2013年4月14日日曜日

居留地返還 内地雑居 通訳の繁盛 神戸又新日報


『セルポート』2013411日号(連載通算第440号)「神戸今昔物語」
                  内地雑居の暁 通訳

◆条約改正交渉  江戸幕府が安政51858)年以降、欧米列国と締結した通商条約は不平等条約であった。わが国に関税自主権がなく、外国領事裁判権、片務的最恵国待遇を認めていたからである。条約改正は明治政府の悲願であり、とりわけ領事裁判権の撤廃は、わが国の近代的法典編纂、裁判所制度改革と緊密に関わる最重要課題であった。

明治151月から7月まで、外務省で井上薫外務卿は、締約国代表と21回にわたる条約改正予備会議が開催され、日本裁判権回復交渉が行われた。

明治1812月、内閣府が創設され、井上薫が引き続き外務大臣に就任した。

井上外相は、明治195月から翌年7月まで計27回、外務省に各国公使を招き、「条約改正会議」を開催し、条約改正案を正式に提出した(藤原明久『日本条約改正史の研究』雄松堂出版)。

◆「通弁人の六道の辻」 新条約が発効すれば、外国人の日本国内での居住や行動の制限が撤廃され、外国人と日本人の交流機会が増え、新たに不動産を求める外国人や、日本人向けのビジネスを展開する外国人も見込まれる。ビジネスの機会が増えれば、通訳が必要になる。通訳は引く手あまたであった。

カットは、通訳が思案している様子である。通訳の前には、県庁、市役所、警察、外国商館、日本商社、旅館の6つの道が開かれている。なんともぜいたくな職業選択の思案である。

◆オランダ語通訳  幕末、日本側の通訳は、ほとんどがオランダ語通訳であった。鎖国時代には、日本人が学ぶことができる欧米語は、オランダ語に限られていたからである。

日米通商条約の協議も「日本語∸オランダ語∸英語」の3か国語を使ってなされた。条約の原本はオランダ語である。神戸開港式の通訳をした幕府の森山与四郎は、英語、オランダ語ができる稀有な通訳であった。

英国外交官アーネスト・サトウは次のように書いている。

日本側との協議には「口頭、文書のいずれによるも、常にオランダ語を媒介としていた。これは、英語を知っている日本人がまだほとんどなく、日本語を話せる外国人も片手の指で数えるほどしかなかったからだ」(『一外交官の見た明治維新』岩波新書)

オランダ語通訳は、サトウのような日本語通訳がうらやむような高給を得ていた。

「日本人が多少知っている唯一のヨーロッパ語はオランダ語だった関係上、外務省が領事職に職員を配置するようになった際、身分のいかんを問わず、この難解なオランダ語に精通しているところのイギリス人を雇ったのである。こうして、ついに四名の適任者を得たが、一人はまず公使館付きの通訳官に任命され、その後さらに高い地位に就いた。この男の俸給の一部は、オランダ語を通訳生に教える報酬として特別に課せられたものであったから、普通の俸給とはわけが違ったのだ」(サトウ・上掲書)。オランダ語通訳は希少価値があり優遇されていたのである。

 
 

 

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