岩倉具視の湊川神社参詣(3)~折田宮司のリスト教布教活動監視~
◆「折田年秀日記」 湊川神社初代宮司の折田年秀は、明治6年(就任)から30年(逝去)までの克明な日記を残している。外国人居留地の返還は明治32年であるので、折田の在任期間は、居留地時代とほぼ重なっている。折田日記は、居留地時代の神戸を湊川神社という定点から観測したきわめて貴重な記録なのである。
◆「僧侶会議」「米国教師婦人ノ募勧」 岩倉具視が湊川神社に参詣した明治9年9月10日、折田は日記に「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参参拝之由也」と書いている。
「僧侶会議」と「婦人の募勤」とは何か。僧侶会議は、神官と僧侶等で構成する「教導職」によるキリスト教排斥のための会議であり、米国教師婦人ノ募勧とは、米国人女性宣教師の布教活動である。
◆明治政府の宗教政策 慶応4年3月15日(1868.4.7)、成立間もない政府は「五傍の掲示」で、キリスト教布教禁止を太政官名で布告した。明治元~2年にかけて、長崎浦上で起きた大規模なキリシタン弾圧を、各国公使は政府に対して強く抗議した。
使節団を率いて欧米諸国を歴訪した岩倉具視は、米国グラント大統領、英国ビクトリア女王等から、政府の宗教政策を厳しく批判された。使節団は、不平等条約改正の最大の障害のひとつがキリスト教布教禁止政策であると政府に打電した。
明治6年2月24日、政府は、「切支丹禁制の高札」を撤去し、布教活動を黙認することとした。このときベルギーにいた使節団には、まだ、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スエーデン、イタリア、オーストリア、フランスへの訪問を控えていた。
明治維新に際して、政府は、神道による国民思想の統一と国家意識の高揚を図る政策(「大教宣布」)をとり、神祇省を設置して「宣教師」(官職)を設け、国民教化、民心統一、仏教・キリスト教の排斥を推進させた。
明治5年3月14日、神祇省の廃止に伴い宣教師も廃止され、新たに教部省が設置され、神官だけでなく僧侶等も「教導職」(官職)となり、国民教化政策を推進することとなった。
5月、中央に「大教院」が設置され、府県単位の「中教院」が管内の「小教院」を統括することとなった。8月、神社が小教院となり、すべての神官が教導職を兼任することとなった。教導職の数は、明治7年には全国で7247人に達した(朝倉治彦『明治官制辞典』)。
◆神戸における布教活動 外国人居留地がある開港場・神戸では、外国人宣教師が熱心な布教活動を行っていた。元三田藩主の九鬼隆義は、キリスト教に堂々と改宗し、夫人、子供を連れて日曜ごとに馬車でキリスト教の講義所に通っていた。参加者は日ごとに増えていった。
明治7年1月、教導職の湊川神社折田宮司は、「洋教捜索之次第」を教部省に報告した。
創建直後の湊川神社
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