2014年2月22日土曜日

折田宮司のキリスト教布教活動監視(3) 「折田年秀日記」(『セルポート』2014.2.1号)


神戸今昔物語(通産第466号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(9)

折田宮司の切支丹布教活動監視報告(3)

 
◆「洋教捜索之次第」  明治7年1月24日、折田年秀が、外国人宣教師による神戸におけるキリスト教布教活動を教部省に報告した。折田はこのとき政府から教導職に任命されていた。

「兵庫神戸洋教方法捜索之次第左に申上候」で始まる報告の宛名は、教部大輔宍戸○、教部小輔黒田清綱である。

折田は、まず、外国人宣教師とその助手の名を挙げた。

「一、神戸中宮八番 米国人名グリン 歳三十五・六歳
  一、右同     右同人妻メべス 歳二十八歳
  一、神戸八番   米国人デべ-ス 歳四十歳
    右医者本職ニテ洋教主張
  一、右洋婦下婢  名阿松 東京ノ産」

(「明治初期神戸殿堂と三田藩士」(水軍九鬼氏と三田・神戸の歴史)ネット版、以下同)

続いて、折田は教室の様子を報告した。

説講は、午前8時から12時まで、38人で満席となる教室で行われ、参加者の3分の2は中国人か西洋人の女性であり、西洋人に雇われた召使もいた。

「神戸中宮八番、並、神戸八番、グリーン・メベス、或ハ、デベース共二説講ノ席ハ、午前八時ヨリ始り、十ニ時終ル。聴徒、旧十ニ月七日ヨリ、爾後日曜日に、男女三八人ヲ以テ満席、内三分二分二ハ支那人、又ハ、洋婦人、其一分ハ、洋人召使」(読みやすくするため、句読点を追加した)。

◆熱心な4人の日本人  さらに、折田は、「土地、ニテ特に抽ツルモノ」として、旧三田藩主夫妻、前田泰一、福原の妓楼の娘おつるが、毎回出席したと報告した。

「一、三田旧知事
     右ハ、毎二、七歳位ノ童女ヲ、洋粧二仕立、相携講席、毎二○ク事無シ、極メテ勉強
  一、同人婦人 歳二十六歳、極メテ美婦人
     右、旧知事卜、同ク洋粧(洋婦ノ粧ヲ著)説講聴聞、又怠ラス
  一、前田泰一 福沢諭吉門生、当時生田村定住
     右之者、教師グリン、並ニ、デべ-スニ雇レ、洋教書籍売却ノ周旋ヲ致シ居候事
  一、兵庫福原妓店色葉楼娘阿鶴 歳十八歳 右講席毎二怠ラス、又、洋文字語学伝習、但シ、下

婢壱人随従」

「三田藩旧知事」は、三田藩第13代藩主で最後の藩主九鬼隆義(1837~1891)である。九鬼は、維新当時から福沢諭吉と親交があり、諭吉から藩政改革の指導を受けて藩内に西洋主義を奨励し、夫妻自らキリスト教を信仰し、家臣をキリスト教徒に導いた開明的な藩主であった。

◆臭気と下手な日本語  「旧十二月七日爾後、右ノ外、皇国人ニテ、ニ席連続スル聴徒無之、但シ、室中臭気甚シク、且、教師男女共、国音未熟故二、語解シ兼、聴徒一二席ニテ退敗ノ勢」。

 12月7日以後は、上記の熱心な4人以外に、日本人で連続して出席している者はいなかった。室内が臭気に満ちていたことと、外国人宣教師の日本語の発音が聞き取りにくいためであったと折田は結んでいる。

(資料収集で神戸市中央図書館谷岡史絵さんにお世話になった。お礼申し上げる。)

 


 

2014年1月29日水曜日

折田宮司のキリスト教布教活動監視(2) 「折田年秀日記」(『セルポート』2014.1.21号)


『セルポート」2014.1.21号

神戸今昔物語(通産第464号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(7)

 

折田宮司の切支丹布教活動監視報告

 

◆『洋教捜索之次第』  明治7年1月、湊川神社折田年秀宮司は、外国人宣教師のキリスト教布教活動の実態を、教部省に報告した。神戸市教育委員会『神戸の史跡』から引用しよう。

「明治六年二月政府がキリシタン禁教の高札を除去し、布教を黙認することに決めたので、アメリカ人宣教師グリーンやデヴィスらは元町五丁目に一軒の家を借り、表をキリスト教関係の本屋とし、裏を講義所とした。当初はまだキリスト教の文字をはばかり「真理の話」と大書した赤提灯をぶら下げていたという。旧三田藩主九鬼隆義は夫人子供を連れて、日曜ごとに馬車でその講義に出席した。婦人は極めて美人でしかも洋装であったから、市人の目をひいた。聴衆は次第に増えて数十人に達したので、湊川神社宮司折田年秀はこれを憂い、兵庫の商人の妻を密偵としてその講義に参加させ、『洋教捜索之次第』を明治七年一月に教部省に報告した」

◆教導職  折田はなぜキリスト教布教活動を監視していたのか。このとき、折田が教部省から「教導職」の「権小教正」に任命されていたからである。
 教導職とは、「大教宣布」を推進するための職名である。大教宣布とは「神道による国民思想の統一、国家意識の高揚を図った政策」(『日本近現代史小辞典』角川書店)である。
 明治5年、政府は神祇省を廃止し教部省を設置した。それまで神祇省の所管であった大教宣布に関する業務は教部省が承継した。教部省は新たに教導職を設置して、神官と僧侶を任命した。教導職の階級を「大教正、中教正、小教正、大講義、中講義、小講義、訓導」とし、それぞれ「正・権」を置いた。
 4月28日、政府は「教則三条」を発布し「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉載」を布教の綱領とした。東京に大教院、各府県に中教院と小教院をおき、神官と僧侶に「修学と教導」に従事させた。

◆折田宮司への発令  明治7年1月13日、折田は教導職「権小教正」の発令を受けた。1月19日の「日記」に折田は辞令の内容を書き残している。

「一、西風別而烈敷、(略) 
 一、当日ハ御忌日ニテ、神前相仕舞候処、県庁ヨリ式部寮幷ニ教部省ヨリ之御用状来着  
   す、
   湊川神社折田年秀  
     補権小教正
       明治七年一月十三日
           太政官
        権小教正 折田年秀
         兼任湊川神社宮司
         明治七年一月十三日 教部大丞三島通庸奉


右之通 宣下、遥命辞令来着、即刻披露、御請書面式部寮坊城式部頭江差立、教部省ニハ大小(少)輔江差立立(ママ)候事、(略)

一、御国許江モ宣下之形申被越候書面仕立、且ツ寧静丸ヨリ荷物仕送之件申遺候、

一、午後三時、車ニテ小教院江出頭、戸長生駒治左衛門江教導職の件申渡置候、

一、御社内、幷ニ官員ヨリ、祝酒幷ニ肴到来ス、

一、今夕、私宅ニテ祝酒、幷ニ合議所説教後ニ、官員江祝酒差出候事、」
1月26日、折田は、兵庫県令神田孝平に教部省への報告内容を説明し、「早朝県令ヲ見舞、洋教一見引合」と日記に書いた。

2014年1月1日水曜日

折田宮司のキリスト教布教活動監視  「折田年秀日記」(『セルポート』2014.1.1号)


岩倉具視の湊川神社参詣(3)~折田宮司のリスト教布教活動監視~

◆「折田年秀日記」  湊川神社初代宮司の折田年秀は、明治6年(就任)から30年(逝去)までの克明な日記を残している。外国人居留地の返還は明治32年であるので、折田の在任期間は、居留地時代とほぼ重なっている。折田日記は、居留地時代の神戸を湊川神社という定点から観測したきわめて貴重な記録なのである。

◆「僧侶会議」「米国教師婦人ノ募勧」  岩倉具視が湊川神社に参詣した明治9年9月10日、折田は日記に「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参参拝之由也」と書いている。

「僧侶会議」と「婦人の募勤」とは何か。僧侶会議は、神官と僧侶等で構成する「教導職」によるキリスト教排斥のための会議であり、米国教師婦人ノ募勧とは、米国人女性宣教師の布教活動である。

◆明治政府の宗教政策   慶応4年3月15日(1868.4.7)、成立間もない政府は「五傍の掲示」で、キリスト教布教禁止を太政官名で布告した。明治元~2年にかけて、長崎浦上で起きた大規模なキリシタン弾圧を、各国公使は政府に対して強く抗議した。

使節団を率いて欧米諸国を歴訪した岩倉具視は、米国グラント大統領、英国ビクトリア女王等から、政府の宗教政策を厳しく批判された。使節団は、不平等条約改正の最大の障害のひとつがキリスト教布教禁止政策であると政府に打電した。

明治6年2月24日、政府は、「切支丹禁制の高札」を撤去し、布教活動を黙認することとした。このときベルギーにいた使節団には、まだ、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スエーデン、イタリア、オーストリア、フランスへの訪問を控えていた。

明治維新に際して、政府は、神道による国民思想の統一と国家意識の高揚を図る政策(「大教宣布」)をとり、神祇省を設置して「宣教師」(官職)を設け、国民教化、民心統一、仏教・キリスト教の排斥を推進させた。

明治5年3月14日、神祇省の廃止に伴い宣教師も廃止され、新たに教部省が設置され、神官だけでなく僧侶等も「教導職」(官職)となり、国民教化政策を推進することとなった。

5月、中央に「大教院」が設置され、府県単位の「中教院」が管内の「小教院」を統括することとなった。8月、神社が小教院となり、すべての神官が教導職を兼任することとなった。教導職の数は、明治7年には全国で7247人に達した(朝倉治彦『明治官制辞典』)。

◆神戸における布教活動   外国人居留地がある開港場・神戸では、外国人宣教師が熱心な布教活動を行っていた。元三田藩主の九鬼隆義は、キリスト教に堂々と改宗し、夫人、子供を連れて日曜ごとに馬車でキリスト教の講義所に通っていた。参加者は日ごとに増えていった。

明治7年1月、教導職の湊川神社折田宮司は、「洋教捜索之次第」を教部省に報告した。
 
 
            創建直後の湊川神社
 
 

2013年12月24日火曜日

岩倉具視の湊川神社参詣(2)岩倉は神戸でどの旅館に泊ったのか(『セルポート』2013.12.21号、連載通算463号)


神戸今昔物語(通産第463号)湊川神社物語(第2部)
                  「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(6)

岩倉具視の湊川神社参詣(2)

◆折田日記(明治6年9月10日)  「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参参拝之由也」

◆久しぶりの祖国  明治6年9月10日、岩倉具視は、「岩倉使節団」の団長として米欧への出張の帰途、神戸に立寄り湊川神社を参拝した。

思えば、長い旅であった。明治4年11月12日(1871.12.23)に横浜を発った岩倉は、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スエーデン、イタリア、オーストリア、スイスを歴訪し、各国首脳と会見した。明治6年7月20日、岩倉はマルセイユでフランス船「アウア」号に乗船し、ナポリ、ポートサイド、スエズ運河、アデン、セイロン島、マラッカ海峡、シンガポール、サイゴン、香港を経て、9月2日上海に到着し、上陸してホテルに宿泊した。

9月4日夜、上海でアメリカ船ゴルテンエン号に乗船した岩倉は、9月6日、長崎に到着した。横浜を出航してから1年8か月余が経過していた。久しぶりの祖国である。

長崎の港を取り巻く島々の緑が岩倉を感動させた。「港口大小の島嶼、ミナ秀麗ナル山ニテナリ、遠近の峰峰、ミナ秀抜ナリ、船走レハ、島嶼ハ流ルヽ如ク、転瞬ノ間ニ種々ノ変化ヲナス」(『米欧回覧実記』)。  

長崎で上陸した岩倉は、まず「行在所」で休憩した。行在所は天皇が立ち寄る施設である。岩倉だからこそ行在所を使うことができたのである。長崎の街を見物した岩倉は、夜になって船に戻った。久しぶりの日本である。料亭で美伎をはべらせ日本酒と日本料理の宴会を楽しんだことであろう。「女性に関心の薄いほうではない具視」(岩倉具忠『岩倉具視~国家と家族』)は、このとき満48歳であった。

◆瀬戸内海の美景  7日午前1時、ゴルテンエン号は長崎を出港し、早朝、唐津呼子沖を通り、午後、関門海峡を通過して周防沖で日が暮れた。

「八日 晴 午前五時ニ、船将(船長。筆者注)ヨリ世界第一ノ風景ヲ過グルヲ以ッテ、船客を呼起シミセシム、即チ芸備海峡ナリ、英、米ノ遊客十二名崎陽ヲ発シテ以来、其絶景ヲ劇賞シテ、之ヲ図ニ写シテ、終日已マス」(前掲『回覧記』)。船客は瀬戸内海の絶景を終日楽しんだ。

◆神戸の宿  「九日 晴 午後神辺ニ着シ上陸シ宿ヲ定ム」(上掲書)。神辺とは神戸のことである。岩倉が神戸で泊まった宿はどこか。『岩倉公実記』にも『回覧記』にも宿名は書かれていない。明治6年ごろの神戸にはまだまともな宿はなかった。後に神戸を代表する旅館となる西村旅館の開業は明治10年ごろである。筆者は岩倉が宿泊した宿は弁天浜の専崎弥五平邸であると考えている。岩倉は明治16年6月にも専崎邸に泊まっている。

専崎邸は、明治19年に宮内省が買い上げて明治天皇御用邸とした。宮内大臣は伊藤博文である。


 
               創建直後の湊川神社

神戸学 公開講座「国際都市神戸の系譜~神戸の150年~」(於:ミント神戸KCC)

市民対象公開講座のご案内です。
会場はミント神戸の神戸新聞文化センター(KCC)です。KCCの非会員も歓迎します。

1. テーマ:「国際都市神戸の系譜~神戸の150年~」(「KCC暮らしいきいき講座」)
 
 
 神戸は、住みたい町、訪れたい町として全国トップクラスの街です。
 人口150万人を擁する神戸は、大都市としての充実した都市機能を持ちながら、自然環境と景観(山と海)に恵まれた快適で静謐な住宅都市であり、国際色豊かな文化と美しい街並みを持つおしゃれな集客都市でもあります。神戸は「瀬戸内の貴婦人」の呼称がふさわしい魅力ある街です。神戸のこの都市魅力の原点は146年前の開港です。
 神戸開港から今日まで、神戸の近現代史をわかりやすく紹介します。
2. 講師 :楠本利夫 芦屋大学客員教授。博士(国際関係学)
3. とき : 2014.1.20(月)14:00~15:30
4. 会場 :KCC(神戸新聞文化センター)ミント神戸17階
5. 申込 :078-265-1100(KCC)
6. その他:KCCの非会員の方々も歓迎します。参加費1575円。

2. とき : 2014.1.20(月)14:00~15:30
3. 会場 :KCC(神戸新聞文化センター)ミント神戸17階
4. 申し込み:078-265-1100(KCC)
5. その他:KCC非会員も歓迎します。参加費1575円。
 


2013年12月20日金曜日

岩倉具視の湊川神社参詣(1)岩倉、米欧使節団の帰途神戸に立ち寄る(『セルポート』2013.12.11号 連載通算462号)


神戸今昔物語(通産第462号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(5)
 

 岩倉具視の湊川神社参詣(1)

◆岩倉具視参詣  明治6年9月10日、岩倉具視が湊川神社に参詣した。岩倉は、特命全権大使としての米欧出張の帰途、米国船ゴルテンエン号で9日午後神戸に到着した。岩倉は神戸に着くと下船して旅館に2日投宿し、11日午後、再び乗船して横浜へ向った。岩倉が日本を出た明治4年11月12日には、湊川神社はまだ完成していなかった。神社創建は明治5年5月25日である。

 岩倉が湊川神社に参詣したとき、宮司の折田年秀は不在であった。岩倉参詣の事前連絡がなかったのであろう。折田はこの日の日記に「当日岩倉公参拝之由也」と書いている。

「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参拝之由也」。

◆岩倉具視と湊川神社  岩倉は湊川神社創建と縁がないわけではない。岩倉は湊川神社創建に間接的に重要な役割を果たした事実は、ほとんど知られていない。

慶応4年1月10日(1868.2.4)、神戸で備前藩兵と外国軍隊の衝突事件が偶発した(「神戸事件」)。三宮神社前を西宮に向かって行進していた備前藩の隊列を外国水兵が横切ったことから小競り合いになり、英国パークス公使が沖に停泊していた英米仏の艦隊11隻に信号を送って陸戦隊を上陸させ、備前藩と交戦させた。戦闘で死者は出ていない。外国軍は日本船5隻を拿捕し、外国人居留地を占拠し東西に関門を設けて日本人の通行を制限した。

事件は、成立直後の維新政府を驚愕させた。政府は、事件処理のため勅使東久世通禧を神戸に派遣した。東久世は、神戸運上所で各国公使と会見し、王政復古の国書を手渡して外国側に政権交代を告げ、今後の外国人の安全を保証し、日本側の責任を認め、責任者瀧善三郎の処刑を約束した。

備前藩主池田茂政は部下を切腹させることに逡巡した。当時の慣行では、武士の隊列を横切る行為(供割)は極めて無礼なことであり、制止した滝には落ち度はなかったからである。岩倉は藩主に「国家のため、備前藩のため、頼みいる」との恫喝的な親書を送った。藩主はやむなく滝の処刑を決断した。

◆兵庫裁判所役人の神社創建嘆願  東久世は、事件処理後、兵庫裁判所(後の兵庫県)総督に就任した。慶応4年3月22日、兵庫裁判所役人6人が、東久世に楠木正成を祀る神社の神戸創建を、東久世を通じて維新政府に嘆願した。神戸事件処理で維新政府の外交上の危機を救った東久世からの働きかけである。公家と雄藩代表の混成部隊である維新政府は、すぐに神社創建を決定した。戊辰戦争で混乱していた政府としても、日本の支配者となった天皇の権威を象徴する装置が必要であり、天皇に尽くした楠木正成を祀る神社の創建は、渡りに船であった。

岩倉の湊川神社創建への貢献は、臣下への切腹命令を逡巡する備前藩主の背中を押すことにより、神戸事件の外交的処理への障害を取り除いたことなのである。

          「折田年秀日記」原本
 
 

2013年12月6日金曜日

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(4)「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」(『セルポート』2013.12.1)


神戸今昔物語(通産第461号)湊川神社物語(第2部)

「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(4)

 
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同

 

◆連載15年目  今年もこの日が来た。師走のことではない。『セルポート」の連載を開始した日である。毎年12月1日号は、連載経緯を説明することとしている。

平成11年12月1日号から始めたこの連載も、既に14年が経過した。連載を始めた時、神戸はまだ大震災の傷跡が残っていた。当時、現職の公務員であった筆者は、ペンネーム「寓籠駆」(グローカル)で連載を始めた。筆者の意見が役所の公式見解と誤解されることを懸念したからである。本名で連載することとしたのは、役所を定年退職したときからである。

◆「移住坂」  最初の連載タイトルは「移住坂」である。筆者たちが平成11年7月から開始した市民運動「神戸海外移住者顕彰事業」を宣伝するためである。

海外移住者は日本人の世界展開のパイオニアである。けれども、かつての日本を代表する海外移住基地神戸で、移住者に偏見を持つ人が少なくなかった。「移民は暗い。暗い話は神戸のイメージに合わない」「現地で苦しんだ移民は、政府にだまされたと思い祖国を恨んでいる」「アイルランドには記念碑はないのは、移民が祖国を思い出したくない証拠だ」「家族は身内に移民がいることを話したがらない」「いまさら寝た子を起こすな」等である。

四面楚歌、徒手空拳で始めた市民運動を、『セルポート」の岸田芳彦社長が広報面で全面的に協力して下さった。

運動はブラジルを中心とする海外日系人の共感を呼んだ。世界中からの募金2,650万円を原資として、メリケンパークに「移民船乗船記念碑」を建立し、除幕式を平成13年4月28日午後5時55分に行った。明治41年のこの日この時刻に第1回ブラジル移民船笠戸丸が神戸を出港した。記念碑像は、彫刻家菊川晋久氏の作品である。

旧「国立移民収容所」は、平成15年に「市立海外移住と文化の交流センター」に生まれ変わった。昭和3年開業以来、多くの移住者を世界に送り出した山手のこの施設から、浜手の移住者記念碑までの急な坂道は「移住坂」と名付けた。

運動を支援して下さった笹山幸俊元神戸市長、佐藤国汽船佐藤国吉会長は、鬼籍に入られた。

◆「居留地百話」「神戸今昔物語」  「移住坂」連載は1年で終了し、平成13年1月から「居留地百話」、平成16年1月から「神戸今昔物語」の連載を続けている。連載で、移住者への偏見を払拭することができたこと、弁天浜明治天皇御用邸の全容を紹介できたことが印象に残っている。折田日記の連載では、開港場神戸における湊川神社の意義と役割を新たな視点から紹介していきたいと考えている。

連載にあたり多くの方々にお世話になった。神戸市立中央図書館、神戸市文書館の皆様はいつも快く資料を提供して下さった。『セルポート」岸田社長と、編集担当の浜田善輝様のご協力に感謝している。お世話になった皆様に心からお礼を申し上げる。

       海外日系人大会で運動を報告する筆者(平成12年)