『セルポート』2012年12月21日号(連載通算第430号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第98話
大楠公六百年大祭 美濃部達吉の大祭協賛名詞広告のなぞ
◆美濃部達吉の名刺広告 昭和10年5月24~28日、「大楠公六百年大祭」が執り行われた。5月25日は楠木正成が湊川の合戦で敗れて自害した日である。「神戸又新日報」は連日大祭関連記事と大祭協賛名刺広告を載せた。5月25日付の「神戸又新日報」に美濃部達吉の名刺広告を見つけた。美濃部を含め計6人が並んで大祭協賛の名刺広告出している。筆者の興味を引いたのは、天皇機関説を排斥した大物議員が美濃部の隣に名刺広告を出していることである。
山本悌二郎は、農林大臣も務めた政友会の重鎮で、天皇機関説を排撃し国体明徴運動を推進した貴族院議員である。白根竹介は第23代の兵庫県知事で、埼玉、岐阜、静岡、広島の各知事や、岡田内閣書記官長等を歴任した内務官僚で貴族院議員である。
国府種徳は大正、昭和初期の詔勅等を起草した内務省官僚である。
侯爵徳川圀順は水戸徳川家第13代当主の貴族院議員で、大楠公六百年大祭の名誉総裁である。
池永浩久は元俳優、映画製作者、実業家である。
◆美濃部の名刺広告の背景
大祭が行われたこの年は、軍部と右翼が美濃部の天皇機関説を排撃し国際明徴運動を推進した年であった。2月18日、貴族院本会議で菊池武夫議員が美濃部の天皇機関説を攻撃した。2月25日、美濃部は貴族院で、天皇機関説をわかりやすく説明し、自身への「反逆者、謀反人、学匪」呼ばわりに反駁した。3月23日、衆議院が「国体明徴」決議案を可決した。4月9日、美濃部は不敬罪で告発され、著書3冊が発禁処分となった。8月3日、政府は、天皇機関説は「わが国体の本義を誤る」との第1次国体明徴声明を出した。9月18日、美濃部は貴族院議員の辞表を提出した。10月15日、政府は「天皇機関説は国体にもとる」との第2次国体明徴声明を出した。天皇機関説の教授は禁止された。美濃部は起訴猶予となったが、9月18日、貴族院議員を辞職した。
◆美濃部はなぜ名刺広告を出したのか 美濃部が名刺広告を出した7日前の5月18日号「神戸又新日報」に「‘憲法学説’問題の解決に陸相不満 一層徹底的解決を望むと林陸相
首相に進言」の見出しの記事が載っていた。林 銑十郎陸相が、天皇機関説問題についての政府の態度が生ぬるいとして岡田啓介首相に「国家解釈の確立と機関説の徹底的消滅」等を求めたのである。
美濃部は、なぜ、国体明徴推進者で天皇機関説を排撃した山本議員と並んで、六百年大祭協賛の名刺広告を出したのか。呉越同舟である。2つの可能性が考えられる。
第1は、美濃部が世論の攻撃に耐えかねて保身のために広告を出したことである。
第2は、美濃部は学者として天皇機関説を唱えたが個人的には大楠公への崇敬心を持っていることを天下に訴えたかったことである。大楠公を崇敬していた美濃部が、学者としての信念に基づき天皇機関説を権力に屈することなく堂々と主張したとすれば、戦後、「自虐史観」を身上とする「進歩的文化人」たちによって誤解されていた正成の魂が救われるような気がする。
「神戸又新日報(昭和10年5月5月25日)
本稿から引用する場合は必ず引用元(ブログ名と筆者名)を明記してくださるようお願いします。
0 件のコメント:
コメントを投稿