市長、中央が湯沢知事、左が藤巻宮司である。               

勝田銀次郎は三大船成金の一人で、神戸市会議長を2度つとめた後、昭和8年に市会から懇願され歴代8人目の神戸市長に就任し、昭和16年まで在任した。

この写真は勝田陽子さん(中央区在住)が提供して下さった。
 

2012年12月23日日曜日

自治体国際担当職員向けテキスト『自治体国際政策論』執筆の動機と目的


本書は地方自治体の国際担当職員向けテキストとして書いた。自治体職員だけでなく、首長、議員、地域国際化協会、NGONPO等の職員にもぜひ読んでいただきたいと思う。筆者は神戸市における33年間の実務と、大学での10年間の国際政策研究に基づいて本書を執筆した。筆者がこの本を執筆した動機は次の4点である。


(「国際化政策」から「国際政策」へ)

第1は、自治体には「地域国際化政策」はあっても「国際政策」という概念がないためである。たしかに、自治体にも国際担当部課があり、職員はいつも忙しそうに働いている。国際担当職員に「あなたの自治体はどのような国際業務をしているか」と尋ねると、判で押したように、①姉妹都市交流、②青少年の海外語学研修派遣、③在留外国人との交流、④パンフレットや道路標識・駅看板等の外国語表記の外国語表示等を挙げる。これらの業務は地域国際化のために重要なものであることは間違いない。けれども自治体に求められる国際業務はそれだけではない。グローバル化が進展した今、これらを包含した「国際政策」が求められている。

筆者は自治体の国際事務を次の4つに分類している。すなわち、①外国との交流・交際(姉妹都市交流等)、②多文化共生(在留外国人との共生策)、③国際経済施策(外国人観光客・コンベンション誘致、外資系企業誘致)、④地域国際協力(福祉、上下水道等の住民生活密着分野で自治体の平素の業務で培ったノウハウ提供等)である。これらの事務を展開する政策を国際政策と定義している。

(自治体の人事異動)

2は、自治体には国際事務を円滑に処理できる職員が育ちにくいことである。都道府県、市町村では、おおむね3年に一度、定期人事異動がある。初めて国際担当の部課に配属された職員は、新しい仕事に戸惑うことが多い。理由は、それまでやってきた仕事とは大きく違うように見える上、外国人住民を対象とする施策には簡単な外国語が必要になることもあるからである。新規配属職員は、「なにをどの程度までやったらいいのかがわからない」ので戸惑うため、前例踏襲を心がけ、一日も早く別の部下への移動を心待ちにすることになる。そのような職員のための実務的な教科書が必要なのである。

(住民力の活用)

3は自治体への国際事務処理のための問題提起である。具体的には、①自治体が独自の国際政策を持つこと、②国際事務処理にあたっては住民力を活用し住民と連携して行うこと、③国際事務遂行に必要な自治体職員のグローバル・リテラシー(国際対応能力)育成、④国際事務の事業評価と事業仕分けである。自治体税制ひっ迫化の中で国際事務といえども聖域ではない。

(地域益増進)

4は、自治体国際事務は、自治体本来の目的である「住民福祉の増進」(地方自治用)のための「手段」であることはいうまでもない。ところが、手段と目的とを混同している事例が決して少なくない。自治体の国際事務にも税金を投入する以上「地域益」の増進が求められる。地域益は、「住民福祉の増進」につながることであり、経済的利益だけでなく、地域文化創造、多文化共生、自治体のプレゼンス向上等も含め広義にとらえるべきである。

(国際事務の理論と実践)

5は、これまで自治体国際事務について理論と実践を分かりやすく解説する教科書がほとんどなかったためである。地域国際化、多文化共生に関する本はたくさん出されている。けれども、自治体職員向けの国際事務の入門書はきわめて少ない。

 

『自治体国際政策論』神戸新聞 新刊紹介記事(2012.12.23)


 


2012年12月14日金曜日

市町村・都道府県の国際担当職員用入門テキスト 自治体はいま何をなすべきか 『自治体国際政策論~自治体国際事務の理論と実践~』紹介記事


美濃部達吉の名刺広告 天皇機関説を排撃した大物政治家と呉越同舟  大楠公六百年大祭 「湊川神社物語」(『セルポート』12.12.11号)


『セルポート』20121221日号(連載通算第430号)
       「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第98

大楠公六百年大祭 美濃部達吉の大祭協賛名詞広告のなぞ

◆美濃部達吉の名刺広告  昭和1052428日、「大楠公六百年大祭」が執り行われた。525日は楠木正成が湊川の合戦で敗れて自害した日である。「神戸又新日報」は連日大祭関連記事と大祭協賛名刺広告を載せた。525日付の「神戸又新日報」に美濃部達吉の名刺広告を見つけた。美濃部を含め計6人が並んで大祭協賛の名刺広告出している。筆者の興味を引いたのは、天皇機関説を排斥した大物議員が美濃部の隣に名刺広告を出していることである。
   山本悌二郎は、農林大臣も務めた政友会の重鎮で、天皇機関説を排撃し国体明徴運動を推進した貴族院議員である。
   白根竹介は第23代の兵庫県知事で、埼玉、岐阜、静岡、広島の各知事や、岡田内閣書記官長等を歴任した内務官僚で貴族院議員である。
 国府種徳は大正、昭和初期の詔勅等を起草した内務省官僚である。
 侯爵徳川圀順は水戸徳川家第13代当主の貴族院議員で、大楠公六百年大祭の名誉総裁である。
 池永浩久は元俳優、映画製作者、実業家である。

◆美濃部の名刺広告の背景  
 大祭が行われたこの年は、軍部と右翼が美濃部の天皇機関説を排撃し国際明徴運動を推進した年であった。218日、貴族院本会議で菊池武夫議員が美濃部の天皇機関説を攻撃した。225日、美濃部は貴族院で、天皇機関説をわかりやすく説明し、自身への「反逆者、謀反人、学匪」呼ばわりに反駁した。323日、衆議院が「国体明徴」決議案を可決した。49日、美濃部は不敬罪で告発され、著書3冊が発禁処分となった。83日、政府は、天皇機関説は「わが国体の本義を誤る」との第1次国体明徴声明を出した。918日、美濃部は貴族院議員の辞表を提出した。1015日、政府は「天皇機関説は国体にもとる」との第2次国体明徴声明を出した。天皇機関説の教授は禁止された。美濃部は起訴猶予となったが、918日、貴族院議員を辞職した。

◆美濃部はなぜ名刺広告を出したのか  美濃部が名刺広告を出した7日前の518日号「神戸又新日報」に「‘憲法学説’問題の解決に陸相不満 一層徹底的解決を望むと林陸相 首相に進言」の見出しの記事が載っていた。林 銑十郎陸相が、天皇機関説問題についての政府の態度が生ぬるいとして岡田啓介首相に「国家解釈の確立と機関説の徹底的消滅」等を求めたのである。
 美濃部は、なぜ、国体明徴推進者で天皇機関説を排撃した山本議員と並んで、六百年大祭協賛の名刺広告を出したのか。呉越同舟である。
 2つの可能性が考えられる。
 1は、美濃部が世論の攻撃に耐えかねて保身のために広告を出したことである。
 2は、美濃部は学者として天皇機関説を唱えたが個人的には大楠公への崇敬心を持っていることを天下に訴えたかったことである。大楠公を崇敬していた美濃部が、学者としての信念に基づき天皇機関説を権力に屈することなく堂々と主張したとすれば、戦後、「自虐史観」を身上とする「進歩的文化人」たちによって誤解されていた正成の魂が救われるような気がする。

「神戸又新日報(昭和105525日)

本稿から引用する場合は必ず引用元(ブログ名と筆者名)を明記してくださるようお願いします。

2012年12月6日木曜日

徳川圀順、湯沢三千男、勝田銀次郎 大楠公六百年祭大祭 「湊川神社物語」(『セルポート』2012.12.11号)

『セルポート』20121211日号(連載通算第429号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第97
                

                   大楠公六百年大祭

◆大楠公六百年大祭  昭和1052428日、大楠公六百年大祭が執り行われた。延元元(1336)年525日の湊川の合戦から600年の大祭である。

この年218日、貴族院本会議で菊池武夫議員(予備役陸軍中将)が、美濃部達吉(東京帝国大学名誉教授)の天皇機関説を攻撃した。このとき美濃部は貴族院議員であった。225日、美濃部は貴族院で弁明演説を行った。323日、衆議院で「国体明徴」決議案が可決された。国体明徴運動とは、軍部と右翼が天皇機関説は国体に反するとして起こした運動である。49日、美濃部は天皇機関説のため不敬罪で告発され、『逐条憲法精義』等著書3冊が発禁処分となった。9月、美濃部は貴族院議員を辞職した。美濃部は高砂市出身であるので兵庫県とは縁がある。

この年、日本人の平均寿命は、男子44.8歳、女子46.5歳であった(『年表 昭和平成史』岩波書店)。2011年は男子79.44年、女子85.90年となっている。日本人も長寿になったものである。

◆大祭奉賛会  大楠公六百年大祭奉賛会が組織され、会長に神戸市長勝田銀次郎、総裁に兵庫県知事湯沢三千男、名誉総裁に旧水戸藩主家の徳川圀順がそれぞれ就任した。518日、天皇から金1000円の下賜があり、兵庫県、神戸市、学校、有志から17万円の寄付があった。巡査の初任給が45円、高文試験合格者の初任給が75円の時代である。

5日間の大祭  524日の宵宮祭に続き、25日大楠公六百年大祭が執行された。天皇下賜の幣帛を奉り、続いて、徳川圀順名誉総裁、湯沢三千男知事、勝田銀次郎市長、寄付者代表川西清兵衛、氏子総代代表菅音二郎、参列者3000人が参拝した。2627日、神幸祭が、市内一円(灘区篠原本町から西須磨一の谷の間)で行われた。528日、報賽祭が行われ、29日には湊川合戦忠魂祭が執行された(湊川神社『大楠公』)。市内全域で全国忠孝節義社旌表式、献華祭、献茶祭、能楽会、武道会、体育会、講演大会、供詠披講等の記念行事が行われた。

 522日、大楠公銅像が湊川公園に建立された。神戸新聞社が市民募金で建立したこの銅像は、湊川の合戦で奮戦する大楠公像である。東京の皇居外苑の大楠公像は後醍醐天皇を兵庫福厳寺で出迎えたときの像である。芦屋では市民募金で「大楠公戦跡碑」が建立された。

◆参詣著名人  この年に湊川神社を参詣した著名人は次のとおりである(上掲書)。

横山大観(大楠公画像を制作して奉納)、元内閣総理大臣斎藤実、侯爵前田利為、海軍大将竹下勇、徳富猪一郎、徳川圀順、湯沢三千男、勝田銀次郎、北白川宮永久王と同妃、東久邇宮稔彦王妃允子内親王、陸軍大将井上光、海軍大将竹下勇。賀陽宮邦壽王と同妃、賀陽宮治憲王、賀陽宮恒憲王、澄宮崇仁親王、陸軍大将奈良武次、陸軍大将寺内正穀、東久邇宮稔彦王、スペイン皇太子、侯爵徳川慶光等。参詣者に皇族と軍人が圧倒的の多かったことから時代が読みとれる。

 
文学博士平泉 澄『大楠公六百年祭を迎へて』(大楠公六百年大祭奉賛会、昭和10220日)表紙
 

2012年12月2日日曜日

忠犬ハチ公像も供出 楠木正成像の盗難 (「湊川神社物語」『セルポート』2012.11.11号)


『セルポート』20121111日号(連載通算第426号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第94

大楠公像の盗難

◆金属供出令 前掲『銅像受難の時代』(芳川弘文堂)から銅像に関する話題を紹介する。

  昭和16131日「金属類特別回収要綱ニ関スル件」が閣議決定され、不要不急の鉄鋼製品や銅製品が回収されることとなった。それでも、この時点ではあくまで国民生活に支障がないよう比較的回収容易なものが回収されることとなっていた。

昭和1835日、「銅像等ノ非常回収実施要綱」が閣議決定され、「逼迫セル銅ノ需給ニ鑑ミ(略)此際既設制作中ノモノヲ問ハズ銅像等の非常回収ヲ即時断行スル」こととなった。実施に当たっては政府が国民に啓発宣伝し「飽迄愛国心ノ発露ニ依ル如ク措置スル」こととされた。昭和9年に建立された忠犬ハチ公像も昭和191012日に供出された。

◆楠公像の受難  昭和12311日朝、大阪府の布施第四小学校の校庭の楠公像が

台石の上から姿を消しているのを用務員が発見した。この像は同校教育後援会の寄付で

建設された高さ5尺(1.5㍍)、重量60貫(225kg)、台石を含め10尺(3㍍)の立派な

青銅製の像である。台石には本庄繁陸軍大将揮毫の「七生報国」の字が刻まれている。

登校した児童が、像がなくなっているのを発見して騒ぎだした。朝会で校長が 大楠公の銅像がなくなっても悲観してはいけません。私たちは大楠公精神に敬礼しているのです。銅像がなくなっても楠公さんの精神に今朝も敬礼しませう」と訓示した。

銅像は、前日夜10時から当日朝6時までの間に盗まれた。当直の訓導が責任を取って辞表を提出した。当時、鉄、銅の値上がりで小学校の二宮尊徳像や村の半鐘等の盗難が相次いでおり、警察が警戒していた矢先である。学校と後援会は、盗まれた銅像が帰らない場合は、大楠公像を再建することを決めた。警察は、現場に残されていた兜の角2本に残った指紋を手掛かりにして、鋳潰しを警戒し、大阪市内の地金商に一斉に手配した。

◆犯人逮捕  事件はすぐ解決した。「楠公さん無残な姿 受難の銅像 古物屋で発見 犯人四名も捕はる」(大阪朝日新聞、同年313日夕刊見出し)。盗難の翌朝8時半、天王寺区内の地金商に銅像を売り込みにきた古物商がいた。その家を警察が急襲して、30数片に無残にたたきつぶされた銅像を発見した。

3人の拾い屋が、大楠公像を2時間がかりで校庭から盗み出し、菰で隠して大八車に積んで古物商の家まで運び込み、裏庭で銅像を粉砕して売りに出した。彼らの動機に政治的意図はなく、金属高騰に目を付けただけであった。4人が朝鮮半島出身者であったことが同胞を刺激した。半島出身者から銅像再建募金への申し出が続いた。全国から2500人、2千円余の寄付が集まった。429日、再建した銅像の除幕式が同校校庭で盛大に執り行われた。盗難事件は美談として見事に幕が引かれた。

2012年11月30日金曜日

自治体は「国際化政策」ではなく「国際政策」を。ヒトモノカネ情報が地球上を自由に駆け巡る時代:自治体はいま何をすべきか『自治体国際政策論』刊行  

楠本利夫『自治体国際政策論

~自治体国際事務の理論と実践~』発売

(12月5日から全国の書店店頭に並びます)

 
 ヒト・モノ・カネ・情報が地球上を自由に駆け巡る時代、自治体は今何をすべきかを問いかける書物で、タイトルが「自治体国際化政策」ではなく「自治体国際政策」であることに注目していただきたい。これまで、自治体には「国際化」政策はあっても「国際政策」がなかったことが本書執筆の動機である。

以下は本書の骨子である。

1.    国に外交政策があるように自治体も独自の国際政策を持つべきである。

2.    グローバリゼーションが進展し、自治体が外国と接触する機会増え、域内の外国人住民も増加しその国籍構成も激変した。

3.    自治体の国際事務は、①国際交流・外国との交際(姉妹都市交流、青少年海外派遣等)、②多文化共生社会の構築(外国人住民との共存、外国人差別の除去等)、③国際経済施策(外国人観光客誘致、外資系企業誘致等)、④地域国際協力(水道等自治体が得意とする生活密着分野での国際協力)である。国際事務を展開するための政策が自治体国際政策である。

4.    いうまでもなく、自治体の目的は「住民福祉の増進」(地方自治法)であり、自治体の国際事務もその目的を達成するための手段である。目的と手段を混同しているように見える事例も決して珍しくはない。

5.    国際政策を遂行するにあたっては「地域益」の視点が大切である。地域益は、経済的利益だけではなく、地域文化創造、多文化共生、青少年育成、防災、自治体行政、国際社会における自治体のプレゼンス等への寄与効果を総合的に勘案しなければならない。

6.    国際事務も「事業評価」(費用対効果の測定)と「事業仕分け」の対象である。「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」の選択と集中も必要である。

7.    国際事務の実施には住民との連携が必要不可欠である。住民力を国際事務に導入することにより、自治体は苦手分野である国際事務の処理体制を充実させることが可能になる。同時に、住民参加により行政の透明性が担保され、参加する住民は地域の国際事務に貢献することに生きがいを持つことができる。

8.    わが国自治体の国際交流の中心は姉妹提携に基づく外国の自治体との交流である。日本の自治体は、姉妹提携を純粋に友好交流ととらえている。近隣の国の中には、姉妹提携による交流を政治的に利用しているように見受けられる例が少なくない。

9.    グローバリゼーションの進展は、自治体が積極的に国際政策を展開することによって住民福祉の増進を図るチャンスである。自治体がこのチャンス生かするために、自治体首長や職員にグローバル・リテラシー(国際対応能力)が求められる。

10.  著者は、本書を自治体首長、議員、職員、教員、国際交流協会職員、NGONPO職員等を対象として執筆した。

(公人の友社刊、定価:税込1470円)

神戸近現代史案内 連載14年目(「湊川神社物語」『セルポート』2012.12.1号)


『セルポート』2012121日号(連載通算第428号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第96

連載14年目に(移住坂/居留地百話/神戸今昔物語)

◆連載14年目   この連載は今号で14年目に入る。連載を始めたのは1999121日号である。当時、筆者は現職の公務員であった。公務員は目立ってはいけない。このように新聞に寄稿することは周囲からは歓迎されない。当時のペンネーム「寓籠駆」(グローカル)は、グローバルとローカルの造語に「寓居に籠って世界を駆ける」と漢字をあてたものである。
 
◆「移住坂」   連載の目的は、筆者たちが19997月から開始した市民運動「神戸海外移住者顕彰事業」を広く宣伝することであったので、表題は「移住坂」とした。
当時、神戸市役所内でも、移住者へのステレオタイプの誤解と偏見が根強く残っていた。「移民は暗い。暗い話は神戸のイメージに合わない」「移住者は政府にだまされたと思い祖国を恨んでいる」「身内に移住者がいることを家族は話したがらない」「外国でも移住者が出発したところには記念碑はない」「いまさら寝た子を起こすな」などと真顔で忠告してくれる人もいた。

はたしてそうか。移住者は日本人の世界展開のパイオニアである。神戸は移住者が最期に過ごした日本の町である。移住者は神戸から希望に燃えて世界へ旅立っていった。この神戸で移住者の功績を後世に伝えることを移住者は喜んでくれるに違いない。こう考えて市民運動を提唱した。

運動を積極的に支援してくれる人が続々と現れた。「捨てる神あれば拾う神あり」である。佐藤国汽船の佐藤国吉会長は「移民収容所の近くで生まれ育った私にとり移住者は身近な存在だった。神戸としてもっと早くこの運動をするべきだった」と語って下さった。移住者の姿と現地で彼らを待ち受けていた苦難に思いを馳せた会長の目から大粒の涙が流れた。

セルポートの岸田芳彦社長が趣旨に賛同し紙面を快く提供して下さった。岸田社長に心から感謝している。

◆「移住坂」  運動を始めると海外日系人から大きな反響があった。シンボル事業のメリケンパーク「移民船乗船記念碑」建立に、内外から約2650万円以上もの寄附が集まった。2001428日午後555分、記念碑の除幕式を行った。第1回ブラジル移民船・笠戸丸が明治41年に神戸を出港した日の時刻に合わせたのである。記念碑像は、彫刻家菊川晋久氏の作品である。

20096月、国立神戸移民収容所(昭和3年開業)は「神戸市立海外移住と文化の交流施設」として生まれ変わった。山手のこの施設から浜手の記念碑へ下る「移住坂」は、かつて移住者が徒歩で移民船へ向った坂道である。神戸の新たな観光スポットとなった移住施設を訪ねる観光客、日系人も多い。

◆「居留地百話」「神戸今昔物語」  「移住坂」連載は1年で終了した。続いて「居留地百話」を100回連載した。200411日号から「神戸今昔物語」として神戸の近現代史を紹介している。「なんこうさん物語」は「神戸今昔物語」の1章である。
 資料集めで、神戸市立中央図書館、神戸市文書館の皆様にいつも大変お世話になり感謝している。この場を借りて厚くお礼を申し上げる。

カット:「神戸海外移住者顕彰事業」のパンフレット(1999年)

尊氏を驚かせた弓の名手 遠矢浜の由来(「湊川神社物語」『セルポート』2012.11.21号)


『セルポート』20121121日号(連載通算第427号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第95

遠矢浜

◆大楠公由来の地名  過日「楠公と神戸」と題して市民向けの講演をする機会があった。楠木正成にちなむ神戸の地名として、楠町、菊水町(正成の旗印)、多聞通(正成の幼名)等を紹介した。遠矢町、遠矢浜町の由来は時間がなかったので省略したが、この町名も湊川の合戦の際の故事にちなんでいる。
 13365月朝、海路、京へ攻め上る足利尊氏の大軍が載った船団が和田岬沖に到着した。陸上では、後醍醐方総大将新田義貞の軍が尊氏軍の上陸を待ち受けていた。このとき、義貞方の武士が沖の尊氏の舟に向けて遠矢を射たことが、遠矢町、遠矢浜町の地名の由来である。

◆本間孫三郎重氏の遠矢  義貞の軍勢(『太平記』では25千、『梅松論』では1万)は、和田岬に
3段に分かれて布陣していた。尊氏の大軍を運んできた舟は海を埋め尽くした感があった。合戦が始まったのは午前10時ごろである。合戦の前、両軍がまだにらみ合っていた時、新田方の一人の武士が、馬に乗って波打ち際に進み出た。本間孫三郎重氏である。重氏は大音声で沖の尊氏の軍船に呼びかけた。「将軍筑紫よりご上洛候へば、定めて鞆・尾道の傾城ども多く召し具され候ふらん。その為に珍しき御肴一つ参らせ候はん。暫く御待ち候へ」。「筑紫(九州)からはるばる京へ攻め上る尊氏に珍しい魚を献上する」というのである。
重氏は流鏑矢を抜いて弓につがえ、松の木の陰で沖を狙った。波の上に1羽のミサゴが60センチほど
の魚を銜えて飛びさろうとした。ミサゴは海岸の岩に住むトビに似た鋭い爪を持つ鳥である。重氏が射た矢はミサゴに見事に命中し、ミサゴを射ぬいたまま、尊氏の座船の右手に停泊していた大友広幸の舟の屋形に突き刺さった。ミサゴは片羽をばたつかせていた。「ア、射タリ射タリ感スル声、且クハ(しばらくは)鳴モ静ラス」。重氏の弓の腕前を目の当たりにした両軍の兵士が、やんやの歓声を上げたのである。
◆尊氏方武士の遠矢  これを見た尊氏は「名を名乗れ」と声をかけた。重氏は「名乗ってもご存じな
いと思うが、弓を取っては坂東八か国では名が知られている。名はこの箭(矢)でご覧あれ」と弓を引き絞って尊氏の舟をめがけて矢を射た。矢は海上56町(1町は109㍍)離れた尊氏の舟の隣に並んでいた佐々木筑前守の舟の上の兵士の鎧の草摺(鎧の胴の下に垂れて大腿部を保護するもの)に刺さった。
尊氏がこの矢を見ると「相模国住人本間孫四郎重氏」と小刀の峰で彫りつけてあった。重氏は「合戦
の最中なので、矢は1本でも惜しい。その矢をこちらに返してほしい」と大声で叫んだ。筑前守の配下の武士が「この矢を受けて見よ」と、大声で叫び重氏に向けて射返した。けれどもその矢は2町も飛ばずに波に落ちてしまった(『湊川神社史 祭神編』)。
これが遠矢浜の地名の由来である。
和田岬小学校校庭にこの時の由来を書いた「本間重氏遠射址之碑」石碑がある。
(芦屋大学 客員教授 楠本利夫)
 
和田岬小学校「本間重氏遠射址之碑」


2012年10月28日日曜日

楠木正成像、戦艦河内から大阪市助役室へ (「湊川神社物語」『セルポート』2012.11.1号)


『セルポート』20121101日号(連載通算第425号)

「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第93

 

大阪市役所助役室の大楠公像

 

◆助役室の大楠公像  戦前、大阪市助役室に大楠公銅像が安置されていた。その銅像はひどく損傷していた。なぜ市役所の助役室に損傷した大楠公像か。

もともと、この大楠公像は戦艦河内の守護神として艦内に祀られていた。高さ「一尺五寸」の、「甲冑に金銀を象眼した美しい」座像であった。

戦艦河内(2万トン、20ノット)は、明治42年に横須賀海軍工廠で起工し、翌43年進水、大正元年に竣工した。河内に飾られた大楠公像の制作者は、東京美術学校教授海野美盛(彫金家、日本画家)である。海野は、明治43年に河内が進水するとき、同艦の守護神として大楠公座像を寄贈した。寄贈理由は、戦艦の名が正成の出身地である「河内」であることと、戦艦河内が海外遠征で、正成の忠誠を世界中に宣伝することを願ったためである。

ところが、戦艦河内は、6年後の大正7712日に徳山湾内において、火薬庫の爆発事故で沈没した。621名が殉職する大惨事であった。このとき「御真影警護責任者」の荒木中尉が、御真影を運び出した後、大楠公の銅像を抱いて艦外に運び出そうとして、殉職した。「楠公の銅像を抱た 殉難荒木中尉の死体発見 御真影奉還を了て仆る」(大正71024日付読売新聞見出し)。

不思議なことに、あれだけの大爆発にもかかわらず、銅像にはまったく損傷はなかった。海軍省は銅像を持ち帰った。けれども、大正12年の関東大震災で、銅像の上半身の象嵌が溶け流れて、原形が失われてしまった。

それを知った大阪市助役の木南正宣が、海軍省に大楠公像の払い下げを申請した。木南助役は、京都帝国大学出身で、大正 9 4 から昭和 3 3月まで助役を勤め、大阪市立美術館建設推進や、大阪美術協会の設立に寄与した文化に理解がある人である。木南が楠公座像の払い下げを申請した目的は、楠公の菩提寺である歓心寺中院に銅像を奉納するためであった。

海軍省は木南に銅像を払い下げた。この銅像が、戦前の大阪市助役室に飾ってあった大楠公座像である。(平瀬礼太『銅像受難の近代』芳川弘文館、2012年)。

◆全国に大楠公像建立  昭和10年の「大楠公六百年大祭」を機に、全国で大楠公の銅像建設がすすめられた。

昭和1054日、「菊水連隊」と呼ばれる「大阪歩兵第37連隊」の象徴として、大楠公像除幕式が執り行われた。製作は、鋳造家松木雲峰で、藤巻正之湊川神社宮司が銅像に入魂した。

同じころ、大阪府三島郡桜井駅跡に、同郡小学校校長会、楠公顕彰会のあっせんで、郡内小学生が寄付して「楠公父子決別像」が建立された。

神戸湊川公園に神戸新聞社が15万人から浄財を集めて大楠公騎馬像を建立したことはすでに紹介した。この像の製作にあたり、有識故事は関安之助が指導し斎藤素厳が製作した。

◆「聖駕奉迎時」像と「湊川奮戦時」像  東京の大楠公像は後醍醐天皇が隠岐から環幸するときの「聖駕奉迎時」である。神戸の像は「湊川奮戦時」の姿で、今にも動き出しそうな迫力がある。設置場所として湊川神社境内が検討されたが、「御神体を神社境内に再現することは法的に許されないため湊川公園にしたという」(「上掲書」)。