2013年7月16日火曜日

改正条約施行 内地雑居の暁 外国人遊歩規定 神戸又新日報


『セルポート』2013年7月11日号(連載通算第448号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(12) 「羨ましいアリ舛」

◆「羨ましいアリ舛」  カットでは、辮髪の中国人男性が「羨ましいアリ舛」とつぶやいている。彼の足元には「遊歩期定外」の線が引かれている。「遊歩期定外」は「遊歩規定外」の間違いである。「外国人遊歩規定」は、外国人を居留地から半径10里以内の「遊歩区域」内に閉じ込めておくためのものであり、外国人が区域外に出るときは、当局の許可が必要であった。

条約で外国人は開港場・開市場の「居留地」に住むことが義務付けられていた。神戸は、開港勅許が遅れたため、開港日になっても居留地は造成中であった。政府は、外国側の要請を受け、外国人が日本人と混住できる区域として「雑居地」を認めた。居留地を取り囲んで雑居地があり、雑居地の外側に遊歩区域があった。

◆「遊歩規定」  日米修好通商条約第7条で、「日本開港の場所に於て亜米利加人遊歩の規定」として、開港場ごとに、遊歩区域が指定されていた。「神奈川」の遊歩区域は「六郷川筋を限として其他は各方へ十里」であり、「箱館」は「各方へ十里」であった。「兵庫」の遊歩区域は、京都へ距る事十里の地へは、亜米利加人立入さる筈に付き、其方角を除き各方へ十里、兵庫に来る船々の乗組員は、猪名川より海辺迄の川筋を、超ゆへからす(以下略、句読点筆者)」であった。

ちなみに、生麦事件の舞台となった生麦村(現・横浜市鶴見区)は、横浜居留地の遊歩区域内にあった。乗馬の遠乗りを楽しんでいた横浜居留地の外国人が、島津久光の行列と遭遇して、あの事件となったのである。

◆「居留地外に於ける外国人の演説」(「神戸又新日報」明治22年4月9日号)  「先頃、米国宣教師が、新潟県下長岡に於て、宗教演説を為さんとしたるに、同地の警察官は、外国人の居留地外に在りて演説するは、規則の許さヾる所なりとて、之を差止めたるより、外国人中には彼此(かれこれ)苦情を鳴らし、中には其の禁を解かれたき旨、其筋へ建言したる者もありやに聞き居たるが、富山県知事は此事に関し、外国人たるものは、仮令宗教上の事たりとも、居留地外に於て公衆を集め演説を為すと相成らざる儀と存じ居れど、本邦人にして、宗教拡張の為め公衆を集め、一場の法話講談等を為す場合に際し、一時外国人を招待し、一場の講談法話等を為さしむるが如き事も、亦、相成らざる儀にやと、其筋へ伺いしに、外国人たりとも宗教上に関し臨時一場の講談を為すは、差許し苦しからずとの指令ありたるよし」。

 新潟県長岡村で、布教活動をしている外国人を警察官が見つけて注意したところ、外国側は逆にそれに対して反論した。新潟県知事は、日本人が宗教的布教のため「法話講和」をするときに、「一時的」に外国人も招き一緒に布教させてもいいのではないか、と政府にお伺いを立てた。政府は、弾力的扱いをしても差支えない、と回答した。

井上薫の条約改正会議がとん挫し、大隈重信外務大臣が、最高裁に外国人判事を入れることと引き換えに不平等条約撤廃を各国と協議していた時代である。

 
 

2013年7月5日金曜日

改正条約施行 内地雑居の暁 転宅の流行 神戸又新日報


『セルポート』2013年7月1日号(連載通算第447号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(11) 「転宅の流行」

◆「転宅の流行」 カットは、自宅に「かし家」の張り紙をして、家財一式を運び出すところである。家賃は「一カ月百円」とある。明治30年の巡査初任給は9円であるので、家賃はその約11倍となる。借主は外国人であろう。そういえば、開港直後の神戸でも、住民が、外国人に土地、家屋を法外な値段で貸していたとの記録がある(『神戸市史 本編各説』)。

それにしても、なぜ転宅が流行するのか。内地雑居を新たなビジネスチャンスと見た人が、高額の家賃収入を期待できる外国人向けの貸家業を始めたのか、それとも、近隣に外国人が住むことを嫌がって逃げ出すところであろうか。

◆神戸の雑居地  開港当日になっても、居留地はまだ工事中であった。条約では、外国人は、居留地内に住むことと取り決められていた。けれども、工事中の居留地には住めない。外国側は、開港2か月後(3月3日)に、「居留地外への居住」を認めるよう兵庫県に陳情した。伊藤俊介知事は、「雑居地」を認める書簡(3月7日付)を各国領事宛に送付した。雑居地は、外国人と日本人が混住できる区域であり、生田川と宇治川、海岸と山ろくに挟まれた9村(生田、二つ茶屋、走水、生田宮、中宮、城ケ口、北野、花隈、宇治野)である。

もともと、雑居地認定は、居留地が完成するまでの暫定措置であり、居留地が完成すれば廃止される予定であった。けれども、後になって、居留地の区域拡張問題が起こったため、雑居地は廃止されることはなかった。

◆「外国人を相手取る」   「当港下山手通七丁目に住居ある小倉タケは、先年来、英国人リースと称ふるものへ、兼て所持の地所(下山手通り)を貸し輿へ居たるが、其後、件の地所の為に紛議を引き起したる末、右タケは八田勇之助と云ふものをして、リースを相手取り、当居留地の英国領事へ向け、地所取戻しの訴訟を起し居りし処、此程、同事件は既に裁決となりしを、原告小倉タケは其裁決を不当とし、復た、八田勇之助を代理として、近日、東京なる同国公使館へ復審の儀を訴へ出んか為め、本県庁へ向け、同館への復申書を乞ひ出たりと聞く」(「神戸又新日報」明治19年2月7日)。

 下山手通の住民小倉タケが、英国人に賃貸していた地所をめぐる紛争があり、タケは代理人を通じて、神戸の英国領事に訴訟を起こしていた。タケは神戸領事の裁決を不服として東京の英国公使館に上告し、兵庫県庁に復申書を申請したという記事である。

領事裁判でも、原告が初審に納得できない場合には再審の道が開かれている。現実には、再審は東京の公使館へ、さらに、外国の高等裁判所へ、最終的にはその国の最高裁へ上告することとなる。語学、経費面で、外国への上訴は事実上できない。通常は、所轄領事の初審裁決に不満があっても泣き寝入りするケースが殆どだった。
 

2013年6月24日月曜日

改正条約施行 内地雑居 「新営業の始まり ラシャメンの増加」神戸又新日報


『セルポート』2013年6月21日号(連載通算第446号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(10) 「新営業の始まり」

◆「新営業の始まり」  カットをご覧いただきたい。「ラシャメン問屋」の看板を掲げた店先に、西洋風ドレスを着た3人の女性が、正面を向いて椅子に座って並んでいる。2年後の新条約発効による「内地雑居」を新たなビジネスチャンスと見た人が、ラシャメンの卸売店を始めたのである。「ラシャメン」とは、「①面羊、②(江戸末期から明治初期に)外国人のめかけになった日本女性を言った言葉。外妾」(『新明解国語辞典』)である。

◆英国領事館の新聞広告  「神戸又新日報」(明治19年1月13日号)の広告欄で、こんな「見出し」の広告を見つけた。

「元ト大坂、近時神戸滞留、故トマス・ジョルジェス後家リエ・ジョルジェス遺産一件」(句読点、筆者)。

「去十二月一日、神戸ニテ死亡セル、リエノ所有金子、或ハ、物品ヲ持スル人々ハ、総テ、不取敢、之ヲ日本英国裁判長代理トスル神戸英国領事エ渡ス可キ者トス、又同人エ対シテノ負債ハ、直チニ当庁エ可届出   神戸居留地九番」。

「居留地九番」は、神戸英国領事館である。当時、居留地の領事館、商館等は、名称ではなく区画番号で呼ばれることが多かった。居留地9番は、現在の市立博物館の南、海岸通に面した区画である。

トマス・ジョルジェス氏の未亡人であるジョルジェス・リエさんが、去る12月1日に神戸で死亡したので、リエさん所有の現金、財産等一切を「日本における英国裁判長代理」である神戸の英国領事に引き渡し、負債も直ちに領事館に届け出よ、との内容である。

「外国領事裁判権」を認めた不平等条約時代であったので、「日本における英国裁判長」は横浜の英国領事で、神戸の英国領事は「英国裁判長代理」であった。この時の領事はジェームス・トループである。トループ領事がなぜこの広告を出したのかはわからない。双方の遺族の相続争いがあったのではないだろうか。

◆「英人日本婦人を雇いこまんとす」  明治19年1月26日付「神戸又新日報」にこんな見出しの記事を見つけた。

「近頃、英人にて、日本婦人の十八年以上二十五年以下の者数名を、何年間かの約束にて雇込んとて、巳に当神戸に来着し、目下、三ノ宮辺に寓し、頻りに周旋中のよしなるが、其雇入れの名義は、件(くだん)の婦人を本国に連れ帰りて、子守婦に充てんとするなりとの事なれ共、又一説には、其往き着く先は英国にあらで、或は香港かシンガポール辺に上陸せしめ、例の売春婦になさんとの目論見なりとの事なれば、右英人に雇入れられる婦人は、能く能く其の英人の身元人物を取調べ、条約等も随分厳密詳細に取替はすへし、併し成るべくは、其雇聘に応ぜぬことこそ、宜しかるへし」。  

最近、三ノ宮近辺で、英国人が18歳から25歳までの日本人女性に、英国で子守の仕事をさせると偽り、香港やシンガポールへ送って売春をさせているような話があるので騙されないように、との記事である。

最近、どこかで聞いたあの発言を彷彿とさせる話である。

2013年6月21日金曜日

公開講座(6月29日 土) 第1回神戸市長選挙 於:神戸山手大学

神戸山手大学 公開講座

 楠本利夫の神戸山手大学「神戸学講座~私の神戸近現代史案内~」のひとつです。
1.テーマ:「第1回神戸市長選挙~兵庫と神戸の激突~」
2.とき :2013年6月29日(土)1400~1530
3.ところ:神戸山手大学(地下鉄元町駅北8分。JR元町駅北西13分。相楽園の西)
4.受講料:1200円。
5.問合せ:神戸山手大学生涯学習センター(078-351-7170)
6.後期予定:今年秋期は次のテーマを予定しています。
   第1回(10/ 5)神戸外国人居留地~国際都市神戸の原点~
第2回(10/19)第1回神戸みなとの祭と大楠公六百年大祭
第3回(10/26)神戸3つの海上都市物語~都市発展の戦略基地・海上都市~
第4回(11/ 9)湊川神社神戸創建秘話
第5回(11/30)国際都市神戸の系譜~神戸の150年~

 










 

2013年6月12日水曜日

改正条約施行 「内地雑居」 文化と文明 ニコライ皇太子湊川神社参拝


『セルポート』2013年6月11日号(連載通算第445号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁(9) 「クリヤ礼拝せぬか」

◆内地雑居  改正条約が発効して内地雑居が実現すれば、外国人も、日本人と同様に、どこにでも居住し、どこへでも自由にも行くことができることになる。内地雑居で外国人と日本人の接触機会が増え、文化摩擦が発生することは避けられない。

カットの「クリヤ礼拝せぬか 貴君(あなた)圧政あり舛」は、神社で、神主が外国人に神社参拝の礼儀を強引に教えているところである。帽子を脱がずに、靴をはいたまま昇壇した外国人が、神主に首根っこを押さられて、神を敬い礼拝せよ、と注意され、「圧政だ」と抗議している。

幕末、横浜郊外で発生した生麦事件(1862年)も、開港直後の神戸で偶発した神戸事件(1868年)も、日本の文化、習慣についての知識がなかった外国人が、武士の隊列と遭遇した際に起こした不幸な事件である。

◆文化と文明  長い鎖国を解いた日本は、西欧の文明国に追いつこうと必死に努力した。井上薫外務卿は、日本が文明国であることを外国側に認めさせなければ、外国は不平等条約改正に応じてくれないとして、鹿鳴館外交を展開した。当時の日本人の価値観では、鹿鳴館でダンスすることには違和感がある。井上の涙ぐましい努力は、文化と文明を混同しているように思えてならない。

文化と文明の違いは何か。文化とは、民族や社会の風習、伝統、思考方法、価値観などの総称であり、世代を通じて伝承されていくものである。辞書には、「その人間集団の構成員に共通の価値観を反映した、物心両面にわたる活動の様式(の総体)」(『新明解国語辞典』)とある。

辞書では、文明についての記述は極めて長い。要約すると、文明は、野蛮から脱した「人間の技術的・物質的所産」(『広辞苑』)である。文明の対比語は野蛮・無知である。筆者は、「文化は心、文明はモノ(知識・技術・洗練)であると考えている。

◆ニコライ皇太子の湊川神社参拝  明治24年、ロシア帝国ニコライ皇太子が、湊川神社を参拝した際、同行した林董(ただす)兵庫県知事を震撼させる場面があった。

 5月9日、ロシア帝国ニコライ皇太子は大艦隊を率いて神戸に入港した。皇太子は、お召艦から小型艇に乗り、弁天浜の明治天皇御用邸の裏桟橋から御用邸に入った。

御用邸で、市民が、瓦煎餅、キリンビール等を献上した。その後、皇太子は、人力車40台を連ねて市内視察に出かけた。車列は、御用邸から宇治川沿いに北上し、東へ折れて栄町通を進み、居留地の北側を通って、生田森散策、生田神社参拝、諏訪山金星台から神戸港を展望した、湊川神社に到着した。

正門で湊川神社宮司折田年秀が皇太子を出迎えた。皇太子を奥殿に案内した宮司は、奥殿の階段を先行して昇り、壇上から振り向いて、皇太子に昇殿を促す動作をした。知事は、皇太子が土足のまま昇殿するのではないかと、一瞬肝をつぶした。

階段の下で立ったまま壇上の宮司を見上げていた皇太子は、やがて、その場で帽子を脱ぎ、姿勢を正して奥殿に向かって深々と頭を下げた。
2日後、皇太子は、大津で警備の警官にサーベルで切りつけられ、額に傷を負った。日本中を震撼させた「大津事件」である。

2013年5月21日火曜日

内地雑居の暁 「一生日陰住ひの人間」「神戸又新日報」

『セルポート』2013年5月21日号(連載通算第443号)「神戸今昔物語」
                   内地雑居の暁(7) 「一生日陰住ひの人間」

◆神戸「雑居地」  神戸開港当日、外国人居留地はまだ工事中であった。条約勅許が遅れたため、着工できなかったからである。条約では、外国人は居留地内に住むことが義務付けられていた。
 工事中の居留地には住むことができない。慶応4年3月3日、外国人は、居留地外への居住を認めてほしい、と兵庫県に陳情した。維新政府はそれを認め、伊藤俊介知事名の書簡(3月7日付)で、各国領事宛に通知した。雑居地は、生田川、宇治川、海岸、山麓に挟まれた区域のうち、外国人居留地を除く部分である。神戸では、明治32年の改正条約施行を待つまでもなく、開港直後から外国人との「雑居」が認められていたのである。

◆「一生日陰住ひの人間」 明治30年、「神戸又新日報」は、内地雑居への住民の懸念を風刺画で連載した。カットの「一生日陰住ひの人間」は、「内地雑居」で自宅の両隣に外国人が高い建物を建てたため、自分の家が一日中日陰になっている人である。当時、住民は、自宅の隣に、居留地の商館、教会、ホテルのような高い建物が建つことを心配していたのである。

◆「外人一大旅館を建設せんとす」 「当港居留地英十四番館リテル氏は、二三の同国人と謀り、今度、当港雑居地区域内に一大旅館を建設する由にて、諏訪山山麓なる九鬼隆義氏の所有地に千坪を借入たりといへり」(「神戸又新日報」明治22年6月15日)。
 英国人が諏訪山山麓に大ホテルを建設するというのである。
 居留地14番は、現在の市立博物館の南西端部分の区画であり、リテル氏とは、リネル商会(H.E.Rynel & co.)代表のリネル氏であろう。リネル商会は、明治38年には「洋酒、毛織物、鉄類他輸入代理業」(『神戸港』)を扱っていた。リネル氏はポルトガルの名誉領事をしていたこともある(『日本絵入商人録』)。

◆トアホテル  記事中の「一大旅館」が実現したかどうかは確認できていない。諏訪山山麓のホテルといえばトアホテルを思い浮かべる。トアホテルは、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランスの共同出資で設立された。
 明治41年7月18日の開業式典で、英国領事H.ボナーが挨拶をした。4か国共同出資のホテルの開業式の挨拶を英国領事が代表してした理由は、英国人の出資比率が高かったためである(弓倉恒男『トアホテル物語』)。
 当日付のジャパンクロニクル紙は、「神戸の最新ホテル」の見出しで、「トアホテルは、神戸の山手、高く聳え立ち、屋根と塔屋の赤い瓦が直ぐ後ろの松の緑と効果的なコントラストをなして、数マイル四方、特に海から際立って目につくランドマークである。(略)ほんの1年半前には、この敷地に、個人の大邸宅が建っていた(略)。スエズの東此の方、最高級のホテルにランクされる美しい建物が建てられた」(上掲書)と絶賛している。トアホテルは、戦災は免れたが、昭和25年4月22日、失火により焼失した。

2013年5月10日金曜日

論文 楠本利夫 「湊川神社神戸創建の系譜~楠木正成を祀る神社はなぜ神戸に創建されたか~」


こんな論文を発表しました。
 
 「湊川神社神戸創建の系譜~楠木正成を祀る神社はなぜ神戸に創建されたか~」を発表しました。
 掲載誌『神戸外国人居留地研究会年報・居留地の窓から』(第8号、2013.4.20)は、神戸市内図書館、神戸市文書館でご覧いただけます。また、市内主要書店でもお求めいただけます。

 (要旨)
1. 楠木正成を主祭神とする湊川神社は、明治5年、神戸に創建された。神戸市民は湊川神社を「なんこうさん」と親しく呼び、誇りに思っている。
2. 実は、朝廷は、維新直前に、「正成を祀る神社の京都創建」を内定していた。慶応3年11月11日(1867年12月6日)、尾張藩第14代藩主徳川慶勝(藩主徳川義宣の父)が「正成を祀る神社の京都創建」を朝廷に請願し、朝廷はそれを承認し、慶勝に通知していた。 
3. その直後、「王政復古の大号令」が出され、それに続く政権交代の大混乱で、政府、朝廷は、内戦への対応で手いっぱいであり、神社創建案件はそのままになっていた。
4. 「王政復古の大号令」の約3か月後、兵庫裁判所(兵庫県の前身)役人が東久世通禧を通じて朝廷に嘆願した神社の「神戸創建」が認められた。
5. これに先立ち、東久世は、神戸で偶発した備前藩兵と外国軍隊の衝突事件(「神戸事件」)を、勅使として6か国公使と協議し処理した。東久世は、新政府の「外交上の危機」を救うという大手柄を立てた。事件処理後、兵庫裁判所総督に就任した東久世は、部下の役人たちの嘆願を、政府、朝廷に認めさせた。
6. もし、神戸事件が偶発していなければ、湊川神社は京都に創建されていた可能性が極めて高い。