『セルポート』2012年11月21日号(連載通算第427号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第95話
遠矢浜
◆大楠公由来の地名 過日「楠公と神戸」と題して市民向けの講演をする機会があった。楠木正成にちなむ神戸の地名として、楠町、菊水町(正成の旗印)、多聞通(正成の幼名)等を紹介した。遠矢町、遠矢浜町の由来は時間がなかったので省略したが、この町名も湊川の合戦の際の故事にちなんでいる。
1336年5月朝、海路、京へ攻め上る足利尊氏の大軍が載った船団が和田岬沖に到着した。陸上では、後醍醐方総大将新田義貞の軍が尊氏軍の上陸を待ち受けていた。このとき、義貞方の武士が沖の尊氏の舟に向けて遠矢を射たことが、遠矢町、遠矢浜町の地名の由来である。◆本間孫三郎重氏の遠矢 義貞の軍勢(『太平記』では2万5千、『梅松論』では1万)は、和田岬に
3段に分かれて布陣していた。尊氏の大軍を運んできた舟は海を埋め尽くした感があった。合戦が始まったのは午前10時ごろである。合戦の前、両軍がまだにらみ合っていた時、新田方の一人の武士が、馬に乗って波打ち際に進み出た。本間孫三郎重氏である。重氏は大音声で沖の尊氏の軍船に呼びかけた。「将軍筑紫よりご上洛候へば、定めて鞆・尾道の傾城ども多く召し具され候ふらん。その為に珍しき御肴一つ参らせ候はん。暫く御待ち候へ」。「筑紫(九州)からはるばる京へ攻め上る尊氏に珍しい魚を献上する」というのである。
重氏は流鏑矢を抜いて弓につがえ、松の木の陰で沖を狙った。波の上に1羽のミサゴが60センチほど
の魚を銜えて飛びさろうとした。ミサゴは海岸の岩に住むトビに似た鋭い爪を持つ鳥である。重氏が射た矢はミサゴに見事に命中し、ミサゴを射ぬいたまま、尊氏の座船の右手に停泊していた大友広幸の舟の屋形に突き刺さった。ミサゴは片羽をばたつかせていた。「ア、射タリ射タリ感スル声、且クハ(しばらくは)鳴モ静ラス」。重氏の弓の腕前を目の当たりにした両軍の兵士が、やんやの歓声を上げたのである。
◆尊氏方武士の遠矢 これを見た尊氏は「名を名乗れ」と声をかけた。重氏は「名乗ってもご存じな
いと思うが、弓を取っては坂東八か国では名が知られている。名はこの箭(矢)でご覧あれ」と弓を引き絞って尊氏の舟をめがけて矢を射た。矢は海上5~6町(1町は109㍍)離れた尊氏の舟の隣に並んでいた佐々木筑前守の舟の上の兵士の鎧の草摺(鎧の胴の下に垂れて大腿部を保護するもの)に刺さった。
尊氏がこの矢を見ると「相模国住人本間孫四郎重氏」と小刀の峰で彫りつけてあった。重氏は「合戦
の最中なので、矢は1本でも惜しい。その矢をこちらに返してほしい」と大声で叫んだ。筑前守の配下の武士が「この矢を受けて見よ」と、大声で叫び重氏に向けて射返した。けれどもその矢は2町も飛ばずに波に落ちてしまった(『湊川神社史 祭神編』)。
これが遠矢浜の地名の由来である。
和田岬小学校校庭にこの時の由来を書いた「本間重氏遠射址之碑」石碑がある。
(芦屋大学 客員教授 楠本利夫)
和田岬小学校「本間重氏遠射址之碑」
湊川合戦での本間孫三郎の遠矢の話、源平の屋島合戦での那須与一の船上の扇の的を射抜く話など、神戸にも縁ある弓の名手たちの超人的な腕前には驚くほかありません。今の弓道の的は30m先、遠矢の的でも60mの距離で、それでもなかなか当たりません。数百m先の飛ぶ鳥を射るなど神技としか思えません。歴史にはいろいろなロマンが含まれていますね。
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