明治天皇とアンパン
◆行幸 明治8年4月4日、天皇は皇后とともに、宮内卿徳大寺實則、侍従長東久世通禧らを従えて、本所小梅村の旧水戸藩下屋敷徳川昭武邸に行幸した。昭武、息子篤敬、親族の池田慶徳、池田茂政、松平頼聰、松平忠和、土屋擧直らが門外で出迎えた。
「樓上の玉座に著御し、御昼餐を取りたまひ、光圀・齊昭の遺書、肖像及び和漢の書畫・器什を天覧、昭武等一門親戚十五人に謁を賜ひ、特に齊彬の生母を慰諭したまひ、真綿三巻・縮緬一巻を賜ふ」(『明治天皇紀)』。
◆アンパン この行幸で、天皇は初めてアンパンを食された。アンパンは、侍従山岡鉄舟の勧めを受けて徳川昭武家が供した。パンの真中をへこませてそこに桜の花びらの塩漬けをのせたアンパンである(安達
巌『パンの日本史』)。
アンパンを作ったのは、常陸国生れの元下級武士、木村安兵衛(1817~1889)である。
木村は、明治維新とともに東京に来て、つてを頼って東京府授産所の事務員となり、そこでパンを知った。明治2年、木村は、東京芝日陰町でベーカリー「木村屋総本店」を開業した。動機は、パンが「江戸患い」(脚気)の妙薬といわれていたからである。木村は、長崎オランダ屋敷で製パンの心得があった梅吉という男を雇い入れた。
パンは「パン種」(イースト)がなければできない。木村は、日本酒の素となる酒種を、パン種に応用することに成功し、酒種生地に小豆餡を包んで焼いたアンパンを試作した。日本酒の香りがする日本的なパンができあがった。木村がパン店を開いたのが明治2年、アンパンを完成させたのが明治8年である。実に6年の歳月をかけて開発したパンであった。
木村はそのパンを持って、剣道同門の山岡鉄舟(1836~1888)を訪ね感想を聞いた。このとき、鉄舟は明治天皇の侍従をしていた。西郷隆盛の推薦であった。鉄舟は、アンパンを気に入り、明治天皇のお茶菓子として推薦することとした。このパンなら、明治天皇御製の「よきをとり あしきをすてゝ 外国(とつくに)に おとらぬ国と なすよしもがな」の考えに沿うと考えたのである。鉄舟は、「自分がこれを陛下にお薦めするから、それまで市販しないように」と、木村にくぎを刺した。
◆なぜ行幸先か 鉄舟にとっても、天皇に初めてアンパンを提供することは勇気がいった。宮中には、京都からお伴して来た伝統ある和菓子職人たちがいた。宮中では、とても、このような珍しいパンを陛下に差し上げることはできなかった。けれども、行幸先で提供する形となると、そのような反対者はいない。
アンパンは、天皇、皇后に、大変気に入られ、鉄舟はほっと胸をなでおろした。
鹿鳴館時代の初期には、アンパンは銀座名物となった。鉄舟が揮毫した「木村屋の店看板」も、銀座名物の一つになった。このころの流行語「文明開化の七つ道具」は、「あんパン、ガス灯、新聞紙、写真絵、蒸気船、陸蒸気、軽気球」であった。
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