「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第97話
大楠公六百年大祭
◆大楠公六百年大祭 昭和10年5月24~28日、大楠公六百年大祭が執り行われた。延元元(1336)年5月25日の湊川の合戦から600年の大祭である。
この年2月18日、貴族院本会議で菊池武夫議員(予備役陸軍中将)が、美濃部達吉(東京帝国大学名誉教授)の天皇機関説を攻撃した。このとき美濃部は貴族院議員であった。2月25日、美濃部は貴族院で弁明演説を行った。3月23日、衆議院で「国体明徴」決議案が可決された。国体明徴運動とは、軍部と右翼が天皇機関説は国体に反するとして起こした運動である。4月9日、美濃部は天皇機関説のため不敬罪で告発され、『逐条憲法精義』等著書3冊が発禁処分となった。9月、美濃部は貴族院議員を辞職した。美濃部は高砂市出身であるので兵庫県とは縁がある。
この年、日本人の平均寿命は、男子44.8歳、女子46.5歳であった(『年表 昭和平成史』岩波書店)。2011年は男子79.44年、女子85.90年となっている。日本人も長寿になったものである。
◆大祭奉賛会 大楠公六百年大祭奉賛会が組織され、会長に神戸市長勝田銀次郎、総裁に兵庫県知事湯沢三千男、名誉総裁に旧水戸藩主家の徳川圀順がそれぞれ就任した。5月18日、天皇から金1000円の下賜があり、兵庫県、神戸市、学校、有志から17万円の寄付があった。巡査の初任給が45円、高文試験合格者の初任給が75円の時代である。
◆5日間の大祭 5月24日の宵宮祭に続き、25日大楠公六百年大祭が執行された。天皇下賜の幣帛を奉り、続いて、徳川圀順名誉総裁、湯沢三千男知事、勝田銀次郎市長、寄付者代表川西清兵衛、氏子総代代表菅音二郎、参列者3000人が参拝した。26~27日、神幸祭が、市内一円(灘区篠原本町から西須磨一の谷の間)で行われた。5月28日、報賽祭が行われ、29日には湊川合戦忠魂祭が執行された(湊川神社『大楠公』)。市内全域で全国忠孝節義社旌表式、献華祭、献茶祭、能楽会、武道会、体育会、講演大会、供詠披講等の記念行事が行われた。
5月22日、大楠公銅像が湊川公園に建立された。神戸新聞社が市民募金で建立したこの銅像は、湊川の合戦で奮戦する大楠公像である。東京の皇居外苑の大楠公像は後醍醐天皇を兵庫福厳寺で出迎えたときの像である。芦屋では市民募金で「大楠公戦跡碑」が建立された。
◆参詣著名人 この年に湊川神社を参詣した著名人は次のとおりである(上掲書)。
横山大観(大楠公画像を制作して奉納)、元内閣総理大臣斎藤実、侯爵前田利為、海軍大将竹下勇、徳富猪一郎、徳川圀順、湯沢三千男、勝田銀次郎、北白川宮永久王と同妃、東久邇宮稔彦王妃允子内親王、陸軍大将井上光、海軍大将竹下勇。賀陽宮邦壽王と同妃、賀陽宮治憲王、賀陽宮恒憲王、澄宮崇仁親王、陸軍大将奈良武次、陸軍大将寺内正穀、東久邇宮稔彦王、スペイン皇太子、侯爵徳川慶光等。参詣者に皇族と軍人が圧倒的の多かったことから時代が読みとれる。
文学博士平泉 澄『大楠公六百年祭を迎へて』(大楠公六百年大祭奉賛会、昭和10年2月20日)表紙
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