神戸今昔物語(通産第466号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(9)
折田宮司の切支丹布教活動監視報告(3)
◆「洋教捜索之次第」 明治7年1月24日、折田年秀が、外国人宣教師による神戸におけるキリスト教布教活動を教部省に報告した。折田はこのとき政府から教導職に任命されていた。
「兵庫神戸洋教方法捜索之次第左に申上候」で始まる報告の宛名は、教部大輔宍戸○、教部小輔黒田清綱である。
折田は、まず、外国人宣教師とその助手の名を挙げた。
「一、神戸中宮八番 米国人名グリン 歳三十五・六歳
一、右同 右同人妻メべス 歳二十八歳
一、神戸八番 米国人デべ-ス 歳四十歳
右医者本職ニテ洋教主張
一、右洋婦下婢 名阿松 東京ノ産」
一、右同 右同人妻メべス 歳二十八歳
一、神戸八番 米国人デべ-ス 歳四十歳
右医者本職ニテ洋教主張
一、右洋婦下婢 名阿松 東京ノ産」
(「明治初期神戸殿堂と三田藩士」(水軍九鬼氏と三田・神戸の歴史)ネット版、以下同)
続いて、折田は教室の様子を報告した。
説講は、午前8時から12時まで、38人で満席となる教室で行われ、参加者の3分の2は中国人か西洋人の女性であり、西洋人に雇われた召使もいた。
「神戸中宮八番、並、神戸八番、グリーン・メベス、或ハ、デベース共二説講ノ席ハ、午前八時ヨリ始り、十ニ時終ル。聴徒、旧十ニ月七日ヨリ、爾後日曜日に、男女三八人ヲ以テ満席、内三分二分二ハ支那人、又ハ、洋婦人、其一分ハ、洋人召使」(読みやすくするため、句読点を追加した)。
◆熱心な4人の日本人 さらに、折田は、「土地、ニテ特に抽ツルモノ」として、旧三田藩主夫妻、前田泰一、福原の妓楼の娘おつるが、毎回出席したと報告した。
「一、三田旧知事
右ハ、毎二、七歳位ノ童女ヲ、洋粧二仕立、相携講席、毎二○ク事無シ、極メテ勉強
一、同人婦人 歳二十六歳、極メテ美婦人
右、旧知事卜、同ク洋粧(洋婦ノ粧ヲ著)説講聴聞、又怠ラス
一、前田泰一 福沢諭吉門生、当時生田村定住
右之者、教師グリン、並ニ、デべ-スニ雇レ、洋教書籍売却ノ周旋ヲ致シ居候事
一、兵庫福原妓店色葉楼娘阿鶴 歳十八歳 右講席毎二怠ラス、又、洋文字語学伝習、但シ、下
右ハ、毎二、七歳位ノ童女ヲ、洋粧二仕立、相携講席、毎二○ク事無シ、極メテ勉強
一、同人婦人 歳二十六歳、極メテ美婦人
右、旧知事卜、同ク洋粧(洋婦ノ粧ヲ著)説講聴聞、又怠ラス
一、前田泰一 福沢諭吉門生、当時生田村定住
右之者、教師グリン、並ニ、デべ-スニ雇レ、洋教書籍売却ノ周旋ヲ致シ居候事
一、兵庫福原妓店色葉楼娘阿鶴 歳十八歳 右講席毎二怠ラス、又、洋文字語学伝習、但シ、下
婢壱人随従」
「三田藩旧知事」は、三田藩第13代藩主で最後の藩主九鬼隆義(1837~1891)である。九鬼は、維新当時から福沢諭吉と親交があり、諭吉から藩政改革の指導を受けて藩内に西洋主義を奨励し、夫妻自らキリスト教を信仰し、家臣をキリスト教徒に導いた開明的な藩主であった。
◆臭気と下手な日本語 「旧十二月七日爾後、右ノ外、皇国人ニテ、ニ席連続スル聴徒無之、但シ、室中臭気甚シク、且、教師男女共、国音未熟故二、語解シ兼、聴徒一二席ニテ退敗ノ勢」。
12月7日以後は、上記の熱心な4人以外に、日本人で連続して出席している者はいなかった。室内が臭気に満ちていたことと、外国人宣教師の日本語の発音が聞き取りにくいためであったと折田は結んでいる。
(資料収集で神戸市中央図書館谷岡史絵さんにお世話になった。お礼申し上げる。)
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