内地雑居の暁(7) 「一生日陰住ひの人間」
◆神戸「雑居地」 神戸開港当日、外国人居留地はまだ工事中であった。条約勅許が遅れたため、着工できなかったからである。条約では、外国人は居留地内に住むことが義務付けられていた。
工事中の居留地には住むことができない。慶応4年3月3日、外国人は、居留地外への居住を認めてほしい、と兵庫県に陳情した。維新政府はそれを認め、伊藤俊介知事名の書簡(3月7日付)で、各国領事宛に通知した。雑居地は、生田川、宇治川、海岸、山麓に挟まれた区域のうち、外国人居留地を除く部分である。神戸では、明治32年の改正条約施行を待つまでもなく、開港直後から外国人との「雑居」が認められていたのである。
◆「一生日陰住ひの人間」 明治30年、「神戸又新日報」は、内地雑居への住民の懸念を風刺画で連載した。カットの「一生日陰住ひの人間」は、「内地雑居」で自宅の両隣に外国人が高い建物を建てたため、自分の家が一日中日陰になっている人である。当時、住民は、自宅の隣に、居留地の商館、教会、ホテルのような高い建物が建つことを心配していたのである。
◆「外人一大旅館を建設せんとす」 「当港居留地英十四番館リテル氏は、二三の同国人と謀り、今度、当港雑居地区域内に一大旅館を建設する由にて、諏訪山山麓なる九鬼隆義氏の所有地に千坪を借入たりといへり」(「神戸又新日報」明治22年6月15日)。
英国人が諏訪山山麓に大ホテルを建設するというのである。居留地14番は、現在の市立博物館の南西端部分の区画であり、リテル氏とは、リネル商会(H.E.Rynel & co.)代表のリネル氏であろう。リネル商会は、明治38年には「洋酒、毛織物、鉄類他輸入代理業」(『神戸港』)を扱っていた。リネル氏はポルトガルの名誉領事をしていたこともある(『日本絵入商人録』)。
◆トアホテル 記事中の「一大旅館」が実現したかどうかは確認できていない。諏訪山山麓のホテルといえばトアホテルを思い浮かべる。トアホテルは、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランスの共同出資で設立された。
明治41年7月18日の開業式典で、英国領事H.ボナーが挨拶をした。4か国共同出資のホテルの開業式の挨拶を英国領事が代表してした理由は、英国人の出資比率が高かったためである(弓倉恒男『トアホテル物語』)。当日付のジャパンクロニクル紙は、「神戸の最新ホテル」の見出しで、「トアホテルは、神戸の山手、高く聳え立ち、屋根と塔屋の赤い瓦が直ぐ後ろの松の緑と効果的なコントラストをなして、数マイル四方、特に海から際立って目につくランドマークである。(略)ほんの1年半前には、この敷地に、個人の大邸宅が建っていた(略)。スエズの東此の方、最高級のホテルにランクされる美しい建物が建てられた」(上掲書)と絶賛している。トアホテルは、戦災は免れたが、昭和25年4月22日、失火により焼失した。
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