2015年3月16日月曜日

ドイツのビール職人養成学校広告(『セルポート』150311号 通算503号)


ドイツのビール職人養成学校広告


◆ビール製造学校生徒募集広告  明治9年、神戸で発行されていた英字紙THE HIOGO NEWS187611日号)に、ドイツのビール職人養成学校の生徒募集広告が出た。西南戦争の前年である。


ビール製造実践的教習

ビール醸造学校

ライン河沿いボルムス

生徒を受け入れ開始111日。年間授業料400英ポンド

                  P.レーマン(取締役)

ドイツヘッセ大公国、ライン河沿いボルムス

なぜ、ドイツの職人養成学校が神戸の英字紙に広告を出したのか。英字紙であるので、読者は神戸と大阪在住の外国人である。広告の狙いは、ビール醸造所を経営する外国人に、彼らが雇っていた日本人職人に醸造技術を学ばせるため、と筆者は考えている

学校所在地のヴォルムスは、ドイツ中部のライン側沿いの人口約8万人の町である。この町は、宗教改革を主張するマルティン・ルターの帝国追放を決定した帝国議会開催地として知られている。町のシンボルは大聖堂である。

ヴォルムスという地名を見つけたとき、筆者に34年前にこの町を訪れたときの記憶がよみがえった。筆者は、当時ヴォルムスの南25kmのルードヴィックス・ハーフェンというライン河沿いの町で下宿し、毎日、市電でライン川を渡って対岸のマンハイムの語学学校に通っていた。11月のある日曜日、ふと思い立って、国鉄を利用してヴォルムスへ行き、3時間ほど町を歩きまわった。何の変哲もない町であったと記憶している。それでも、一度訪れたことがある町は、心のどこかに残るものだ。

◆日本人のビールとの遭遇   我が国で初めてビールを作ったのは、幕末の蘭法医川本幸民である。三田藩出身の川本は、オランダ語の書物の記載に基づいて、現在の東京新橋5丁目にあった自宅でビールを試作した(植田敏郎『ビールのすべて』)。

 幕末遣米使節団に参加した仙台藩士の玉虫左大夫が、往路、米国軍艦ポーハタン号艦上で、ジョージワシントン記念日にふるまわれたビールを、ブリキ製のジョッキで飲み、「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足る」と書いたことは前号で紹介した。

使節団の目的は、日米通商航海条約批准交換であった。新見豊前守正興を正使とする一行は、万延元(1860)年118日、米国軍艦ポーハタン号で品川を出発し米国に向かった。使節団に先行し、軍艦奉行木村摂津守、船将勝麟太郎(海舟)が、5日前の113日に咸臨丸で品川を出航した。中浜万次郎、福沢諭吉らも同行している。

◆我が国初のビール醸造所  明治の初め(元年~3年頃)、ノルウエー生まれの米国人ビール醸造技師ウイリアム・コープランドが,横浜山の手の水質の良さに目をつけ、天沼にスプリング・バレー・ブリュアリーを設立した。醸造所は、その後、紆余曲折を経て、総代理店の明治屋が「キリンビール」の銘柄で製品を販売し、明治40年に日本人に経営譲渡されて麒麟麦酒株式会社になった。

※ 本稿から引用する場合は、必ず、当ブログからの引用と明記してください。

 

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