居留地返還と内地雑居
◆法権の回復 カットは「神戸又新日報」(明治30年3月1日号)に掲載された「内地雑居の暁 法権の回復」と題した風刺絵である。外国人男性が背中に「日本法典」の厚い書物を載せられて、もがいている。
「内地雑居の暁」は明治30年2月から6月まで同紙に24回連載された風刺絵シリーズである。明治政府待望の新条約の発効を2年後に控えていた頃である。新条約が発効すれば外国人には治外法権の特権がなくなることになる。
◆不平等条約撤廃 幕末、安政5(1858)年に幕府が列強と締結した「安政条約」は、外国側に領事裁判権を認め、日本側には関税自主権もないという「不平等条約」であった。条約を引き継いだ明治政府の最大の外交課題は不平等条約撤廃であった。政府は岩倉使節団派遣、鹿鳴館外交等々の涙ぐましい努力を行った。
明治27年7月、政府はイギリスとの間に治外法権の撤廃、内地開放、税率の一部引き上げ等を内容とする「日英通商航海条約」の締結に成功し、その後、日本は各国と同内様の条約を締結した。
明治32年7月17日、新条約の発効により、治外法権が撤廃され、外国人居留地が日本側に返還された。
◆内地開放 安政条約では、外国人が日本国内で住むことができるのは、横浜、長崎、函館、神戸などの「開港場」の外国人居留地のみであり、自由に行ける範囲も、居留地から半径10里以内と定められていた。
新条約が発効すれば、外国人も日本国内で自由に居住地を選ぶことができ、どこへでも自由に行けるようになる。日本側の懸念は、外国人との生活習慣の違いによるトラブルや文化摩擦であった。外国側の懸念は、それまでの特権がなくなること、キリスト教国ではない日本の法律制度、裁判制度、監獄制度等であった。不平等条約時代には、日本で罪を犯して訴追された外国人を裁くのは母国の領事であり、依拠する法律は母国の法律であったので、外国人には安心感があった。
◆神戸の「雑居地」 慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神戸は開港した。外国人居留地南端の海岸に面した場所に建てられた神戸運上所で開港式が行われた。正午、神戸沖停泊していた18隻の外国軍艦が放つ21発の号砲が山々にこだました。
開港日になっても居留地はまだ完成していなかった。朝廷による条約勅許が遅れ、幕府が居留地の造成に着手できなかったためである。外国側に約束した開港予定日の半年前になって、朝廷は勅許を下ろした。幕府は兵庫奉行柴田剛中に居留地造成を突貫工事で進めさせた。居留地は生田側と鯉川、西国街道と海岸線に囲まれた区域である。
工事中の居留地には人は住むことができない。外国人は「居留地外への居住」を認めるよう政府に要請した。政府は外国人が日本人と混在できる地域として「雑居地」を認めた。雑居地は、生田側と宇治川、山麓と海岸に囲まれた区域である。
新条約が発効すれば日本全体が「雑居地」になる。外国人との混住への不安をユーモラスに描いた「内外人雑居の暁」を、次号以下で紹介していきたい。
「内地雑居の暁 法権の回復」(「神戸又新日報」明治30年3月1日号)
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