開港直後の神戸の外国人
◆工事中の外国人居留地 新たに開港した神戸に、世界中から一獲千金を夢見た外国人が来航した。開港日、神戸村の外国人居留地は工事中であった。
将軍慶喜の再三の強硬な要請をうけた朝廷が、しぶしぶ「兵庫開港」の勅許を下したのは、幕府が諸外国に約束した開港日の半年前、1868年6月26日(慶応3.5.24)であった。幕府は、外国奉行柴田剛中を兵庫奉行に任命し、居留地を突貫工事で建設させた。
居留地が完成するまでの間、外国人は居留地周辺の民家を住居兼事務所として借り上げた。当時の地図から、居留地周辺の外国人の借家を確認できる。
◆領事館も居留地の外に設置 英国は、領事館を旧海軍操練所跡に開設した。場所は、現在の東遊園地噴水公園南辺りである。米国は、神戸村庄屋の生島四郎大夫の屋敷に領事館を設置した。現在、海岸通りの郵船ビルがある地点である。フランスは、現在の鯉川筋沿い栄町通りの南かどに、プロシャは、元町通りと鯉川筋の交差点に、オランダは、みなと銀行本店の場所に、それぞれ領事館を開設した。
◆法外な家賃 横浜の英字週刊紙『ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メール』(1868.1.29号)は、開港直後の神戸での外国人の困惑ぶりを次のように紹介した。
「あばら家同然の粗末な建物に対して、途方もなく高額の家賃が請求されている」。「私の事務所は、(略)街路に面しているため、戸口には、たえず黒山の人だかりがしていて、私をじろじろと見つめ、人をさげすむヤジを飛ばしている」。
当時、外国人は極めて珍しかったので、周辺の村から人々が外国人を見物に来ていた。
◆外国人の困惑 外国人が困惑したことは次の4点であった。
第1は、工事中の居留地には、商館も住居も建設できず、商売ができないことであった。
第2は、法外な家賃であった。彼らが間借りした日本家屋は、欧米の水準から見ると、みすぼらしい木造住宅であった。部屋には鍵がかからず、プライバシーはなかった。居留地の商館と住居が完成するまでの間、彼等はこのような家に、法外な家賃を払い住み続けなければならなかった。
第3は、生命の危機であった。居留地北側の西国街道を往来する帯刀した武士の姿は彼等を恐れさせた。
開港約1か月後(1868.2.4)に、神戸三宮神社前で、備前藩士と外国人の衝突事件(「神戸事件」)が起きた。沖に停泊する外国軍艦から陸戦隊が上陸して備前藩兵と交戦した。いつなんどき、再び衝突が起きるかわからない、と彼等は恐れた。「治外法権」の居留地の完成が待ち遠しかった。
第4は、食事であった。異国で生活する彼らには、食べることが大きな楽しみであった。けれども、神戸には、欧米風の食べものが他に入らなかった。そんな彼等にとり、前号で紹介した、横浜の業者による『ヒョーゴ・ニュース』の広告(2月1日号、11日号)の食品リストは、文字通り、「垂涎の的」であった。
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