神戸今昔物語(通産第462号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(5)
岩倉具視の湊川神社参詣(1)
◆岩倉具視参詣 明治6年9月10日、岩倉具視が湊川神社に参詣した。岩倉は、特命全権大使としての米欧出張の帰途、米国船ゴルテンエン号で9日午後神戸に到着した。岩倉は神戸に着くと下船して旅館に2日投宿し、11日午後、再び乗船して横浜へ向った。岩倉が日本を出た明治4年11月12日には、湊川神社はまだ完成していなかった。神社創建は明治5年5月25日である。
岩倉が湊川神社に参詣したとき、宮司の折田年秀は不在であった。岩倉参詣の事前連絡がなかったのであろう。折田はこの日の日記に「当日岩倉公参拝之由也」と書いている。
「一、当朝、諸寺の僧侶会議致し、是ヨリ返る。一、昼十二時発して、西之宮にて昼飯、晩五時帰社。一、(略)、野村ヨリ書面、鏡之返詞、且米国教師婦人募勧ノ云々申参る。一、当日岩倉公参拝之由也」。
◆岩倉具視と湊川神社 岩倉は湊川神社創建と縁がないわけではない。岩倉は湊川神社創建に間接的に重要な役割を果たした事実は、ほとんど知られていない。
慶応4年1月10日(1868.2.4)、神戸で備前藩兵と外国軍隊の衝突事件が偶発した(「神戸事件」)。三宮神社前を西宮に向かって行進していた備前藩の隊列を外国水兵が横切ったことから小競り合いになり、英国パークス公使が沖に停泊していた英米仏の艦隊11隻に信号を送って陸戦隊を上陸させ、備前藩と交戦させた。戦闘で死者は出ていない。外国軍は日本船5隻を拿捕し、外国人居留地を占拠し東西に関門を設けて日本人の通行を制限した。
事件は、成立直後の維新政府を驚愕させた。政府は、事件処理のため勅使東久世通禧を神戸に派遣した。東久世は、神戸運上所で各国公使と会見し、王政復古の国書を手渡して外国側に政権交代を告げ、今後の外国人の安全を保証し、日本側の責任を認め、責任者瀧善三郎の処刑を約束した。
備前藩主池田茂政は部下を切腹させることに逡巡した。当時の慣行では、武士の隊列を横切る行為(供割)は極めて無礼なことであり、制止した滝には落ち度はなかったからである。岩倉は藩主に「国家のため、備前藩のため、頼みいる」との恫喝的な親書を送った。藩主はやむなく滝の処刑を決断した。
◆兵庫裁判所役人の神社創建嘆願 東久世は、事件処理後、兵庫裁判所(後の兵庫県)総督に就任した。慶応4年3月22日、兵庫裁判所役人6人が、東久世に楠木正成を祀る神社の神戸創建を、東久世を通じて維新政府に嘆願した。神戸事件処理で維新政府の外交上の危機を救った東久世からの働きかけである。公家と雄藩代表の混成部隊である維新政府は、すぐに神社創建を決定した。戊辰戦争で混乱していた政府としても、日本の支配者となった天皇の権威を象徴する装置が必要であり、天皇に尽くした楠木正成を祀る神社の創建は、渡りに船であった。
岩倉の湊川神社創建への貢献は、臣下への切腹命令を逡巡する備前藩主の背中を押すことにより、神戸事件の外交的処理への障害を取り除いたことなのである。
「折田年秀日記」原本
「折田年秀日記」原本
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