2013年4月24日水曜日

ペケ・サランパン 警察官向け英会話本 内地雑居


『セルポート』2013年4月21日号(連載通算第441号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁 「警察官憲兵必需」英会話本

◆居留地警察組織改正  明治14年、居留地警察は体制を一新した。まず、専任の居留地警察署長職を新設し、それまで行事局長として警察を管轄してきたストックホルム出身のトロチック(H. M. Trotzig)が警察署長に就任し、その部下として、9名の兵庫県警察官が居留地警察へ出向した。うち8名は、「二等巡査」以上から抜擢された優秀な警察官であった。当時、巡査には一等から四等までの等級があり、一等巡査は分署長級であったので、二等巡査はそれに次ぐ準幹部級であった。

 署長の下に欧米人警部、日本人警部がそれぞれ1名いて、欧米人警部の下には、欧米人巡査2名、清国人巡査1名、日本人警部の下には日本人巡査8名がいた(草山巌「神戸外国人居留地をめぐる警察問題」『兵庫県警察史』)。署長以下、総勢14名体制である。

◆「警察官憲兵必需」英会話本  明治19年9月、「警察官憲兵必需」と銘打った英会話本の広告が「神戸又新日報」に掲載された。「米国博士フルベツキ先生序 警官講習所教官上村正度先生校訂、杉山重威先生編術」「洋装美本」「クロース製金文字入り」「定価八十銭」(現代漢字で表記。筆者)の豪華本である。「本書ハ、千葉・和歌山・宮崎・長崎・熊本其他各県警官カ、便用相成居候、最新至便、完全無比、当今当路者必須ノ珍書也」(句読点挿入。筆者)との説明がついている。

この年の5月から翌年7月まで、井上薫外相は、外務省に各国公使を招いて、「条約改正会議」を開催して条約改正案を正式に各国に提出している。新条約が発効すれば、国内で事件を起こした外国人を日本の警察官が日本の法律に基づき取り調べることとなり、警察官にも英語が求められることとなる。そのようなタイミングでの『警官必携 英和会話篇』の発売広告である。

 この本の序文を書いたフルベッキ(G.H.F.Verbeck)は、オランダ出身の米国の宣教師である。安政6(1859)年に長崎に来住したフルベッキは、長崎奉行の学校済美館、佐賀藩の学校到遠館で教えた。明治2年、明治政府の顧問格に迎えられた。大隈重信、副島種臣はフルベッキの教え子である。

◆ペケ・サランパン  開港直後、日本人商人と外国人貿易商は、意思疎通に苦労していた。英国外交官アーネスト・サトウは、当時の事情を次のように記録している。「口頭、文書のいずれによるもオランダ語を媒介していた」。「商用のための一種の私生児的な言葉が案出されていたのだ。中でも、マレー語の駄目(peggi ペケ)、破毀(サランパン)は大きな役を務め、それに「アナタ」と「アリマス」とを付け加えて、自分は複雑な取引をやる資格を持っていると、銘々がそう思い込んでいた」(サトウ『一外交官が見た明治維新』)。第2次大戦後、生きるため外国人と折衝する必要が生じた日本人の英語を思い出して、思わずニヤリとしてしまった。
 
             「神戸又新日報」明治19.9.26



2013年4月14日日曜日

居留地警察 内地雑居 トロチック 神戸又新日報

『セルポート』2013年4月21日号(連載通算第441号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁 「警察官憲兵必需」英和会話本

◆居留地警察組織改正  明治14年、居留地警察は体制を一新した。まず、専任の居留地警察署長職を新設し、それまで行事局長として警察を管轄してきたストックホルム出身のトロチック(H. M. Trotzig)が警察署長に就任し、その部下として、9名の兵庫県警察官が居留地警察へ出向した。うち8名は、「二等巡査」以上から抜擢された優秀な警察官であった。当時、巡査には一等から四等までの等級があり、一等巡査は分署長級であり、二等巡査はそれに次ぐ準幹部級であった。

 署長の下に欧米人警部、日本人警部がそれぞれ1名いて、欧米人警部の下には、欧米人巡査2名、清国人巡査1名、日本人警部の下には日本人巡査8名がいた(草山巌「神戸外国人居留地をめぐる警察問題」『兵庫県警察史』)。署長以下、総勢14名体制である。

◆「警察官憲兵必需」英会話本  明治19年9月、「警察官憲兵必需」と銘打った英会話本の広告が「神戸又新日報」に掲載された。「米国博士フルベツキ先生序 警官講習所教官上村正度先生校訂、杉山重威先生編術」「洋装美本」「クロース製金文字入り」「定価八十銭」(現代漢字で表記。筆者)の豪華本である。「本書ハ、千葉・和歌山・宮崎・長崎・熊本其他各県警官カ、便用相成居候、最新至便、完全無比、当今当路者必須ノ珍書也」(句読点挿入。筆者)との説明がついている。

この年の5月から翌年7月まで、井上薫外相は、外務省に各国公使を招いて、「条約改正会議」を開催して条約改正案を正式に各国に提出している。新条約が発効すれば、国内で事件を起こした外国人を日本の警察官が日本の法律に基づき取り調べることとなり、警察官にも英語が求められることとなる。そのようなタイミングでの『警官必携 英和会話篇』の発売広告である。

 この本の序文を書いたフルベッキ(G.H.F.Verbeck)は、オランダ出身の米国の宣教師である。安政6(1859)年に長崎に来住したフルベッキは、長崎奉行の学校済美館、佐賀藩の学校到遠館で教えた。明治2年、明治政府の顧問格に迎えられた。大隈重信、副島種臣はフルベッキの教え子である。

◆ペケ・サランパン  開港直後、日本人商人と外国人貿易商は、意思疎通に苦労していた。英国外交官アーネスト・サトウは、当時の事情を次のように記録している。「口頭、文書のいずれによるもオランダ語を媒介していた」。「商用のための一種の私生児的な言葉が案出されていたのだ。中でも、マレー語の駄目(peggi ペケ)、破毀(サランパン)は大きな役を務め、それに「アナタ」と「アリマス」とを付け加えて、自分は複雑な取引をやる資格を持っていると、銘々がそう思い込んでいた」(サトウ『一外交官が見た明治維新』)。第2次大戦後、生きるため外国人と折衝する必要が生じた日本人の英語を思い出して、思わずニヤリとしてしまった。
 
「警官必携英会話篇」(「神戸又新日報」明治19年9月26日広告)
 



居留地返還 内地雑居 通訳の繁盛 神戸又新日報


『セルポート』2013年4月11日号(連載通算第440号)「神戸今昔物語」
                  内地雑居の暁 通訳

◆条約改正交渉  江戸幕府が安政5(1858)年以降、欧米列国と締結した通商条約は不平等条約であった。わが国に関税自主権がなく、外国領事裁判権、片務的最恵国待遇を認めていたからである。条約改正は明治政府の悲願であり、とりわけ領事裁判権の撤廃は、わが国の近代的法典編纂、裁判所制度改革と緊密に関わる最重要課題であった。

明治15年1月から7月まで、外務省で井上薫外務卿は、締約国代表と21回にわたる条約改正予備会議が開催され、日本裁判権回復交渉が行われた。

明治18年12月、内閣府が創設され、井上薫が引き続き外務大臣に就任した。

井上外相は、明治19年5月から翌年7月まで計27回、外務省に各国公使を招き、「条約改正会議」を開催し、条約改正案を正式に提出した(藤原明久『日本条約改正史の研究』雄松堂出版)。

◆「通弁人の六道の辻」 新条約が発効すれば、外国人の日本国内での居住や行動の制限が撤廃され、外国人と日本人の交流機会が増え、新たに不動産を求める外国人や、日本人向けのビジネスを展開する外国人も見込まれる。ビジネスの機会が増えれば、通訳が必要になる。通訳は引く手あまたであった。

カットは、通訳が思案している様子である。通訳の前には、県庁、市役所、警察、外国商館、日本商社、旅館の6つの道が開かれている。なんともぜいたくな職業選択の思案である。

◆オランダ語通訳  幕末、日本側の通訳は、ほとんどがオランダ語通訳であった。鎖国時代には、日本人が学ぶことができる欧米語は、オランダ語に限られていたからである。

日米通商条約の協議も「日本語∸オランダ語∸英語」の3か国語を使ってなされた。条約の原本はオランダ語である。神戸開港式の通訳をした幕府の森山与四郎は、英語、オランダ語ができる稀有な通訳であった。

英国外交官アーネスト・サトウは次のように書いている。

日本側との協議には「口頭、文書のいずれによるも、常にオランダ語を媒介としていた。これは、英語を知っている日本人がまだほとんどなく、日本語を話せる外国人も片手の指で数えるほどしかなかったからだ」(『一外交官の見た明治維新』岩波新書)。

オランダ語通訳は、サトウのような日本語通訳がうらやむような高給を得ていた。

「日本人が多少知っている唯一のヨーロッパ語はオランダ語だった関係上、外務省が領事職に職員を配置するようになった際、身分のいかんを問わず、この難解なオランダ語に精通しているところのイギリス人を雇ったのである。こうして、ついに四名の適任者を得たが、一人はまず公使館付きの通訳官に任命され、その後さらに高い地位に就いた。この男の俸給の一部は、オランダ語を通訳生に教える報酬として特別に課せられたものであったから、普通の俸給とはわけが違ったのだ」(サトウ・上掲書)。オランダ語通訳は希少価値があり優遇されていたのである。

 
 

 

2013年4月3日水曜日

居留地返還 内地雑居 神戸又新日報 「老爺の晩学倅は先生」「神戸今昔物語」



『セルポート』2013年4月1日号(連載通算第439号)「神戸今昔物語」
内地雑居の暁 「老爺の晩学 倅は先生」
◆「内地雑居未来の夢」  明治19(1886)年4月、坪内逍遥は、近未来小説「内地雑居 未来の夢」を発表した。ペンネームは「春のや主人」である。
この年5月1日、井上薫外相は外務省に各国公使を招き、「第一回条約改正会議」を開催して、正式に条約改正案を提出した。鹿鳴館外交が華やかに展開されていた。
小説は、改正条約が発効して内地雑居が実現した後の市民社会を描いたもので、苦学して海外留学した男が、日本でビジネスを興す夢を持って帰国するが、周囲が足を引っ張ろうとしたため、男の友人で作家志望と政治家志望の2人が助けようとする、という話である。
付言で、坪内は、「此物語の筋は、条約改正後の事なり。内地雑居もすでにゆるされ、国会も巳に開けたる体なり。萬般の筋すべて作者の空中楼台なり。政府のおぼしめしを推測したるにもあらず。作者の願望をうつしたるにもあらず」(旧漢字は新漢字に改めた)とし、「本書はもと純粋の小説とは異なり、能ベル(novel)といはむよりは、寧ろ亜ルレゴリイ(allegory寓意小説)ともいふべきものなり」と断っている。辞書にはAllegoryは、「(教訓的な)たとえ話」とある。「完全なる条約改正を写さむとして、わざと不十分に作りなしたるは、多少思う所あるが故なり」としている。
◆坪内逍遥が予測した内地雑居  坪内は、同書の緒言で「要するに雑居の結果は、善とも悪しとも確言し難し。其の善悪いづれなるやは、本文多少の物語に徴して、読人御勝手に判断あるべし」として、雑居の結果、世の中は良くも悪くもならないと結論付けている。
「さらに統括めていふときには、内地雑居後は社会の有様、どうやら何事もシャボン臭くなりぬ。智識の進むことは魂消げるほどにて、徳義はなかなかに追つきかね、旧弊は我を折ていでてもきたらず。警察は行届きて道に遺たる拾ふものなく、窓の硝子張はますます 流行て、夜も大方は雨戸を鎖さず。珈琲を飲過てか老幼腹鼓をうち、ジン(酒の名)に酔ひたるにや男女太平楽をならぶ。国土豊かに民静なる、内地雑居の幕あきこそ、まことに芽出たしといはざるべけんや」と、楽観的な見通しを披露している。
◆「老爺の晩学 倅は先生」  カットは、父親に子どもが何事かを教えている姿である。内地雑居が実現すれば、「隣人は外国人」となる。初めて外国人と混住することになる庶民にとり、言葉が通じない外国人は不気味な存在である。文化摩擦も心配である。長年、自分たちの流儀で生きてきた高齢者は、これから外国人とどう接すべきかを学ばなければならない。頑固親父が、威厳をすてて、環境適用への柔軟性がある子どもにこれからの生き方を教えてもらっているのであろう。孫にスマホの扱い方を教えてもらう筆者の姿と同じである。
 
「親父の晩学 倅は先生」(「神戸又新日報」明治30年2月26日)



2013年3月18日月曜日

居留地返還、内地雑居、神戸又新日報 「神戸今昔物語」


『セルポート』2013年3月21日号(連載通算第438号)「神戸今昔物語」

内地雑居の暁

◆居留地返還  「内地雑居の暁」は、明治30年2月から4か月間にわたり、「神戸又新日報」に断続的に掲載された24枚の風刺絵である。

新条約が明治32(1899)年7月17日に発効する日を2年後に控えた頃の、市民の不安と期待を皮肉ったものである。

幕府が欧米列強と結んだ「安政五か国条約」で、兵庫(神戸)、神奈川(横浜)、長崎、箱(函)館、新潟の開港と、江戸と大坂の開市が取り決められた。条約上、「開港」とは港だけを開くことではなく、町を外国に開くことである。外国船舶は貿易のため開港場には入港できるが、開市場には入港できない。開港場、開市場には外国人居留地が開設された。

◆開港式  1868年1月1日の神戸開港式は、神戸外国人居留地南端の海沿いに新装なった運上所で行われた。横浜、長崎、箱館から9年遅れての開港である。日本政府を代表して兵庫奉行柴田剛中が、フランス(レオン・ロッシュ公使)、イギリス(ハリー・パークス公使)、イタリア(デ・ラ・トゥール公使)、プロシャ(フォン・ブラント代理公使)、オランダ(ファン・ポルスブロック公使代理総領事)、アメリカ(ファン・ファルケンブルグ弁理公使)に、幕府外交事務・永井玄番頭の花押入り「開港・開市宣言書」を読みあげて手交した。通訳は英語、オランダ語に堪能な与力の森山多吉郎であった。

◆治外法権  日米修好通商条約(安政4年)では、「日本人に対し法を犯せる亜米利加人はアメリカコンシュル裁断所にて吟味の上亜米利加の法度を以て罰すへし亜米利加人へ法を犯したる日本人は日本役人糺の上日本の法度を以て罰すへし(略)」と取り決められていた。日本人が犯した犯罪は日本の奉行が裁判するが、外国人が犯した犯罪は外国領事が裁判し、日本は関与しないという取り決めであり、一見、平等であるように見える。実際、条約協議の段階で、幕府の役人はこの条項にまったく反対しなかった。役人たちは、外国人を外国領事が裁けば、日本側は面倒なことに巻き込まれないと考えたからである。けれども、犯罪が行われる場所は日本の領土であり、外国人の犯罪で侵害されるのは日本の国益であり日本人の人権なのである。

◆速力の相違  新条約が発効すれば、外国人も日本国内で居住地を自由に選ぶことができ、どこへでも自由に行けるようになる。日本側は、外国人との生活習慣の違いによるトラブルや文化摩擦を懸念した。外国人には、特権がなくなることと、異教徒である日本の法律制度、裁判制度等への不安があった。


居留地時代、居留地の警備は、居留地自治組織である居留地行事局の居留地警察が行っていたが、新条約発効で居留地が返還されれば、日本の他の地域と同様に日本の警察権が及ぶことになる。

カットの「内地雑居の暁・速力の相違」は、足が長い外国人を追いかける日本人の警官を皮肉っている。治外法権で傲慢な態度に慣れ切っていた外国人を取り締まることに、日本人警官はさぞ緊張したことであろう。

2013年3月14日木曜日

居留地返還 内地雑居 法権の回復 神戸又新日報

『セルポート』2013年3月11日号(連載通算第437号)「神戸今昔物語」

居留地返還と内地雑居

◆法権の回復  カットは「神戸又新日報」(明治30年3月1日号)に掲載された「内地雑居の暁 法権の回復」と題した風刺絵である。外国人男性が背中に「日本法典」の厚い書物を載せられて、もがいている。

「内地雑居の暁」は明治30年2月から6月まで同紙に24回連載された風刺絵シリーズである。明治政府待望の新条約の発効を2年後に控えていた頃である。新条約が発効すれば外国人には治外法権の特権がなくなることになる。

◆不平等条約撤廃  幕末、安政5(1858)年に幕府が列強と締結した「安政条約」は、外国側に領事裁判権を認め、日本側には関税自主権もないという「不平等条約」であった。条約を引き継いだ明治政府の最大の外交課題は不平等条約撤廃であった。政府は岩倉使節団派遣、鹿鳴館外交等々の涙ぐましい努力を行った。

明治27年7月、政府はイギリスとの間に治外法権の撤廃、内地開放、税率の一部引き上げ等を内容とする「日英通商航海条約」の締結に成功し、その後、日本は各国と同内様の条約を締結した。

明治32年7月17日、新条約の発効により、治外法権が撤廃され、外国人居留地が日本側に返還された。

◆内地開放  安政条約では、外国人が日本国内で住むことができるのは、横浜、長崎、函館、神戸などの「開港場」の外国人居留地のみであり、自由に行ける範囲も、居留地から半径10里以内と定められていた。

新条約が発効すれば、外国人も日本国内で自由に居住地を選ぶことができ、どこへでも自由に行けるようになる。日本側の懸念は、外国人との生活習慣の違いによるトラブルや文化摩擦であった。外国側の懸念は、それまでの特権がなくなること、キリスト教国ではない日本の法律制度、裁判制度、監獄制度等であった。不平等条約時代には、日本で罪を犯して訴追された外国人を裁くのは母国の領事であり、依拠する法律は母国の法律であったので、外国人には安心感があった。

◆神戸の「雑居地」  慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神戸は開港した。外国人居留地南端の海岸に面した場所に建てられた神戸運上所で開港式が行われた。正午、神戸沖停泊していた18隻の外国軍艦が放つ21発の号砲が山々にこだました。

開港日になっても居留地はまだ完成していなかった。朝廷による条約勅許が遅れ、幕府が居留地の造成に着手できなかったためである。外国側に約束した開港予定日の半年前になって、朝廷は勅許を下ろした。幕府は兵庫奉行柴田剛中に居留地造成を突貫工事で進めさせた。居留地は生田側と鯉川、西国街道と海岸線に囲まれた区域である。

工事中の居留地には人は住むことができない。外国人は「居留地外への居住」を認めるよう政府に要請した。政府は外国人が日本人と混在できる地域として「雑居地」を認めた。雑居地は、生田側と宇治川、山麓と海岸に囲まれた区域である。

 新条約が発効すれば日本全体が「雑居地」になる。外国人との混住への不安をユーモラスに描いた「内外人雑居の暁」を、次号以下で紹介していきたい。
 

「内地雑居の暁 法権の回復」(「神戸又新日報」明治30年3月1日号)
 

2013年3月1日金曜日

湊川神社と日本人の心 「湊川神社物語」(『セルポート』2013.3.1号)

『セルポート』2013年3月1日号(連載通算第436号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第104話

湊川神社と日本人の心

◆神職の禊(みそぎ)   初対面の人から「湊川神社の神職か」と尋ねられた。質問者はこの連載の読者とのことであった。私が知人にメール添付ファイルで送っているこの連載を、知人がその人に転送していたことが後で判明した。

湊川神社の神職に間違えられることは光栄である。湊川神社では、年数回午前8時から垣田宗彦宮司以下、神職全員が禊をする。冷水を浴びてけがれをとり身体を清浄にして神に祈願するためである。厳寒の2月17日(祈年祭)、12月31日(大みそか)の禊は、想像するだけでも心臓発作を起こしそうになる。

「なんこうさん物語」は、2010年1月1日号から連載を開始した。すでに3年3か月が経過している。湊川神社に関する講演も30回以上行った。湊川神社について書きたいことはまだ山ほどある。けれども、マンネリ化を避けるため、ここで連載はいったん休止し、「神戸今昔物語」に戻ることとする。その上で、近い将来、「なんこうさん物語」第3部を再開したい。

◆皇国史観  湊川神社の連載を始めた時、「皇国史観の象徴を書くのか」と怪訝な顔をする知人もいた。皇国史観とは「国家神道に基づき、日本歴史を万世一系の現人神である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国の歴史として描く歴史観。十五年戦争期に正統的歴史観として支配的地位を占め、国民の統合・動員に大きな役割を演じた」(『広辞苑』)である。

 第2次大戦中、軍部は戦争遂行のため「国民精神総動員」を図り、湊川神社をその象徴として利用した。神社主祭神である正成の天皇への忠誠心、大敵を撃破する智略と義、悲劇的な最期を軍部が利用したのである。

◆湊川神社と日本人の心  戦後、一部の「進歩的文化人」は、湊川神社と正成を語ることは戦前の体制を賛美することであるとして禁忌してきた。この意見は的を射ていない。湊川神社と正成を利用したのは軍部であり、利用された神社や正成には何の責任もない。国を挙げて戦争をしていた時代である。「進歩的」ともてはやされている某大新聞も、戦時中は戦意高揚と聖戦遂行を積極的に扇動していた。

 進歩的文化人には天皇の戦争責任を追及し、天皇制を否定する人までいた。この考えにも同調できない。天皇は憲法で日本国の象徴、日本国民統合の象徴と規定されており、国民から崇敬されている。大英帝国は女王陛下がおられるからこそ、他の国とは一味違う風格を持つ国なのである。同様に、天皇制を持ち天皇陛下を崇敬する国民がいるからこそ、日本は品格ある国として評価されていることを忘れてはならない。

東日本大震災で被災した日本人が、想像を絶する過酷な環境の中でも、人間としての誇りを失わず、勇気と礼節を持ち続けて助け合ってきた。その姿が海外に報道され、世界中に感動を与えた。マイケル・サンデル博士は、ハリケーン被災時の米国人と、震災地の日本人の態度を対比し、日本人の行動を絶賛している。日本人は、伝統的に、礼節、信義を重んじ、相手を尊重するという美徳を持っており、楠木正成はこの日本人の美徳を体現している。正成を祀る湊川神社を大切にすることは、日本人の魂を守り後世に伝えていくことにつながるのである。

湊川神社神職による禊(2012年12月31日)